これ何て呼びますか

大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

A 回答 (65件中31~40件)

 こればかりは「本人に聞いてみる」のが一番だと思います。



 個人的には知らないもので・・・
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本能寺の変は実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であった、それともやはり光秀の謀反であったのか、、実は答えはそのどちらでもないでしょう。


本当に最近分かった事ですが徳川家康と豊臣秀吉は
『過去に存在しなかった人』です。
今尚、教科書には昔と同じように書かれたままですが、今更論説を曲げる事は日本史の崩壊に繋がるという事が懸念されたからです。
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八切 止夫 の「信長殺し、光秀ではない」という本は読んでおくといいと思う。


最近では、佐藤雅美の「信長」も読んでおくといいかも。

いまだと秀吉が大がえしをやったから、光秀ってバカだなってことになってるけど、計算の結果、あの行動に出たんだと思う。毛利に早い段階で信長を討ったことを伝えてれば、勝たなくても独立は可能だったと思う。それを察知、封殺した秀吉がやっぱりすごいわけだけど。
松永久秀、荒木村重のことなんか考えても、成算があるからやるわけだし。
今みたいにこんなに情報が早く伝わる世の中じゃないし、その中で計算するわけだからねぇ。

だから、私はやっぱり光秀がやったんだと思うよ。長男信忠を二条城で討ってるわけだしさ。

昔、読んだ小説では信長が天海上人になったってのがあったなぁ。


あと、論議になっちゃうから示唆だけしておくと、
信長は征夷大将軍を打診されている→源氏じゃないと将軍になれないというのは確定的な話ではないです。実際に貴族や皇族の将軍もいたけど、源氏というか武士ですらない。
徳川家は源氏→前の方が話されてるように、徳川家が源氏になったのは実はあとづけとされてます。。正統な新田の子孫、岩松家の家筋を乗っ取ろうとした話がある。(「猫男爵」という本を読むと面白いです。)


こういうお話が好きなら、本当に八切 止夫はおすすめです。
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私の住んでいる県に、明智平は確かにあります。


本能寺の変も家康が唆したという説もあり非常に興味深いところです。光秀=天海僧正という説も考えるだけで楽しいですね。
ただ、実際はどうなのでしょう?
明智平=明智光秀っていうのも具体性に欠けるものがありますし、日光東照宮の資料館にも明智家に関わるものは一切ありません。
もしかしたら、東照宮などに秘密の鍵があるかもしれないですね!
週末にでも行こうかな(^^
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今年の大河ドラマには、安徳天皇は入水してなくて僧門に入っていた、とにおわせるエピソードもありましたね。



「光秀が生きていた」説は「世界ふしぎ発見」で数年前にやってましたね。あの番組は元ネタが最近の本であることが多いようなので、探せばあるんじゃないでしょうか。

それから、聖徳太子は実在しなかった、というのも聞いたことがありますね。

私が中学生の頃「ムー」という雑誌に、「本能寺の変」は信長が鬼に襲われ光秀が助けに向かった事件だった、というような記事がありました。
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>No.25


>天皇制を破壊、廃止しようとするモノは
>不思議な力が働いて抹殺されてしまう。
>というのが私の個人的な持論です。

「大河ドラマ・義経」でも
後白河法皇の「2枚舌・3枚舌」
「権謀術策」恐るべしですね!
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明智光秀は、源氏であったので征夷大将軍になれる資格はありましたね。

小田信長は平氏ですからその資格が無かったので、朝廷には冷たかったですね。それゆえ自分が神だと言い出したのですから刺客はでますね。一方、松(平)家康は、名の通り平氏ですから徳川の源氏姓を手に入れても負い目はあったでしょうね。つまり、朝廷としては源氏の明智を征夷大将軍にしたかったのでしょう。それゆえ、えせ源氏の徳川は明智をないがしろにはできなかったのではないでしょうか。当然、家康は妻子を殺された恨みも小田信長へあったと思われますから、信長を討った明智をよきものと思っていたのではないでしょうか。それは、孫の家光の乳母が明智の家来の娘であったことからも伺えますね。戦国時代は、物言わぬ朝廷と源氏、平氏の権力闘争であったことは確かですね。
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明智光秀自身、異端者なので難しいですね。


第一、将軍家と織田家とに二重に仕えていた光秀を信用する人がいたのかどいうか怪しいですね。
細川親子はきちんと足利義昭と縁を切ってから、織田信長に仕えていますが、光秀だけ二君に仕えていたのです。
戦国時代唯一です。それに明智光秀がいくら教養にありふれても室町の教養の旧体制のもので、一国はまとめる器はあったにせよ、新時代を築ける才能は無かったと思います。

明智光秀の欠点はやはり家臣が不甲斐なかった点もありますね。優秀な参謀、副官に恵まれなかった。自分が旧体制の側で、家臣も旧体制の思考しか無かった。
ある意味、家臣に説得されたのもうなづけるかもしれません。なにせ、反逆したのに光秀側の離反者は出ていないのですし。

補足を言えば、織田家臣団の中で最もスピード出世したのは明智光秀です。軍団長の中で新株です。異例中の異例ですね。となるとやはり武将としての能力は一流だったんですね。

後、たしか長篠の火縄銃は織田信長の指令には総数が3000丁以上を集めるように各部隊に打電しています。3000丁の鉄砲は指令書から推測しているそうです。
しかし、各部隊の保有数を遥かに超えており、部隊の金庫を空にしても集まらず、銃の高騰もあって満足に揃えれなかったそうです。さらに、新品、中古をかき集め、しかもメンテもしていない状態で集めたので、実際に使えた鉄砲はよくわからないそうです。
鉄砲隊の育成に時間がかかるのに、急遽編成した新鉄砲隊が活躍できたとは思えません。

長篠は結局消耗戦になり数字の上では「引き分け」だそうですね。大勝利ならこのあと追撃して信濃、遠州は落ちてます。そうならなかったのは織田の被害も馬鹿にならなかったのです。これは織田方のメディア戦略とも言われてますね。誇大に宣伝して四方の敵をけん制する。
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まず質問者さんの「日本史学的に」ということについて述べさせてください。

日本史学的な意見となりますと歴史学の定義による「光秀事案」を論じることになります。となりますと、あくまで「光秀は実は生きていた」などということは日本史学という枠組みでは学となり得ません。歴史学の基礎として、事実を積み重ねた上での結果として出来事を認識します。ので、確定的な(証拠が自明とされる)要件ではない「光秀生存説」ということは、歴史学の視点でいうことは不可能です。(歴史学にifはないといわれるのはこの所以です)
ただし、歴史学という枠組みを外して考えることは面白いので悪いことではないですし、作家も諸説提案していますから想定してみる余地はあろうかと思います。
で、「光秀生存説」ですが、個人的には光秀が本能寺の変以後、天海という僧侶として徳川政権のフィクサーをしていたということは無理だろうと思います。なぜかということですが、家康にとってリスクを負ってまで生かす理由がないということ。つまり、先にお答えになられている方がいますが、家康にとって天下取りの最大の障害は2点。豊臣家と松平ではなく自明な源氏の末裔だということを朝廷に知らせしむことだっあっと考えています。前者は武力によって、後者は徳川になることで解決しました。
筑波や日光に光秀由来の場所・モノ、高野山に光秀の墓を建立などをもって「光秀生存説」はなりたっていますが、天海が明智家を個人的に慕っていたなどいくらでも理由は考えられますし、当時の世相を見るに大名クラスとなると地縁血縁関係者などは天文学的数値と考えて問題ないかと思いますし、北条氏や斉藤氏を考えてもかなり出所が曖昧な時代です。
血の正統性が確固たるモノとして確立するのは実は江戸時代中期ですし、夢はないですが私は「光秀は史実通り京都市山科区において農民に惨殺された」のこれまでの説をとりたいと思います。
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黒幕がいたという説は知りませんが、光秀は朝廷をないがしろにする信長に対して不満を持っていたとか、信長に母親を殺された怨みがあるとか言われています。


信長が浅井長政を討って、その頭蓋骨で杯を作った際に、光秀が激しく動揺したという言い伝えもあるそうで、正直ついていけなかったんでしょうね。
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