性格いい人が優勝

大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

A 回答 (65件中41~50件)

踊らされたかどうかは別にしても 光秀はインテリであり朝廷ににも忠誠心があった可能性は大でしょう。



ところで本能寺の変の当時は秀吉は毛利攻めの最中、家康は堺に旅行中と下手をしたら命を落としかねない状況にあり、暗殺計画を知っていたとは思えません。
京・安土・岐阜に近いところに居てある程度の手勢を持っている人物の方が黒幕にふさわしいと思います

家康が源氏の頭領ということになったのは征夷大将軍職を得るために必要だったからで、(歴代の将軍は全て源氏)本当に源氏の血を引いているかというとかなり怪しいと思います。井沢元彦 著「逆説の日本史」でも触れられてます
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私は以前より、



24番
回答者:donna13さんの

>私は光秀が朝廷に踊らされたのでは

と同じ立場をとっています。

古来より朝廷や天皇の立場を危うくする、
もっとズバリ申しますと
天皇制を破壊、廃止しようとするモノは
不思議な力が働いて抹殺されてしまう。
というのが私の個人的な持論です。

信長は天皇制を廃止して、
自分が新しい王となり
完全に新しい秩序を創出するつもりだったと
私は考えています。

ですから、黒幕が朝廷であったかどうかまでははっきり判りませんが、
天皇制を存続させようとする、
巨大な力によって、信長は抹殺されたと考えています。
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ちょっと本題とは逸れますが...


>本能寺は「寺」であって、籠城できるような「城」ではない。
現在の本能寺は町中の小さなお寺ですが、当時の本能寺は別の場所に有り、敷地はとても広いものでした
数年前まで「本能小学校」がありましたが、現在はマンション建設中です
本能小学校時代、更地時代、マンション建築現場それぞれを見に行きましたが、かなりの広さです
また、万が一の時の備えとして造りは堅固だったそうです
当時は僧兵を擁しているお寺もあった程ですから、いかに信長と言えども、囲まれただけで簡単に落ちてしまう場所に宿泊するような無謀なことはしなかったと思います

本能寺の変は色々と説がありますが、私は光秀が朝廷に踊らされたのでは?と密かに思っています
しかし光秀の思い付き程度であんなに事が順調に進むのかという疑問も大きくありまして、やはり秀吉が後ろで何らかの手を引いていたのでは...と個人的に思っています
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>2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている


秀忠の「秀」は秀吉からもらったと見るべきでは?

最近、影武者徳川家康にはまってます。
じつは家康は関ヶ原で死に、以後は影武者がすりかわっていた、というもの。
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東照宮の「明智家の家紋」って「桔梗紋」のことでしょうか。

明智は源氏ですね。徳川も源氏ですね。源氏の家紋は「桔梗紋」ですね。

【問】
なぜ東照宮に桔梗紋があるか

【答】
徳川が源氏だから

こっちの方が自然ではないですか? 明智との関係を隠したいのであれば、わざわざ証拠を残すようなことはしないでしょうね。
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こんな説を聞いた事があります。


信長は岐阜城を築いた後で、城内にご神体と称して
石を置き、これを神である自分として崇めるようにした。
詰まり、自分は神であると宣言した訳です。これに伴い
これまで庇護していた耶蘇教を禁止しようとしました。
これに危機感を抱いたのは当時キリスト教の布教に来ていた宣教師達で、ルイス・フロイス達はキリスト教としては絶対神ゼウス以外は認められない。自分を神という信長は除かれるべき存在と成った訳で、そこで光秀をそそのかして信長を打たせたとか。
ルイス・フロイス等当時の宣教師達はフリー・メーソンのメンバーで、フリー・メーソンの陰謀説は面白い。
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なにかで見たことがあるのですが、実は三代将軍の家光は秀忠の子でなく、光秀の子と言う説をみました。

家光の実験を影で握っていたのが乳母おふく(後の春日局)ですが、おふくは光秀に仕えていた家臣(斉藤利三)の娘でありました。実際、乳母を募集して選ばれたらしいですが、家康が同盟国の信長を討った逆心の家臣の娘を乳母に選ぶのもおかしい話です。やはりそういう意味で家康と光秀が本能寺の変の裏ではつながっていたかもしれません。日光の明智平も天海が命名し、その時に天海が作った歌の「かごめ、かごめ籠の鳥」がって歌にはテレビでみましたが、徳川家の埋蔵金のありかが隠された歌と言ってました。鶴と亀がすべるとは家康と秀吉をさしているのでしょうか?本能寺の変は秀吉は信長に光秀謀反の疑いありと何度もしきりに使者を使い言っていたそうです。秀吉はある程度謀反がおきた事を想定しながら毛利と対陣していたのかと思います。中国大返しは神業に近いですね。あくまでも自論で適当な答えにしかすぎませんが、秀吉も、あえて信長の出陣を要請した裏には陰謀があったと僕も思います。そしてその陰謀の真の画策者は黒田如水と思っています。笑
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No.18 ivallo です。

一つ、名前を間違えました。謙信の影武者は「垂水荒川伊豆守」でした。
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 まず、明智光秀が徳川家に入り優遇されたという説は、家康の懐刀、天海僧正が実は明智光秀だったとするものです。

実は、筆跡鑑定から天海僧正と明智光秀は同一人物ではないとされています。しかし、この二人の筆跡は非常に近いものがあり、こういった傾向は父子によく見られるものです。年齢的に見ても天海僧正は光秀の息子と見るのが一番しっくり来ます。
 日光の話題ですが、日光東照宮に行った時に屋根の先の部分をよく見て下さい。そこには徳川家ではなく明智家の家紋が入っています。間違いなく、明智家は徳川家に重宝されていたはずです。おそらく天海僧正が明智家の者でしょう。二代三代将軍の名前は気がつきませんでした、お見事です。
 さて、本能寺の変の後、一番権力を得たのは秀吉です。そこで成り立つもう一つの説は、秀吉の部隊が信長を暗殺したというものです。光秀の部隊は単に火事を聞きつけて本能寺に駆けつけただけで、信長を討ったのではない。しかし、光秀はその後すぐに秀吉に破れており、実際には誰が信長を討ったのかどうかは闇に葬ることができた。勝てば官軍の論理で、秀吉は光秀の罪をでっち上げることができる条件にあり、従って、本能寺の変は秀吉によるものだとする説が成り立つ。
 しかも、本能寺の変の直後、秀吉は迅速に京都に駆けつけており、しかも、毛利家との講和も、本来は、信長の到着後に結ぶべきなのに大至急結んでいる。

 さて、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちについて話します。一般には、川中島の合戦で、謙信が単騎、信玄に切り掛かり、三度七太刀まじえたとされています。しかし、この時の謙信は影武者であり、実際には垂水伊豆守であったと上杉家・武田家・そして、垂水家の母体である河村家に記されています。この後、垂水伊豆守は信玄の脇にいた槍の名手(名前がすぐに出ません、ごめん)によって、討ち取られ、最期を迎えたようです。
 実際、当主たる上杉謙信が単騎敵陣に切り掛かることは危険きわまりなく、そのようなことを謙信がするはずもありません。
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>本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。


 まずあり得ないでしょうね。家康と秀吉の共謀だとすると、後に徳川家と豊臣家は対立するのですから、その時に真相の暴露合戦になるはずです。特に信長殺害及び光秀討伐に徳川家康は何も寄与していませんから、「本能寺の変は、全て豊臣側の陰謀だった!」と主張しても、徳川家は何も傷つかないはずです。あれほど謀略の限りをつくして豊臣家を滅ぼした家康が、その程度のことをしないはずがありません。公に主張しなくても、噂を流すだけでも効果は大のはずです。
 それをしないのは、当時としてもあまりにも荒唐無稽で誰も信じないことだったから、ということです。

>そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
 天海僧正のことでしょうが、天海と光秀が同一人物なら、当時から光秀を見知っている人は大勢いるのですから、江戸城内で気がつかないはずがありません。徳川の家臣ならともかく、他家の大名に気付かれたらどうなるでしょうか。徳川の天下は、まだまだけっして盤石だったわけではありません。「光秀が江戸城内にいる!? どういうことだ? 織田信長様が殺されたのは、実は徳川の謀略?」という噂が流れたら、真相である以上止めようがなくなってしまいます。

>その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前
>には光秀の字がつけられている、
 家康が光秀に好意を抱いていたことは事実でしょうね。家光の乳母・春日の局も光秀の重臣の娘ですし。2代秀忠,3代家光の名前も、光秀にちなんでいたことは多分本当でしょう。

>この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?
>やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・
 単なる奇説・妄説として完全に無視されています。そもそも史学では、文献的裏付けがない説は学説としてすら認められません。単なる妄想扱いです。
 それ自体(文献至上主義)は、私は良くない姿勢だと思っています。しかし、これだけ巨大で、多くの人に影響を与え、真相がわかる人にはあからさまにわかる謀略が行われていながら、同時代人の文献的裏付けが何にもない、というのはおかしなことです。
 滅ぼされた織田家や豊臣側や、徳川家を快く思わない公家や僧侶、外様大名家、あるいはルイス・フロイスなどの宣教師の手紙や日記に、どこか記録されていそうなものです。
 それがない、ということは、事実もない、と判断するしかないことなのです。
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