第二次世界大戦について、その責任と謝罪が問題になりますが、ほとんどが外国との問題です。

よく考えると、日本国民はどうなるのでしょうか。当時の権力者の中で、正式に日本国民に謝罪した者がいますか。

天皇、政治家、軍部その他。

(謝罪は、戦争に勝てなかったことを詫びるのではなく、戦争を始めて国民を抑圧したことです。)

教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (14件中1~10件)

最近の日本人(特にgoo教えての投稿者さん達)には、理解の範囲を超える面があるかもしれないと考えましたのでアドバイス投稿しますね。



時代の違いを少し説明します。

>当時の権力者の中で、正式に日本国民に謝罪した者がいますか。
当時の日本国の権力者が謝罪する相手は【天皇か上官か組織】です。  権力者達にとっては『国民って誰のこと?』というレベルの感覚です。 当時の国体は今現在の日本人平民の感覚でいうならば【ヤクザ組織】に似たところがあります。

戦後になって主権者は国民であり、天皇は象徴ということになりましたが、あいかわらず天皇制という制度については変化が無い(?)というか、変化させまいとする意思が終戦直後から現在まで働きます。  現在の北朝鮮の国内状況を作ったのは元日本人達です。


戦後、天皇の臣下達は【天皇の戦争責任】の追求を回避するという目的であれば、いかなる犠牲があっても当然と考えます。 また、それは当時の大人(皇軍兵士)達も止むを得ないと考えます。 例えば、

南京大虐殺が東京裁判の判決であり、これを認める事が【天皇制を守るために必要と考える】のであれば諸外国に対して謝罪する必要ありと判断されました。 まず天皇を守る事を優先します。 なぜなら彼らは天皇の臣下だからです。 同時に【日本人という人種の凶暴性の責任】にする事でGHQ(米国)に協力する天皇制為政者達の面目も保たれると考えます。 なぜなら戦時中の米国人は【日本人という人種を絶滅する意思があった】事は米国人も認めるはずと考えるからです。

東京裁判と諸判決は、サンフランシスコ講和条約以後も有効であり、これは天皇制を守るために必要・有効であると考えられています。 右翼はもちろん、GHQ、保守合同、勝共連合、戦中の大人達(皇軍兵士)にとってだけ必要であった訳ではありません。 終戦後、一般の日本人は争って占領政策を歓迎しました。

そして、日本国民(現在の朝鮮人・台湾人を含む)にとって功績のあった人、日本の軍国主義を諫めた人、捕虜に親切にした人、現地人と協力するために苦労した人、・・・・ これらの人々が【戦争犯罪人】であり、日本人はこの戦争犯罪人どもを『徹底的に追求して処罰すべきである』という論に乗ってなんと【遺族や親族が差別、虐待される】という例が戦後あります。 まあ裁判所は行政管理監督者として、公表しないでしょう。

終戦直後、東京裁判の諸判決に異議を唱える国民を代弁したのは野党社会党でした。 もちろん、政権政党はGHQ、米国の要求に応えると同時に【異議がある国民の期待に応える】必要もありました。 政治状況が180度一編したのは朝鮮戦争、レッドパージ以後です。

>当時の権力者の中で、正式に日本国民に謝罪した者がいますか。
【戦争に負けた】結果について、天皇陛下に詫びて腹を切った国民の大半は名無しなんですよ。 もちろん戦死者の後追い自殺の意味もあります。
ですから謝罪するという事であれば【謝罪の意味内容を、もう少し詳細にする】努力をしていただく事が歴史を知る上で必要なんですよね。

乱文、参考意見についてお詫びいたします。 
尚、記憶が曖昧なまま投稿しましたので、間違いの指摘は歓迎ます。が議論できませんので2度目投稿はしません。 よろしくお願い致します。
    • good
    • 0

>謝罪は戦争に勝てなかったことを詫びるのでなく、戦争を始めて国民を抑圧したことです。


まず日本国民を抑圧したのがアメリカだと言ふことを知っていたから国民は米英との戦争を受け入れたことを知るべきです。開戦当時の国内の雰囲気は良く遣ったと軍部の行動を支持する世論であったはずです。戦力的にもアメリカに充分対抗出来る軍備を備えていて山本五十六が描いていた真珠湾攻撃をしていたならそれ以後の海戦はもっと違った戦闘になっていた可能性があります。アメリカの排日政策により石油を止められた日本では木炭自動車が走り国民には不満と怒りが満ちていたことで
国民を開戦に踏み切らせたことを知るべきです、当時のマスコミでもし米英と戦争になったらなど心配する論調などないはずです。第二次世界大戦までは一般住民が攻撃対象ではなく戦争は軍人同士の戦いで一般住民は戦場から避難すれば殺傷されることはなく、戦火の収まるのをまてばよいものであったのが、第二次大戦でドイツのドレスデンの爆撃で一般住民を虐殺されてから日本も都市爆撃されることを恐れて疎開を考えるようになったようである。アメリカには伝統的に異人種の虐殺を罪悪視しない風潮があるようで、日本人のような有色人種など虐殺の対象でしかなかったはずです。戦勝国の開いた裁判では敗戦国の日本の言い分
を発表せずアメリカの一般住民の虐殺などとりあげられませんでした。あの裁判を公平な裁判と印象ずけたいならアメリカが原爆投下をまず謝罪するべきである。日本の謝罪の時もアメリカが謝罪するならと前提を付けて謝罪すべきであったと思っている。
日本人で日本国民に謝罪すべき人がいるなら軍人でありながらその任務を充分果たさず敗戦の責任を問われる者達はいると思うが、そのような詮索は戦後すぐにやらないかぎりいまさら無理だろう。戦争を始めると国民を抑圧することになるのがいやで、外国の抑圧を受け入れる政府など国民からの支持はえられないだろう。それでなくとも2、26事件など青年将校などが不穏な動きをしていた時代である。国民には誰に責任をとってもらったら適当かなど判断できないだろう。
    • good
    • 0

最後の陸相であった下村定大将が、敗戦後、帝国議会に於いて(改憲前なので)、答弁を行っています。



http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/ …
    • good
    • 0

東京裁判が正しいとは思わないが判決が出て絞首刑。

天皇は退位、軍首脳部、政治家は切腹していれば今頃になってああだこうだと言われる事はなかったと思う。日本人が自分たちで決着つけなかった事が一番の原因だ。
    • good
    • 0

戦犯裁判で1068人も処刑されたからそれでいいんでない?



そのせいで、国内責任問題が吹っ飛んじゃったとも言えそうですけど。

しかし、切腹した人も多数居られますし、遺族年金は支払われていますし、

そもそもあの戦争を仕掛けたのはアメリカですからね。
    • good
    • 0

少なくとも, 昭和天皇についていえば「立憲君主制を守る」という意思を持っていたふしがあります (これは, 昭和天皇が崇拝していた明治天皇も同じですが). その結果, 自分が反対していても下から挙がってきた意見はだいたい通しています. 自分の意見を押し通した事例は, 226事件と降伏受け入れを含めてもわずかしかないはず.


これは「天皇の政治責任」とも, 「立憲君主制における理想的な君主の姿」ともとらえることができます. 前者ととらえれば「責任をとる」という話になるでしょうが, 後者ととらえれば「責任ってなに?」ということになるでしょう.
いずれにしても, 「政治責任」をうたうなら, 「当時の法に照らしてどこが不法行為であったか」を指摘する必要があると思います. まあ, これを推し進めるとドイツみたいに「戦争で被害を与えたかもしれないけど, それはドイツ国内法に鑑みて不法行為じゃないから謝罪しない」となったりしますが.
以下余談:
今の北朝鮮の国内状況を作ったのが元日本人ってのは, ある意味当然だよなぁ. 朝鮮戦争自体, 「元日本人同士の戦い」でもあるわけだし.
でもって, 東京裁判における判決の効果は, 今は消えているはずです. 確か, 国会で決議してるし講和会議参加国も認めているはず.
あと, 戦前に共産主義者が収監されていたってのは, 治安維持法違反も多いんだけど, 暴行罪や殺人罪などもちょくちょく見受けられます (当時は, どうも内ゲバが盛んだったらしい). 先日亡くなった宮本名誉議長なんかも, 「治安維持法違反が罪状に含まれていたので恩赦をうけた (実際には暴行罪なども含まれていたのに)」と言われたりしますね.
    • good
    • 0

あくまで私個人の見解ですが、天皇人間宣言は昭和天皇なりのある種の謝罪だったと思います。


ただ、天皇に戦争責任を求めるのはちょいと酷な面がありまして、そもそも当時において天皇が自ら「ああせい、こうせい」というのはタブーだったんですね。もう、システムがきっちり出来上がっていて御前会議(天皇が出席する国家の重要な決め事をする会議)で「陛下、こうなります」といわれたら「うむ」といってそれにハンコを押すだけの形骸化したものになっていたんですね。
これは、今でも内閣の大臣を任命するときもそうですね。最終的に、天皇から親書が渡されるわけですよ。この親書がないと「公式に」大臣になったとはいえないんですが、天皇が「アイツは気にいらねえなあ」と親書を渡すのを拒否することってありえないですよね。それと同じです。
でも日米開戦が近づいたときは昭和天皇は再三「アメリカと戦争して本当に大丈夫か」と質問しています。しかもとうとう、本来は天皇の発言はない御前会議で「発言する」と言い出して侍従たちを慌てさせたこともありました。昭和天皇自身は日米開戦に反対だったようです。

戦後、昭和天皇は全国各地を回りますが、それは彼なりの国民へのお詫び行脚じゃなかったかなあと思います。
    • good
    • 0

戦争責任とか謝罪要求とかは



戦勝国が負けた相手に要求しているだけのことです

非があったから責任があり謝罪するのでは無く

負けたから、勝ったほうが要求することを認めざる得ないだけのことなのです(条件付講和に持ち込め無かったため、理不尽な要求で有ろうが言いがかりであろうが鬱憤晴らしであろうが、全ての責任を押し付けられただけです)

講和条約を締結して以降、そのような要求に応じる必要は無かったのに、一部マスコミと政治家が扇動して、おかしな風潮を作ってしまい
それに付け込まれているのが現状です

>(謝罪は、戦争に勝てなかったことを詫びるのではなく、戦争を始めて国民を抑圧したことです。)

これは、他の回答にもあるように質問者の調査不足を露呈しているだけです
特高云々は、ごく一部の、特定の思想に凝り固まっていた人には恐怖だったかも知れませんが、大多数の国民には関与しないことです

もっともらしく思えることも ほとんどが 後付です

この有名な例は 少年H です

お調べください
    • good
    • 0

確かに、敗戦の責任をとって自決したり、戦後は隠遁生活を送った将軍(例えば、今村均)や、戦争についての「反省」を公言した政治家は散見されますが、公的に国民に向けて謝罪をした為政者はいないでしょう。



大日本帝国憲法の下では、「天皇主権」ではありましたが、他の回答者様が仰るように、敗戦の時点でも国会(帝国議会)が機能しており、形式的ながら民主主義は存在していました。
戦犯容疑者にされた岸信介が、戦後復活して首相に上り詰めたことは有名ですが、他方で、戦後は「非武装・中立」を主張して、平和主義の権化のように振舞っていた社会党の指導者達でさえも、戦前・戦中において、国会議員に在籍していただけではなく、時勢に乗って積極的に戦争遂行の片棒を担いでいたのです。
共産党関係者だけは、戦中一貫して身柄を拘束されていましたが、これは獄中闘争にとどまり、国内で組織的なレジスタンス(抵抗運動)をしていたわけではありません。
マスコミや一般国民については、むしろ、為政者よりも情緒的に開戦を煽るムードが高揚していたともいえます。
つまり、特定のファシズム勢力が、国民の意思を抑圧して戦争を行ったという認識は、戦後の史観による「後知恵」です。

このことは、例えば、後年、政府の政策的な誘導によって起きたといわれる「平成バブル」において、殆んどの国民が財テク・投機等に興味を示す等、「いけいけどんどん」の雰囲気の中で、皆が拝金主義に狂奔しながら、それが崩壊した後で、その当時のことを全否定する風潮と似ているように思います。

結局、戦中は、「戦争貫徹」の国策の下で、最低限の国民の意思が一致していたのです。
国民の戦争責任に関しては、終戦直後に東久邇宮首相が「一億総懺悔」を唱えて猛反発を受けましたが、歴史的な文脈においては、正鵠を得ている側面も否定でいないと思います。もちろん、それで為政者の責任が100%免罪されるわけではないことは当然ですが。

最後に、百歩下がって、公的に国民に謝罪した場合にどのような事態になるかを考えなければなりません。
そうすると、軍人に対する補償だけでなく、空襲等による非戦闘員(一般国民)への人命・財産についての全損害を政府が補償する必要が生じます。それでは、国の財政が逼迫し、後の高度経済成長もなかったかもしれません。さらに、この考え方を突き詰めれば、当然にアジア諸国の個々人への補償の問題も生じるでしょう。
歴史認識やイデオロギーの議論を抜きにすると、このことが、御質問に対する回答になるかと思います。

蛇足ながら、他の回答者様も提起している戦前の民主主義に関しては、坂野潤治・田原総一朗著『大日本帝国の民主主義――嘘ばかり教えられてきた!』(小学館)を一読されてはいかがでしょうか。

参考URL:http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0209389242
    • good
    • 0

言葉で謝罪したわけではありませんが、私は宇垣纏中将も謝罪にあたいするものを実行したのではないかと思っています。


(特攻を指揮し多くの若者を死なせたが、最後には自分も特攻に行った人です。しかし、玉音放送を聞いた後に部下を引き連れて行った為、かなりの批判を浴びました)

私は宇垣中将は好きなのですが、小澤治三郎中将などからは、かなり批判をされてたようです。

では小澤さん自体どんな謝罪をされたのかは、私は知りません。

むろん、大西中将、阿南陸相などは自決され、遺言もあることなので、国民に謝罪していると思っています。

あとNO3さんのご紹介くださった、批判三軍人は、調べれば調べるほど腹の立つ軍人です。いや軍人とはいえないかもしれません。

しかし私の一番嫌いな軍人は、ルメイに勲章を推薦した軍人です。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q大東亜戦争当時軍部首脳は日本の勝利をどのように考えていたのでしょうか?

 高校時代は大東亜戦争は日本の勝利も十分に有りえたと考えておりました。
 しかし色々な資料を読んでいくうちに日本の勝利への道が見えなくなりました。

 当時の軍部首脳は戦争の終結時を どのように考えていたのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

概ね、議論は尽くされているようですが、補足までにいくつかの資料を提示させて頂きたいと思います。回答の結論は、当時の日本(特に日本の政戦略を主導した帝国陸軍)の戦争終結への見通しが全くの『丸っきりの他力本願』であり、その戦争指導がほとんど『泥縄』であったというものです。また、当時の国家指導者、なかんずく帝国陸軍指導者に「やるからには防衛線をどこに引きどの程度の兵力で補給線をどうすれば何年戦えるか?その間に世界情勢がどのように変わりどの時期にどのような講和条約を結ぶのか』などと言う冷静な、戦争への青写真があったと考えるのは不可能と結論づけるしかありません。
No.10の回答に対して、質問者は、『それでは 丸っきりの他力本願?!まじスっか?』と反応されていますが、『丸っきりの他力本願』であったことを示すこういう資料があります。

「対英米戦争は長期大持久戦に移行すべく戦争の週末を予想することははなはだ困難にして、特に米国の屈服を求むるは先ず不可能と判断せらるるも我が南方作戦の成果大なるか英国の屈服などに起因する米国世論の大転換により戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし(1941年9月6日において、帝国陸軍の準備した「帝国国策遂行要領」に対する質疑応答資料。本記事に対する出典は 大江志乃夫著「日本の参謀本部」中公新書、1988年第10刷)」

同時に当時の、特に日本陸軍が如何に対米線に不準備であったかという事情は、以下の資料にも提示されています。著者の堀氏は、戦後GHQから『マッカーサーの参謀』とまであだ名された対米情報参謀ですが……このエピソードの時期は昭和18年11月(対米開戦から約2年経過した1943年末)になっています。

「『堀君は米国半に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためには先ず戦場を見てきてもらいたい』これが杉田課長の第一声であった。正直言って堀は驚愕した……<中略>……野球の試合が中盤以後になって、相手の攻撃に手こずりだして、『さあ、データーを調べよう』というのと同じだ。(本記事に対する出典は、堀栄三著「大本営参謀の情報戦記」文春文庫、1996年第3刷)」

文中、『杉田課長』として登場するのは当時の陸軍参謀本部第2部第6課(対英米情報)課長の杉田大佐です。また、文中、『堀』として登場する人物は著作者の堀栄三氏本人です。

同じく、土門周平氏の『参謀の戦争』PHP文庫、1999年初版でまとめられた当時の国策文書の要約(同321-323ページ)では1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に対しては、「勝利の見込みのない戦争を決意しようと言う奇妙な決定」との注釈がなされています。
そういう奇妙な決定に対して、質問者は「天皇の御裁可を仰ぐ以前に軍内部で無理!って声が上がる』はずだとコメントされていますが、これに対してはこういう資料があります。当時の陸軍省整備局戦備課の田辺少佐(当時)の回想です。ここには、内心には「無理だ!」と思っていても口に出せない当時の雰囲気が述べられています。

「あの当時の会議の空気はみんな強気でしてね。ここで弱音を吐いたら首になる。第1線へ飛ばされてしまうと言う空気でした。「やっちゃえ、やっちゃえ」というような空気が満ち満ちているわけですから、弱音を吐くわけにはいかないんですよ。みんな無理だと内心では思いながらも、表面は強気の姿勢を見せていましたね。私も同じです(本記事に対する出展は、NHK取材班『太平洋戦争 日米開戦 勝算なし』角川文庫、1995年再版)」

これらの資料を鑑みる限り、冒頭の結論にたどり着く意外の選択肢は余り無いと考えます。
なおご不審がありましたら、これら参考資料の引用する原典資料に当たられるのがよいかと思います、民間で入手可能かどうかまで確認したわけではありませんが、防衛庁の発行した戦史叢書などには原点資料の原文が載せられているのではないかと思いますので。

概ね、議論は尽くされているようですが、補足までにいくつかの資料を提示させて頂きたいと思います。回答の結論は、当時の日本(特に日本の政戦略を主導した帝国陸軍)の戦争終結への見通しが全くの『丸っきりの他力本願』であり、その戦争指導がほとんど『泥縄』であったというものです。また、当時の国家指導者、なかんずく帝国陸軍指導者に「やるからには防衛線をどこに引きどの程度の兵力で補給線をどうすれば何年戦えるか?その間に世界情勢がどのように変わりどの時期にどのような講和条約を結ぶのか』などと...続きを読む

Q小学生のころから歴史が好きで、今まで 戦国時代→第二次大戦→湾岸戦争→中東・イライラ戦争→第一次大戦

小学生のころから歴史が好きで、今まで
戦国時代→第二次大戦→湾岸戦争→中東・イライラ戦争→第一次大戦と
勉強をしてきました、ほかに何か良さそうなものありますか?

高2です。

Aベストアンサー

必ずしも歴史書が歴史の真実を記しているとは限らない。それに、歴史書は必ずしも面白くない。面白く無ければ人間は読むのをやめてしまう。

そこで私が推薦するのは、パール・バックの「大地」だ。中古で千円以下で手に入るようだ。第一巻だけでも読むと良い。あなたの人生が変わる。とてつもない価値の有る本だ。ピューリッツァ賞と、ノーベル賞を取っただけの事はある。

Q第2次世界大戦におけるドイツの戦争責任と謝罪などについて

中韓の人々が、「日本はドイツを見習うべきだ」とよく言います。私も、ドイツと日本の戦争責任とか戦後のすぐの軍事裁判について勉強しているのですが、ドイツの文献はなかなか手に入りません。そこで教えてほしいのですが、

1 ニュルンベルグ軍事裁判に関する初心者向けの本
2 ドイツは日本が結んだサンフランシスコ平和条約のような講和条約を連合国と結んでいるのでしょうか?
3 ドイツは侵略戦争をしたということを、たとえばポーランドやフランス、オランダなどに謝罪しているのでしょうか?

以上3点、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

次の2点に関してお答えします。

2 ドイツは日本が結んだサンフランシスコ平和条約のような講和条約を連合国と結んでいるのでしょうか?

していません。何故ならロシア・フランス・ポーランド・チェコによる潜在的ドイツ人居住地域の占領が終わっていないという問題があるからです。


3 ドイツは侵略戦争をしたということを、たとえばポーランドやフランス、オランダなどに謝罪しているのでしょうか?

 ドイツが1974年以降どこを侵略したのでしょうか?侵略の定義は僅か30年前に出来たものであり、それ以前の戦争では侵略という概念がありません。ちなみに日本のA級戦犯が裁かれたのは対米英中蘭に対して宣戦布告したことです。侵略に関しては裁かれていません。
 ドイツとしてはポーランド戦に関しては住民投票を無視し、ドイツ系住民に対するポーランド軍及びポーランド警察の住民弾圧から住民救済をするために出兵したのです。オランダは通過点として通っただけです。フランスはフランスが先に手を出したのであってドイツ側から宣戦布告した訳ではありません。

 ドイツのWW2に関する公式見解は全てナチスが悪いのであってドイツ国民も被害者である。ドイツとしては被害を受けた住民に対して被害相当額の弁済はするというものです。

次の2点に関してお答えします。

2 ドイツは日本が結んだサンフランシスコ平和条約のような講和条約を連合国と結んでいるのでしょうか?

していません。何故ならロシア・フランス・ポーランド・チェコによる潜在的ドイツ人居住地域の占領が終わっていないという問題があるからです。


3 ドイツは侵略戦争をしたということを、たとえばポーランドやフランス、オランダなどに謝罪しているのでしょうか?

 ドイツが1974年以降どこを侵略したのでしょうか?侵略の定義は僅か30年前に出来たもの...続きを読む

Q日清、日露戦争当時の大韓帝国国民の対日、対清、対露感情は?

日清、日露戦争当時、大韓帝国は完全な独立を維持するのは難しく、清、日本、ロシアの何れかの勢力下に組み込まれざるをえなかったのだと推測します。
当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。日本人の勝手な考え方だと言われては困るので、国籍は問いませんが韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

> 韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。

全くこの条件が分かりません。

> 当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。

国民をどの層と考えているのかは存じません。
日清戦争当時、朝鮮は清の属国です。王を中心とした一派は清にすり寄りますが、失政により、最終的に甲午農民戦争という内乱になります。この時の処理の対立が日清戦争の引き金です。
日清戦争では、国王を中心とした一派は清にすり寄りますが、朝鮮という国自体は日本側に立ちます。これは、朝鮮内部の勢力争いの中で、この当時は親日的な勢力が優勢であったということを示しています。

日露戦争当時も国王を中心とした一派はロシアにすり寄りますが、様々な失政のため、国王は数度の暗殺未遂事件を起こされるほどに権威がなく、知識人階級の大部分は一進会に代表される親日的な路線でした。

この流れは、開化派から独立協会、一進会の系譜の中で一貫しています。
彼らは別に日本の傘下になることを望まないのですが、国王一派は当初中国、その後ロシアの傘下に入ることを望んでいました。日本の後ろ盾で独立と近代化を成し遂げようというのが目的です。
この方針は、日清戦争から1910年の併合まで概ね成功しました。彼らは条件付きとはいえ独立を勝ち取っていたからです。しかし、ハーグ密使事件をはじめとする種々の事件などにより、最終的には一進会の側(例えば宋秉畯や李容九)から日韓併合論が出てきています。国王よりも日本を取った、といえそうです。

したがって、知識人に関していえば、
日本のほうが、国王・清・露よりも苦難が軽いと考えていたといえるでしょう。

> 韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。

全くこの条件が分かりません。

> 当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。

国民をどの層と考えているのかは存じません。
日清戦争当時、朝鮮は清の属国です。王を中心とした一派は清にすり寄りますが、失政により、最終的に甲午農民戦争という内乱になります。この時の処理の対立が日清戦争の引き金です。
日清戦争では、国...続きを読む

Q第二次世界大戦、軍部の対立、海軍より陸軍優位だった?

いま、アメリカと戦争してた頃の、歴史の本を読んでまして。その本には、山本五十六の事が度々でてくるのですが。

山本は軍部の中で、アメリカの怖さを客観的に知り抜いた数少ない戦略家だった。陸軍の連中は、軍事オタクのバカばっかりだった。陸軍には、予算や経済観念、常識が無い。視野が狭すぎる。

という様な事が書かれてまして。ホントにそうだったのかなあ。陸軍の中にも、冷静な戦略家はいなかったのか?東條を初め、陸軍が権力を握って独走したのでしょうか?

Aベストアンサー

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

陸海軍の対立は、陸の長州、海の薩州といわれるころより続いていた問題です。

当時、会戦のころは国内情勢が結構逼迫しており、もし弱腰になったら、2.26や5.15のようなことが起こる可能性は十二分にありました。
また、国民世論の面でも、弱腰=政権崩壊の可能性があったりと、なかなか厳しい状態です。

陸軍と海軍の力関係ですが、組織の上では一応対等となっています(実は明治維新後しばらくは陸軍が上だったのですが、その後に海軍が黄海海戦での戦果や日本海海戦の大勝利を盾に地位を巻き返したのです)。
しかし、満州事件や日中戦争など、陸軍主導の拡大政策が、ある程度の成功を収めていた上、海軍大将でもあった米内内閣なんかの政治成果があまり芳しくなかったことなどもあり、やや国内政権は陸軍に主導権がありました。

なお、質問者さんが読んだ本は、少々海軍贔屓過ぎるような気はしますね。
私も(土地柄)海軍贔屓であると思いますが、陸軍を、軍事オタクの馬鹿とするのは、少々過小評価しすぎかと。

そもそも、当時の陸軍大学、海軍大学といえば、帝国大学(現東大)と同等以上のエリート大学ですから、基本的に馬鹿はあんまりいないのですけどね・・・
東條も、決して馬鹿ではありません。馬鹿では陸軍大将で総理大臣にまではなれませんから。

ただし、アメリカに対する認識がしっかりしたものであったかと言うと、そうとも言えません(この点が、陸軍批判の最大の原因)。
これは、当時の陸軍海軍の教育方針に違いがあります。
当時まだ日本は、後進国ですから、陸軍大学や海軍大学をでた、いわゆるエリートはほとんどが海外留学をします(もちろん、駐英次官だったりという肩書きで、ですが)。
で、陸軍の留学先ではドイツ、フランス(どちらもいわゆる陸軍国)が主だったのですが、海軍の留学先は米英が多かったです。
結局はこの違いです。米英に留学している人が多い海軍のほうが、アメリカのことを多く、そして良く見ていたのは、ある意味当然でしょう。
しかし、これをもって「視野が狭い、常識がない」とするのは、少々性急でしょうね。

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

陸海軍の対立は、陸の長州、海の薩州といわれるころより続いていた問題です。

当時、会戦のころは国内情勢が結構逼迫しており、もし弱腰になったら、2.26や5.15のようなことが起こる可能性は十二分にありました。
また、国民世論の面でも、弱腰=政権崩壊の可能性があったりと、なかなか厳しい状態です。

陸軍と海軍の力関係ですが、組織の上では一応対等となっています(実は明治維...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報