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博士課程の学生ぐらいのレベルになると論文の質もプレゼンもレベルの高い発表をしています。大学教授の発表を見ると1つのfigureで10分ぐらい延々と話す人がいますし、発表時間を越えても気にせず話す人もいます。
素人目で見ると発表のレベルは博士課程の学生も教員も同じに見えます。学生でも教授とまともに議論している人も多いですし。研究がわかる人が見たら論文の質の違いはわかるのでしょうか?

A 回答 (5件)

プレゼンの上手い・下手は、研究や論文の質とは必ずしも一致しません。

研究内容が一流の研究者でも、発表や講義が下手な人はいます。研究費をとってくるには不利になる場合もありますけど、たくさん論文を書き、アピール力のある研究費申請の書類を書ける能力があれば、口頭発表が下手でもなんとかなりますから。

でも、プレゼンだけ上手くて、中身のない研究は、誰が見ても(少なくとも、分野の近い大学院生以上なら)中身がないのはわかると思います。実は、中身のない人の方がプレゼンが上手い(口だけでごまかすのになれている)ことも多いですから。

それから、研究の質は、必ずしも、長く研究者をやっているかどうかだけで決まるのではないので、博士課程以上の研究なら、教授と同じくらいの質のものがある可能性はあります。また、博士課程の学生なら、一人前の若手研究者(の卵)です。研究の場では、相手が教授だろうと研究者としては対等ですから、遠慮しないで議論できて当たり前です。(むしろ、できないとダメです。)
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あのですね、ひとくくりに大学教員といってもですね、それはどこの世界でも同じで、ピンキリが存在するわけです。

一部の優秀な学者と、一部の落ちこぼれと、「残りの」研究者たちです。それは文系、理系と言った区切りだけではなく、どこの会社、組織、ありとあらゆる共同体でも同じでしょう。

卑近な例で恐縮ですが、野球で言えば、三割超を打つバッターもいれば、二割五分しか打たないバッターもいます。しかし後者は、別のところで…たとえば守備で…(キャッチャーなど)貢献していると考えればどうでしょうか。

それは博士課程の学生にもいえます。一部の優秀な学生、落ちこぼれ、「残りの」学生です。でも基本的に博士課程は、野球で言えばファームですよね。実践と経験が足りない選手=学生が多いのは当然です。そして中には一軍で十分に活躍できる逸材もいるわけです。

また学生は若いので集中力とエネルギーを研究だけに注ぎ込むことができると考えられます。「教授」は刑事事件などを起こさない限りほとんどクビにはならない職業ですので、そもそもやる気が違うでしょう。加えて先生方は学校の「営業」「運営」「学生指導」「政治派閥(?)」などに時間がとられてしまい、研究に時間が割けないということもあります。暇そうにしていても、先生方は(おそらく)とても忙しいのです。

以上を鑑みると、優秀な学生は、そうではない(かもしれない)教授と引けをとらないということは、十分起こりうる事態です。論文の質ですが、一部の優秀な論文と、でたらめな論文と、「残りの」論文という区分になります。これは学生も教授も関係ありません。実力の世界です。学会で絶賛される、すばらしい論文を書く学生がいれば、一方で読書感想文のような論文を書く教授も(おそらく)います。でも後者はクビにならない。前者は未来がかかっている。おのずと差が出てくるのではないでしょうか。
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多くの場合は、博士課程の学生も教員の前でプレゼンの予行練習をして発表しているのです。

また、院生はほぼ(研究室の雑用はあるにせよ)
研究に専念できます。プレゼンの資料作成も全力でやれます。

一方、教員は雑多な仕事の合間を縫って研究をせざるをえません。実験の担当はまず院生を主体とする学生です。教員は、学生の出すデータをもとに研究を進めていくかじとり役です。発表のパワーポイントも前日に作ることも多いのです。

また、論文ですが、院生が原稿を書いたにせよ、必ず教員が手を入れています。もちろん、手を入れる必要が無いほど優秀な院生が来れば(育てば)大歓迎ですが。

ただ、実際の実験をやるのは院生ですので、院生の意見を聞くのは大切です。
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プレゼン下手な教授と口の上手い学生とを表面的に比べたらそういう時もあるでしょうね。


ただ、内容がしょぼければどんなに堂々と話していても評価はされないし、逆も然り。
「見た目が9割」ということも巷では言われていますが、アカデミックではやはり、研究内容が一番重要です。

もっとも、人の研究を評価するのは大変ですが。
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 No.1の方も書かれていますが、研究の質とプレゼンの質は必ずしも一致しません。


 また、研究者としての評価はなんといっても論文数と引用数で決まるので、発表の上手い下手は「どうでもいい」とまでは言いませんがあまり関係がありません。まあ下手なよりは上手い方が良いには決まってますが。

 博士課程の学生の研究も、教官の指導に基づいているのでしょうし、そこで質の高い論文を書いたとしても半分は教官のおかげでしょう。
 そこで学位を取って独り立ちして初めて「研究者として評価される」正念場に立つのだと思います。

 研究って底なし沼ですから、自分が手がけたテーマが過去からの連綿と続く研究の経緯の中でどこに位置して何を補完しているのか、そこが見えてこないと「次に何をすべきか」が判らないわけです。
 2年や3年でその分野の関連文献を全て読んで理解できるわけもないし、それは教官の指導の元、論文を数本書いて見えてくるものなのでしょう(結局見えてこない人も多々いるでしょうが)。

 学部の学生は底なし沼を横からちょっとだけ見せてもらっているだけですし、博士課程の学生は底なし沼の表面を教官に支えられて浮いているだけ、という気がします。研究者として独り立ちするということは、底なし沼に首までどっぷり浸かるということですし。(溺れてしまう人もいるみたいですが)

 逆に言えば、現在自分が手がけているテーマについて、教官とまともに議論できる、というのはいわば「最低条件」です。それすらできない人に「次」が見えるとは思えません。

 というわけで、要約するとNo.1さんのご意見とほぼ同じ、ということになりそうです。
 資質としてはもちろんこの教授よりこの学生の方が上、ということはあるでしょうが、学生の方はまだ「卵」ですので、同じ土俵の上で評価はできない、ということです。その評価も少なくとも「発表の上手い下手」ではない、ということも、です。
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