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どーもです。

日本の歴史(特に中国や韓国との関係)を勉強したいと思っているのですが、例えば日本で出版されている本や一般的な情報というものは正確なんでしょうか?やはりある程度は国によってコントロールされているのでしょうか?

個人的に日本はそういったことに関してなるべく脚色はされていないと思うのですがどう思いますか?
できるだけ客観的な立場で歴史を勉強したいのですが…

A 回答 (7件)

>やはりある程度は国によってコントロールされているのでしょうか?



日本は、言論の自由がある程度保証されていますから、国によるコントロールは良くも悪くもありません。
極端な話、根も葉もない証拠をでっち上げて、あたかも真実であるかのように吹聴しても罰せられることはありません。
事実、「トンデモ本」と呼ばれるモノが本屋には溢れています。
さらに悪いことに、そういった本の方が気軽に読める作りになっているので、ベストセラーになることさえあります。
まぁ、情報リテラシーがしっかりしていないと簡単に欺される分野が歴史と言えます。

>できるだけ客観的な立場で歴史を勉強したいのですが…

さて、これは難しい問題です。
日本の歴史学は、実証主義に基づき一言目には「客観的でなければ!客観だ!!」と叫ばれますが、実際に「客観的に」書かれた歴史なんて一つもありません。
せいぜい「客観的になろうと努力する」程度です。
これは、歴史の特徴であるため仕方ない事です。
手前味噌ではありますが、こちらの2番でその辺りを回答しています。
http://okwave.jp/qa3672975.html

少し補足しますと、歴史研究(認識)は3つの段階に分かれます。

1・興味を持つ、問題意識の設定

歴史を認識するには、まず興味や問題意識を持つことから始まります。
例えば、「織田信長はどんな人物だったのか?」「女系天皇は認められるべきか?」「江戸時代は何故200年も続いたのか?」などなど。
そして、こうした興味や問題意識は主観的なモノです。
とはいえ、完全に個人だけに帰せられるかというとそうともいえません。
例えば、「女系天皇~」なんかは最近の社会の動向(天皇家の跡継ぎ問題と、女性の地位向上)というのを受けて問題設定されたと言えなくもありません。
「社会の総意」が「客観的」であると定義すれば、「女系天皇~」という問題設定は、客観的といえるでしょう。


2・事実認定の段階

こちらは、興味・問題設定の回答を求めて事実を探っていく段階です。
ドイツの歴史学者ランケ以降は、史料(資料ではない)に拠って事実認定をするのが主流となっています。
主に実証主義といわれる立場なのですが、この立場では「史料のないところに、歴史は無し」が基本となります。(但し、史料が無いからと言って事実が無かったとまでは、考えません。あくまでも、証明可能かどうかの問題です)
そして、その立場にたって「史料は本物か」「史料が示す事実は何か」と言ったことが行われます。
しかし、どんなに史料を集め分析しても、どうしても埋められない「空白」部分が生まれてきます。

例えば、ある法律を示す文章が見つかり時代考証などを経て本物であると認定したとします。
しかし、その法律がどのように運用されたかは、その法律文章だけでは分らないんです。
その法律基づいて裁かれたり、何らかの行動が行われた事を示す証拠がなければ、その法律を示した史料は、タダの「死んだ史料」でしかありません。
しかし、明確に記されることは少なく、殆どはその事実を「匂わす」程度です。
その匂いをかぎ取って「想像」することしか、現代の私たちにはできません。


3・歴史記述の段階

この段階で、(1)興味・問題意識に基づいて(2)史料に基づいて調べ想像で空白を埋めた内容を(3)論文や一冊の本に纏める段階です。
(1)(2)で見たように、客観的な記述がどれだけ難しいかが分かると思います。
というのも(1)(2)の結果の段階だからです。
(1)(2)の段階で、出来るだけ主観を排除しようとすることはできますが、完全に取り除くことは出来ません。
なので、「客観的な立場」というのは非常に難しいと言えます。

まずは、自分がどんな「歴史観・価値観・思想的立場」を持っているのか認識することから始めて下さい。
以下に実証的研究に入る前に読んで欲しい参考書を少し。
図書館なんかには置いてあると思うので、活用してください。

『歴史の哲学―現代の思想的状況』 (講談社学術文庫)
渡辺 二郎 (著)
ISBN-13: 978-4061594067

『歴史とは何か 』(岩波新書) (新書)
E.H. カー (著), E.H. Carr (原著), 清水 幾太郎 (翻訳)
ISBN-13: 978-4004130017

『歴史学序説』(大明堂)
上原専禄 著
ISBN-10: 4470940003
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>日本の歴史(特に中国や韓国との関係)を勉強したい



どんな人でも自分の家の悪口を嫌うものです。
そして、どんな人でも自分の国の悪口を嫌います。
ですから、自国の歴史の本を、国が書こうが、民間が書こうが、多少の身びいきは出るものです。

「特に中国や韓国との関係」ということですので、日本人が書いた本だけでなく、中国人や韓国人が書いた本も読まれた方がいいと思います。
図書館には中国人や韓国人の書いた本も沢山あります(こういうところが日本のいいところです)。

そうすれば、偏った歴史観を持った人間には、なりようがありません。
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「国によるコントロール」の定義にもよります。



まず現代ですが、歴史書一般に対する直接的な検閲ということなら、検閲が日本国憲法で禁止されていることもあり「そんなことはない」と言えますが、学校の歴史教科書については文部科学省による「教科書検定」という一種のコントロールがあります。とはいうものの、日本の歴史教科書がすべて国の考えどおりに(戦前の国定教科書のように)編纂されているかといえば、「そうとまではいえない」です。

過去について言えば「時代により異なる」としか言えません。日本の場合古代には日本書紀を初めとする六国史の編纂に見られるように、国家が正史を編纂した時期がありましたが、中国と違ってその伝統は長くは続きませんでした。まとめますと、国家が正史を編纂する伝統が続いていた(続いている(?))中国などと比較すれば一般には歴史に対する「国によるコントロール」の割合は低いと思いますが、時代・事象によって異なるので、個別に検証する必要があると考えます。
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「やはりある程度は国によってコントロールされているのでしょうか?」


そういう事実は「全くない」と言って良いでしょう。

例えば、かつて「オレの書いた歴史教科書を検定不合格にするとはケシからん」旨の訴訟を国を相手に起こした家永三郎という歴史の教授がいました。30年以上にわたるこの民事訴訟で、家永教授は40万円の慰謝料を勝ち取ったのですが、その間の弁護士費用はいくらに上がったのか想像もつきません。まともに払えば、家永教授の給料を全て注ぎ込み、財産を全て売り払っても追いつかない金額だと思いますが…

家永教科書裁判
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8% …

さて、このような行為に及んだ家永三郎氏は、「国立大学」である「東京教育大学」(現在の筑波大学)の教授を長く務め、名誉教授となっています。要するに、国を相手に「オレの歴史に難癖をつけるな!」と裁判を起こす人の大学教授としての給料は税金から出ていたのです。

もちろん、家永氏が「家永教科書裁判」を起こしたからといって、
「国家に歯向かう家永は国立大学である東京教育大学の教授を辞職せよ/政府は家永をクビにしろ」
などといわれることは「一切」なく、家永教授は、東京教育大学の前身である東京高等師範学校の教授に1944年(31歳)に就任し、戦後は東京教育大学教授に横滑りし、1978年(65歳)に定年退官するまで無事にその職にありました。先述したように名誉教授の称号も得ています。
※ 家永教科書裁判は1965年に第一次提訴がなされています。

これをもって「やはりある程度は国によってコントロールされているのでしょうか?」は「NO」と判断する材料として下さい。

日本に昔から「歴史は民間人が書く」という伝統があったのはNo2さんが言われるとおりです。これは世界的に見ても「進んだ」ことだったと思われます。
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 歴史というのは後世の人間が過去の事実を記述するものです。

これは文獻や遺物、遺跡などを参照して書かれるのですが、誰も現実に立会って見聞きしたわけではないので、そこには推量や解釈が入り込むのは当然のことで、そこには史観が生れるのは必然です。それが事実そのままであることはまずあり得ないことでしょう。従って歴史が事実を正確に再現していると考えるのは無理が出て来ます。
 勿論そこには権力によるねじ曲げが入って来るのは已むを得ません。特に中国の歴史は司馬遷が先例を作ったのですが、王朝が代わるとその王朝は前の王朝の歴史を編纂するのです。そうすると不可避的に後の王朝の史観が入り込むのは仕方のないことです。
 これは日本でも同じことで、江戸時代がひどい時代だったということを明治政府が殊更に書き立てたために、今でも江戸時代が暗黒の時代だったかのような観念が払拭できていませんよね。北条氏、足利尊氏、徳川家康に対する印象が悪いのは天皇に楯突いたことが原因です。逆に楠木正成や名和長利の印象がいいのは逆だからですよね。
 では戦後の日本の歴史は脚色がないかというとそんなことはありません。中国や朝鮮半島に対する戦前の行為がすべて悪逆非道であったというのは中国や朝鮮半島の人達の史観であり、それにおもねる人達が主導権を持って作った歴史が正しいとされている傾向がありますね。その人達から見ると私が書いているこの文章がけしからんということにもなりますよね。何が正しく、何が間違っているかは、結局誰にも分からないのです。ですから絶対正しいこと等あり得ないので、いつも謙虚であることが大切なのだと私は考えています。現在の世界での諸悪の根源は自分が絶対に正しく、相手が間違っているから、その間違いを武力を使ってでも糺すべきという考え方でしょう。このような状況を憂えたのが聖徳太子で、これが彼の説く『和を以て貴し為す』という戒めに通じるのだと思います。
 この精神があったからこそ日本では平安時代の300年、江戸時代の250年もの間概ね戦争のない平和が続いたのです。これは世界的に見ると全く例外的なことなのですよ。
 結論として言えることは歴史は必ず特定の史観に基いて書かれた記録であるということだと思います。
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日本て結構不思議で特異な国なんですね。

大抵の国では、歴史とは国家が自分たちを正当化するために書く。それを「正史」と言います。中国も韓国も例外ではなく、昔から、正史が本流を占めていました。したがって、そのような国では、国家権力や王朝が替わる度に、自分達の歴史を書き替えてきました。ところが不思議なことに、日本では国家権力に関係のない連中や反国家権力側の連中が歴史を書き続けてきたと言う、変わった歴史があります。その例として、鎌倉時代の公家側の大僧正慈円の「愚管抄」、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」、江戸時代の頼山陽の「日本外史」や、もっと新しいところでは、明治時代の山路愛山の一連の歴史書が挙げられます。その結果、一つの事件が、国家権力側からばかりでなく、いろいろ勝手な意見で書き残されることになっている。

日本には「在野」という、中国や韓国には余りなじみの無い概念が存在し、たとえ経済的や、知的に成功しても、その時代の権力の外側に出ていることに妙な誇りを感じると言う文化があります。そして、国民も公の役人や帝国大学の教授にならない在野の人を尊敬すると言う、妙な感覚をもっています。

そのように考えると、日本で残された歴史は、権力側反権力側ともに含んだその多様性の故に、他国の歴史と比べて相対的に信用が置けると考えて良いのではないでしょうか。現代史に関しても、そのような勝手な意見を自由に述べるという先人達の造り上げてきた伝統を皆が営々と引き継いでいますので、現代の日本人が書き残した歴史は後代の人に役に立つと思いますが、どうでしょうか。
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身も蓋もない答えになってしまいますが、「そんなものは誰にも分かりません」。


歴史というものは基本的に勝者にとって都合の良いように書き換えられるものですし、
そうした基本を前提にすると、いわゆる一次史料と呼ばれる書物さえ
どこまで信憑性があるか疑わしくなってしまいますし…。

とはいえ、一応は一次史料~三次史料(当時の人が残したものが一次史料、
後世の人が、一次史料や当時の人の話などを後世の人が纏めた史料が二次史料、
一次史料と二次史料を基に作ったものが三次史料)までが一応「史料」
としての価値があるようなので、そうした本を読む際は、いかに
多くの史料(出来れば一~二次史料まで)を使っているかを価値基準に
するのも一つの方法でしょう。
その上で、出来るだけたくさんの書物に当たる事が基本ですし、
それしか方法はないかもしれません(現地に行く場合でも同じ)。

日本の場合は表現の自由が保障されている事もあって、著者自身の
考えや書き方はともかく、国によって検閲される事はありません。
しかし、正確な歴史を勉強されるという事であれば決して読んでは
いけない本が1つだけあります。それは、教科書です。
あれは近隣諸国条項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%9A%A3% …
という名の検閲がかかっているため、内容が相当おかしくなっています。
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