電子書籍の厳選無料作品が豊富!

物事の考え方における、理知的傾向があるひと、感情的傾向がある人、様々であり、思考対象によって個人の中でもうつろうものだと思います。
例を挙げるとあまりに限定的になってしまうので、総論としておきますが、ある議論について、かなり理知的な思考を持った人と、感情的思考を持った人が、それぞれの存在に抱く感情とはどういうものでしょうか?理知的というのは、自分で掘り下げるという作業を必要としますから、かなり率直な、自分の言葉が多分に入った意見です。感情的な方は、もちろん率直な心からの意見もあるのですが、えてして世俗に惑わされるというか、大衆迎合的な面もあるようで、そのときは、かなり自分の率直なところから出ているのか怪しいが、本人にもなかなか自覚されにくいという厄介な面があるようです。言い方を変えると、世間でもてはやされている多数派的な意見というのは、多分に感情的傾向があるということです。
私は、特に、この感情的思考のなかの後者(世俗に毒されている、影響されている)という傾向がある(気がする)思考を、ここで読んだり、そこここで見聞すると、非常にいやな感覚を覚えます。「自分出してる?考えてる?奇麗事ばっかりヒステリックに言ってない?ちゃんと人の気持ちを考えてる?」というような疑問を感ずることが多いからです。前者の真心がある感情的思考は、これは純粋で打たれるものがあります。
疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。
それから真心の方の感情思考に対してもどうなのか、これも疑問です。

どんなものなのでしょうか?

A 回答 (1件)

感覚とか嫌悪感なら、自分で体験するしかないですよね。



人間には集団心理があるので、あなたの普段取らない思考過程を踏むグループに属してみるといいですよ。自分を無にして他人の価値観に自分をゆだねるのです。これが出来ないと、別の思考過程を踏む人を理解することは出来ません。

もっとも、思考が切れすぎてついていけない人がいると、体験するのは難しいですけどね。

原点 (拠り所) に戻って論理を点検することを「ゼロ点思考」などといったりしますが、これが冷静かつ客観的に出来る人はそう多くありません。

多くの人は力を抜いた瞬間に、短絡的思考に走って行きます。逆にそうでないと、考えることが多すぎて処理し切れません。(結果としてパフォーマンスが落ちます)

もうひとつの問題は、論理的であることが常に正しい結論を導くとは限らない点ですね。直感、感情、慣習といったもののなかにも知恵はあります。

>疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。

焦りとか戦闘意欲ですかね。どっちにしても嫌な感じと怒りでしょう。

説明してるのに説得できない ←→ 正しいことがわかってるが説明できない

憤りはおなじことだと思いますけど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

今までの自分の価値観から拡大できるような、たいへん参考になるお考えです。他律的というものも、場合によっては、利用価値のあるものですね。
2つのタイプは、お互いあせり嫌悪に近いというのも賛同できます。

お礼日時:2008/06/14 00:24

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報