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歴史上、満州事変にはじまり、日中戦争から太平洋戦争にいたる道程で、これを平和に過ごすという方法はまったくなかったのでしょうか?不可能だったでしょうか?もし可能だったとしたら、日中戦争まではしょうがないがそれを講和できたとか、満州事変まではしょうがないが似中戦争には突入しないとか、対中戦争はしょうがないが、対英米戦はしなくてすんだろうとか、いろいろと可能性はあると思うのですがどうなのでしょうか?
理想的にはスイスなど永世中立のようなことはできなかったものでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

植民地になるか富国強兵かの2者選択しかなかったと思います。


日本人は、有色人種です。当時、世界は、白人が全世界を植民地にして、まさに、搾取していました。日本は、日本自身が植民地化することを防ぐため、明治以降、必死に富国強兵を目指しました。そして、同じ目標をもつ同盟国を作りたかったのですが、全世界が植民地であったため、無理でした。
 ロシアは、極東を支配するという意味のウラジオストックという軍港を作り、朝鮮をその支配権に組み入れつつありました。このため、日本は、日露戦争を行いました。日本は、日清戦争の勝利で得た、朝鮮の独立によって、日本にとって、朝鮮がロシアの防波堤になることを期待しましたが、朝鮮がロシアの植民地になっていく姿を見て、朝鮮がロシア軍の補給基地として日本戦略の拠点になることを恐れ、その前に、日本の独立維持を掛けた戦いを挑んだのです。このことは、日本兵の全員が意識していたと思われ、「さっさと逃げるは、ロシアの兵、死ぬまで尽くすは日本の兵」と歌われました。
 その後、朝鮮を独立させることから、朝鮮を日本にすることで、朝鮮人の生活レベルを日本人と同じレベルとし、日本と朝鮮の国力を合わせて、植民地化を防ぐ道に方向変換します。このため、朝鮮に小学校を5000校も作り、小学を義務教育とし、保健所を作り、戸籍を作りました。このため、日本の国家予算の多くの部分が朝鮮人のために使われ、日本人は貧乏のまま、がむしゃらに働いたのです。
 そして、これと同じことが満州でも行われます。ドイツと同盟を結んだ経緯は分かりませんが、これをきっかけに、満州での利権がほしかった米国と敵対していきます。
 そして、ハルノートとなり、石油が一滴も輸入できなくなった段階で、米国、英国、オランダと戦いを始めます。日本の戦争目的は新しい世界秩序の構築です。そして、占領地に原住民による軍隊を作り、独立政府を作りました。その結果、日本の敗退後、再度植民地にするために再占領のために上陸してきた連合国軍と原住民の軍隊による新たな戦争が始まり、その結果、東アジアに独立国が生まれて行きます。
 そして、日本の戦争目的である新しい世界秩序、植民地のない世界が誕生したのです。連合国は、その恨みを、東京裁判で日本の指導者にぶつけました。そして、今の日本になったのです。新しい世界秩序によって可能になった自由貿易による経済大国化は戦前の尊い犠牲と戦後の頑張りによるものです。また、東京裁判のせいで骨抜きになった今の三流政治、教育の崩壊は、今後、我々が克服しなければならない敗戦による宿題と思っています。
 欧米の有色人種に対するひどい政策を考えると、欧米人が自由は命を掛けて得るものだと考えるのと同じく、今の植民地のない自由な世界は、日本人が命をかけて作り出したものだと考えることも出来るかと思います。それほど、大きな歴史を変えた戦いを日本人は行ったと思っています。
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この回答へのお礼

そう思います。
大変わかりやすく解説していただきありがとうございます。
富国強兵が理性的な道だったと感じます。

お礼日時:2009/02/21 15:31

国を超えて民衆同士が連帯して帝国主義に対抗すれば防げました。


「愛国主義」の鼓吹には常に懐疑的であった方が良いと思われます。
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この回答へのお礼

アジア共栄圏というものを日本主体でなく作れるべきでしょう。

お礼日時:2009/02/21 15:41

昭和十六年夏の時点で各分野の民間の有識者と軍部の一部を


交えて、アメリカと総力戦を行った場合に勝つことが出来るかの
シュミレートを行い、その結果およそ勝つことは出来ないという
結論が出ていました。その結果と天皇はもともと英米贔屓だった
ことから、東条英機もそれまでの立場を変えて戦争中止の方向に
動こうとしたものの、軍そのもののエネルギーに逆らうことは
出来ず開戦に踏み切り、やはり予想通り負けたということです。
東条英機は一方で本土決戦を行わずに降伏することについては
非常な抵抗があったようで、彼の立場に立ってみれば軍と世論が
戦争を推し進めたのに、その軍と世論が敵の本体をみることなく
降伏を望むという転身に美学を見出せなかったのでしょう。

詳細は覚えていませんが、彼に対して戦争が起こった原因を
聞き取りした際に、文民統制(シビリアンコントロール)が
取れていなかったことが原因である。と答えています。

私もこれこそが原因であると考えています。軍を天皇のものと
して権威付けたものの、実際には天皇が国民の意思を無視して
戦争の是非を決めることも難しく、結局は世論という曖昧な
ものに戦争開始の是非が委ねられていました。

こういう体制だったので二次大戦で参戦をしていなくても
いつかは勝てない戦争を起こして負けていたと考えます。

現在の日本はどうなのでしょう?敵国の戦力を冷静に見よう
とせず、自国の戦力を冷静に見ようとせず、なんとなくの
世論にしたがって開戦したり、停戦したりしてはいないで
しょうか?ドイツと組んだ二次大戦と、アメリカと組んだ
イラク戦争、どこが違うのでしょうか?もちろんいろいろ
異なる点はありますが、相手と自分を正確に見ようとしない
世論というものに関しては同じことが起こっていると思い
ます。シビリアンコントロールがかろうじて利いているの
が現状だと思っています。
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この回答へのお礼

すべてあいまいで大衆的なんでしょうかね。すくなくとも、欧米人のようにシビアで理性的な判断を一般国民はしなかったでしょう。欧米では、勝てる戦争か、やるべき戦争か?ということを徹底的に検証してからはいりますね。それがこの国の歴史にはかけているのです。

お礼日時:2009/02/21 15:39

基本的にどのような手段も採り得ると思います。


当時の諸々の条件でそれら手段の可能性や難易度が変わってきますよね。

この国の性質として交渉を譲歩することと思っている人が多いです。一方、国際社会では交渉はどれだけ自分に有利な事を引き出すかです。そんな人が国際社会に出たらいろいろな要求に譲歩して譲歩して骨までしゃぶられます。それをどこまでも我慢することがこの国の「戦わないですんだ道」でしょう。
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この回答へのお礼

外交の「譲歩」というものが時として「甘さ」とすり替わってしまいます。それでは政治家としての資質がない。日本人はそのオリジナリティーと反することを国際的には強いられていますね。

お礼日時:2009/02/21 15:36

1932年3月満州国建国されて、その年国際連盟のリットン調査団が入って、1933年2月国際連盟総会で満州撤退対日勧告案が決議されています。

その時点で国際的には批判を浴びていました。それでも帝国主義国家はまだ勧告程度にとどまっています。
 その間に1932年5・15事件があり、1936年2.26事件があり、特に後者では天皇が軍事クーデターを反乱軍として鎮圧したのにその事件の黒幕に当たる陸軍関係の政治家が処分されず、ますます政治を主導していくようになります。また国家財政から文民統制を敷いていた高橋是清が殺害され、あとはマスコミに煽られた世論が軍部を後押しして、かつ関東軍が独走し始め1937年日中戦争に突入です。
 日露戦争は講和に持ち込んだだけで日本の勝利であったにも関わらず、マスコミは小村寿太郎の外交を弱腰と攻めます。
 文民統制の支えになるべき世論が政治家よりも軍部を支援したのは、明治維新の元勲がいなくなり、日本のにおける地位を正確に把握できるが政治家いなくなり、また世界恐慌後の政治家の質が低下したのと政治も腐敗して農村の疲弊を生んで、軍が農村ののセーフティネットなって失業者を吸収していたため、軍縮の意味を平和のためと国民は理解できなかったのではないでしょうか。
 財閥がもっと国民に利益を配分して生活改善に貢献していれば、貧富の差がなくなって平和を望んだように想像します。生活が安定すれば誰も戦争を望まないでしょう。
 いまは世界恐慌再来ですが、変なマスコミの煽りを受けないように冷静になりたいものです。
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この回答へのお礼

原則的にアジアの大東亜共栄圏的な考えは問題ないが、その推敲する人物たちの資質とか、取り巻きの資質とか、一般国民の資質、あるいは格差が安定的でない状況を作りやすかった。そう感じます。要は、政治が熟していなかったのではないでしょうか。あるいは日本人的政治の限界が早くも支配していた。

お礼日時:2009/02/21 15:34

天皇制・国体というものを維持する為には、戦争を避ける事は出来なかったでしょうね。


今の北朝鮮と同様に、当時の日本では「神話」を歴史事実とする教育が行なわれ、現在とは比較にならない貧富の差や身分差別に抗議すれば、非国民として弾圧される状態でした。
そういった潜在する不満を、国外への非難に向ける事は現在の中国が得意で、日本は被害者になっていますが、中国自体も急にそれを変更する事は出来ず、事あればそのガス抜きに頼らざるを得ません。
当時の大多数の日本国民も、現在の北朝鮮同様「鬼畜米英」に繋がる政府プロパガンダを信じており、仮に理性的な選択を行なおうとすれば体制は崩壊していたでしょう。
翻って日本国民にとってを考えれば、海外領地と天皇制を失った直後でも、最貧国までは落ちず(餓死者は現在のアフリカ最貧国や北朝鮮より少ない)、今日の繁栄が得られたのですから、戦争をしないで済んだ事は確かです。
ただ戦争を起こすのは政府ですからネ。
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この回答へのお礼

戦争をすれば、しないよりはいい、という選択だったのでしょう。あるいは軍部の私欲と言うものもあるとしても、必要性防衛生という観点はかなり理性的なものである。

「体制」というものも、統治という意味合いでは必要悪的なものなのかもしれません。

お礼日時:2009/02/21 15:28

「戦争の結果として」最貧国になったというのは事実だと思う>#9.


そのあとで, 日本にとって「幸運」な事態が起きただけ.
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皆さんそれぞれに有意義な文面したためられていますので、私は私なりにガサツな文章をお見せしましょうかね。



まず、日本はアジア系国家であった。日本人は黄色人種であったのです。
日本は当時の5大国の中に入っていましたが、白色人種が黄色人種・黒人人種を植民地支配しそこからの利権導入により最強国家足りえている世界に、被支配側であるべき黄色人種が周囲のアジア系国家を植民地化する意図を持ちつつ、対等に付き合おうとしていた。

邪魔なんです、黄色人種国家である5大国中の1カ国の日本が。
なぜ5大国に日本がなっちゃったのか、それは日本人が優秀かつ勇猛かつ勤勉だから。
こう結論付けるしかない。
そして日本の特異な天皇制や大和思想を研究し、神がかった民族である。と。

人種的差別感を持つ対象が、優秀・勇猛・勤勉・神秘的であれば、妬みもするし恐れもするし放置はいけない。
仲間に入れるか、叩き潰すか。
日本としては当然として、5大国支配体制を維持し、他の4大国その他世界とその時代なりの手法で協調外交を継続し、文化的平和的国家として繁栄し、国際貢献しようとしていた。
その為に日本国家の安全と繁栄の為、他の4大国同様に海外領土を必要としていた。安全かつ継続的な経済圏を構築すると共に、当時の最大脅威であるロシアに対応しなければならなかった。

大東亜共栄圏、アジア人種の自主独立、人種の平等。
これら日本のお題目は、ある意味、本気だったのです。人種差別しない先進国は当時日本だけだった。日本は長年白人国家からの偏見に悩まされ、それが為に強国となりながらもあらゆる面で不利益を受けていた。
人種の平等・アジア人種の国際的地位確立。これは当時の日本指導者層の一致した願いだった。

日独同盟関係構築後も、ナチスドイツのユダヤ人迫害に対処し、「ユダヤ人の保護」をまともに取った国家は世界で唯一つ、日本だけです。
最優先同盟国のナチスドイツの国家政策に同調せず、日本は「ユダヤ人保護」を末端の国民に至るまで強く意識し、ユダヤ人が逃れてくれば便宜を与え、ユダヤ人が脱出したければ手助けをしていた。
ナチスドイツから苦情が来ても、正当性を主張してはねつけるか、無視するかしていた。
世界で唯一つ、日本だけですよ。

なぜなら、日本人は日本国家は、人種の平等を強く願っていたから。
意味もなく、蔑まれる事を、意味の無い事と分かっていたから。
ユダヤ人がユダヤ人であるを理由として迫害されるのであれば、かばうのは当然。
当時の日本はこういう国だったのです。

まあですが、国家は一つの理由だけで動くものではなく、一つの勢力だけで動かしているのでもない。
日本は蔑視される国際社会の中で、経済繁栄を継続し、国民の安全と安定した生活を確保し、国際的地位を維持・向上させる為には、巨大な軍事力を必要としていた。
なので必然的に軍部の力が強くなる。
軍人は平和な時には仕事がない。仕事がなければ仕事を作る。作れるだけの力もあった。
なので仕事を作った。これに文民も乗った。経済大国めざし、世界の蔑視の中、アジア人種の独立の為に、他のアジア人と手を携えて。

朝鮮半島は当時酷い状態で、アホな指導者がアホな事をしていて朝鮮半島民族は悲惨な貧困生活をしていた。まるで人間じゃない、家畜以下の生活をしていた。
手を差し伸べるのは、当然。正義感を少しでも持っていれば、当時の朝鮮半島に国際援助をするのは当たり前の事。
なので国境を越えて援助しに行った。当時の国際常識ではそれを植民地化と言う。
朝鮮半島ほど酷くはないが、他のアジア地域の多くも同様な状態だった。
手を貸そうか?手伝ってくれるの?おお、なら手伝おうか。と。
当時の日本人としては当たり前の感覚。それを当時の国際常識では植民地化と言う。

これを大東亜共栄圏と言う。
日本が戦後長らく、アジアの各所で、古老から、その子供達から、その子供の子供達から、なぜ良く言われてきたか。伝説化するまで褒め称えられてきたか。
彼らにとっては日本が来た事が救いだったから。同じアジア人が来てくれたから。アジア人の自主独立・国際的地位確立を謳っていたから。清潔に生活できる生活を作り出すのに協力してくれたから。経済的に豊かになって、教育も受けられるようになって、しかも奴隷にされない。
誰が文句言うかって・・・

当然、他の白人大国にとっては恐怖そのもの。
日本を取り込むか、駆逐するか。  駆逐です。

日本がどこで止まれたか。
軍部が強くなり過ぎていたので、あの時代は行くところまで行くしかない。
軍部を止めるのは文民。文民の長が天皇。主権は天皇にあった。統帥権は天皇にあった。

主権は国民、我々にはなかった。
止めるとしたら、太平洋戦争中。天皇しか止められない。天皇が動かなければ人民革命・一部軍部のクーデターという手はあった。
軍部の横暴を文民が制御しきれず、軍部に協力していたんだから、やはり止められるのは原爆落とされた後、天皇のやめるの独断が通るような状況になった時ですかね。
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この回答へのお礼

ご回答の趣旨はまったくその通りだと感じます。日本はヨーロッパと違い、アジアの覇者となってしまった、つまり、対抗するようなあるいは対峙するあるいは協調するという同胞がなかった。それゆえ、持てる力を周囲に拡大し啓蒙して行ったのだ。これが明治以来の外交方針です。しかし、昭和のある時期から破綻してきます。これはやはり、陸軍あるいは海軍の腐敗が大きかったのではないかと感じます。226がその頂点でしょう。このような命令を方便として用いるような軍隊に未来などやはりなかった。その他の政府方針はまったく正しかったと思いますね。

お礼日時:2009/02/21 15:25

たぶん、その時には戦争の回避に動いても、くすぶっていたものはいずれ発火したとも思います。


でも、ハルノートの内容は絶対に日本は飲むことのできない条件で提示されていたと聞きます。
他の回答者さん方々もほぼ同様な回答を寄せていますよね。その通りであるとも思います。昔の社会党だったか「スイスのような中立国を目指すべきだ」と言った自衛隊違憲論の政党員がいました。
軍隊を持てと国会で叫んだようなものです。

靖国神社の遊就館へ行ったことありますか?歴史展示物は近代まであります。零式艦上戦闘機やら特攻機、回天などの展示があります。
映像ホールで見た内容に高村光太郎の一節が出るのですが、
(いまこそ、積年の恨みを晴らす)的な字幕が映ります。
「日米修好通商条約」(不平等条約)からの独立を勝ち取ると言うことです。
この高村光太郎は詩人であり戦争についての作品もあります。その一部を分析紹介したサイトがあります。下記URLに記しますので参考ではありませんが閲覧してみて下さい。
太平洋戦争は、日本にとっては防衛戦争であったと「マッカーサー元帥の証言」があるくらいなので、対日経済封鎖がいかに死活問題であったかがわかります。
田母神元空幕長の著書「日本は侵略国家ではない」にも歴史認識としてありました。

参考URL:http://www.geocities.jp/youji15126/takamurakouta …
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この回答へのお礼

太平洋戦争は「防衛戦争」であったという認識は、おそらく是です。私はそう思います。靖国遊就館は何度も行きました。ちょっとバイアスかかっていますが、公正さは全体に貫かれているでしょう。ただ、余計な煽りが新館になってからできました。

お礼日時:2009/02/21 15:19

開戦の理由は、「戦わなければ全てを失い、最貧国になる」との認識だった筈です。


戦ってさらにその想定以上のものを失った日本が最貧国にならなかったのだから、前提条件が違っていた訳ですね。
従って、戦わなくても良かったし、交戦し無条件降伏以外の道もあった筈です。
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この回答へのお礼

戦いは、中途半端に勝って終わるという目論見でした。しかし、そう都合よくは行きませんでした。戦後日本が最貧国から急激に伸びたのは、朝鮮特需が大きいです。

お礼日時:2009/02/21 15:16

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