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疑問に思うことがあるのですが、
自分の意見を言う時にも「思われます」を使う場合がありますよね。
例えば
「今後について一度真剣に考えてみる必要があると思われます。」
と言うように。

この場合の「思われます。」にはどんな働きがありますか。
普通に「思います。」と言った時とどう違いますか。

よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

国語的な定義はちょっとわかりませんが、


印象としては客観的な意見として提案しているように感じます。
「思われます」→ 一般的にそうじゃないですか?
「思います」 → 私はそう思います
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。
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お礼日時:2009/05/06 09:28

はじめまして、つい熱が入って中傷してしまうことがありますがどうかお許し下さい。



違いです。

>思われます:何かの例がありそれにもとづいて思うこと

>思います:自分の主観の考えで思うこと

わたしの考え方でした。
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お礼日時:2009/05/06 09:29

この場合は、受け身でもなく、尊敬表現でもなく、


「思います」という言い切りの強い表現を、柔らかくした、
婉曲表現です。「思えます」も、可能ではなく、婉曲的な表現ですね。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2009/05/06 09:29

報告書や論文でよく使われる表現で、その場合はある程度の客観性を持つという意思表示になります。



文法的には、「思う」の未然形+助動詞「れる」で、この場合の、「れる」は、「自発」(自然にそうなるという意味)を表します。

単純な、「思う」と比較すると、十分な根拠をしめし、これだけの根拠を示せば、自ずと、かくかくしかじかの結論が出るという意味合いを示すものになります。

ですから、「……であると思われる」とした場合、「その根拠は」と問われたら、当然回答しなければなりません。
それに対して、「……と思う」であれば、「いや、そう思っただけです」というも、ありです。

なお、現時点では、手元の辞書(学研国語大辞典、明鏡国語辞典とも)「れる」の意味としては、「受身・可能・自発・尊敬」を挙げるのみです。
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お礼日時:2009/05/06 09:30

「思います」と言ったら、「私は私の発言内容に責任を持ちます」を含意している。



「思われます」と言ったら、反論された時の「逃げ」を用意している。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2009/05/06 09:30

「れる」「られる」には、受け身、可能、尊敬以外に、もう一つ大変重要な用法として、自発というのがあります。

質問者さんの例は、まさに自発の「思われる」です。その意味は、自分で意識してそう考えようとしているわけではないのに、自然にそうなってしまう、と言う意味です。

この自発の用法は、日本独特のものだそうで、少なくとも西洋の言葉には存在しない用法なのだと聞いたことがあります。西洋人には無い用法があるとは、何を意味するのでしょうか。それは、日本人には、西洋人と同じ様に、受け身、可能、尊敬という物の見方があるのですが、それに加えて、もう一つ別の物の見方、あるい世界観を持っていると言うことです。物理学や数学の世界で、1次元、2次元、3次元などという言葉を聞いたことがあるでしょう。数学の世界では次元が1次元増すと、その次元の分だけ自由度が増え、それより低次元の世界では不可能なことや、見えないものが見えてきます。「れる」「られる」に関して、西洋人はいわば3次元の世界に住んでいるのですが、日本人は4次元の世界に住んでいるのです。したがって、日本人は、この独特な自発の「れる」「られる」を持っているお陰で、西洋人達には見えないものがみえ、感じることができると言う自由度を持っているのです。

ところが、残念なことに、近年になって、何でも西洋のことが優れていると思うような人が増えてきて、「れる」「られる」の用法の中から、自発の用法が消えかかって来ているとのことです。自分たちの折角持っている、この世界の見方の独特な自由度を減らしてしまうのは、もったいないと思います。質問者さんは、是非この日本人の優れた用法を意識して、世界に誇るべき日本人の財産をなくさないようにしてほしいです。
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「「思われる」の「れる」の働きの文法的な分類は「自発」ということになっております。


しかし、動作(行為)主体側であることを(記述は省略してもなお)明示している「思う」にくらべると
動作(行為)主体を隠す意図が(無意識に)有る場合に使います。

この自発用法は自然現象の表現に使う場合は良いのですが、
話者の行為に対して使う場合には日本人の民族性の欠陥たる「無責任さ」が出ている用法です。
実際には話者が「思う」に決まっているにもかかわらず、
「私ではありませんよ、誰か知らぬ他の人が思っておりますよ」と言っていることになりますから無責任表現であります。

まさに有名な「あいまいな日本の私」です。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2009/05/06 09:27

#6です。


>動作(行為)主体を隠す意図が(無意識に)有る場合に使います。

日本人が自らの経験を通して気が付いた人間の心理の深みの中には、どうやら西洋人には気が付かなかった側面があるようです。「隠す」という意図を意識的だろうが無意識だろうが表現していると捉える発想が、そもそも、その人間の興味ある「自発」という脳活動の存在を認識できない、したがって、人間の心の動きのある自由度が制限されており、心のある可能性や多様性を制限された発想だと思います。

確かに、「隠す」場合もありましょうが、それ以外に、私には「見える」、「考えられる」、「思われる」等の言葉の中に、自分で隠しているわけではなく、そのように表現しなければピッタリしない、自分の意志や意図を超えた状況を心の中に感じる時があります。私は、数学的論理を使う自然科学系の研究を生業にしておりますが、研究者の世界は、自分の主張を論理的に説明して相手を納得させなければ、生き残れない世界です。ですから、私にとっては、言葉の表現の多様性や自由度を広げる可能性があるかないかは、論理の世界に生きている私にとって、生き死にの問題です。そんなとき、例えばこの例のように「自発」という、実際に私の中に起こっている心象を表す自由度や可能性を持っている日本語の多様性に、私は感謝しています。事実、私達の世界は、単に1+1=2等と言う途轍もなく単純な論理だけを使って、すなわち、時系列的かつ局所的な整合性の組み合わせだけを使ってその正しさが表現できるような現象ばかりで出来上がってはおりません。我々を取り囲んでいる自然界や人間界では、もっと高度に、空間的や時間的な長距離相関に着目して非局所的な論理を使って理解する必要のあるような複雑な現象の方のが圧倒的に多いのです。言葉の多様性は、私達が現に埋めもまれているそんな現実の世界を説得力ある形で誤解なく論理的に説明する場合の、一つの自由度を与えてくれているので、私はそんな多様性に感謝しております。

要は、自発という心象を持っているかいなかの問題です。そのような座標軸を持っていない人にとっては、自発とは言い訳がましく「隠している」という以外にその意味を理解できないというのも、これまた論理的に納得が致します。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2009/05/06 09:27

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