痔になりやすい生活習慣とは?

日本の戦後復興と経済成長を遂げたのはアメリカが経済救済・支援と軍事的支援をしたことが大きな要因の一つだと聞きます。具体的にどういった経済・軍事支援が日本の復興・経済成長に導いたんでしょうか?
1945~60年の間にアメリカが支援したことを教えてほしいです。高度経済成長時でなくて。よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

・米軍ガリオア・エロア資金供与


第二次世界大戦直後の日本は、まさに灰燼の中にあった。その混乱と疲弊から立ち直り、経済大国への道を歩む上で、米軍からの資金援助である「ガリオア・エロア資金」の果たした役割は計り知れないものがあった。
 1946年から51年にかけて、約6年間にわたり日本が受けたガリオア・エロア援助の総額は、約18億ドルであり、そのうちの13億ドルは無償援助(贈与)であった。この援助がなければ日本の経済復興は考えられなかったのである。
 ガリオア資金:米軍予算の一部を使って、旧敵国の民主化復興を支援するために設立され占領地救済政府基金(GARIOA:Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)、、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、日本では、当初は貿易資金特別会計に繰り入れられ、貿易の補助金として日本政府の裁量で運用されていたが、1949年からはドッジ・ラインの枠組みの中で西ドイツと同様に見返り資金としての計上を義務付けられた。
 エロア資金:占領地経済復興基金(EROA:Economic Rehabilitation in Occupied Areas)石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給、綿花や羊毛などの輸入原料購入に充てられた。

・日本を飢餓から救った食料医薬品援助「ララ物資」「ケア物資」
「ララ物資」「ケア物資」とは戦後、食料品や医薬品そして日用品など、いろいろ不足していた時代に、腹を空かせ病に苦しむ日本の子供たちをはじめ多くの人々を救ってくれた救援物資である
「ララ物資」LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟) 戦後、日本を救済するために、アメリカはもとより、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資として送り出す窓口として、1946年6月に結成されたNGOが、「ララ:LARA」であった。 そして同年11月、アメリカの有力NGOの協力を得て、輸送を開始し、全てのララ物資は無事横浜港に到着したのである。
(推定では当時のお金で約400億円相当)
「ケア物資」 1945年の終戦直後、戦後、救済のために、アメリカで設立されたNGOの一つに「ケア」(CARE:Cooperative for Assistance and Relief Everywhere)があった。「ケア」は1948年にヨ-ロッパ以外ではじめて日本に事務所を開設し、救援活動を開始した。 1948年から55年にかけて、日本などに送られた「ケア物資」は金額にして5000万ドル(当時では180億円、現在の貨幣価値に換算すれば約4000億円)に達した。 その内容は、食料品、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖、および石鹸など日用品も含め多岐にわたるものであった。 このケア物資によって助けられた日本人は小中学生をはじめ1,500万人に上った。

・フルブライト留学制度
日本が物資不足、食糧不足に悩み苦しんでいた戦後まもない頃に、将来の日本を考え、人材育成のために、若人に大きな夢と希望を与えてくれた制度がある。
 フルブライト留学制度である。
 終戦直後の1946年、フルブライト米上院議員の提唱で始まったこの制度によって、世界百数十カ国からこれまでに20万人以上の学生や研究者がアメリカへ渡った。
 日本でも1952年にスタート、これまでに約6,500人の人々がこの制度によりアメリカ留学をはたしたのである。この人達はフルブライタ-と呼ばれ、戦後の日本の財界、政界、官界および教育界で活躍し、日本の発展に大いに寄与したのである。
 また、高校生レベルでは、アメリカン・フィールド・サービス(AFS)留学制度により、多くの高校生がアメリカに渡り、現地の高校でアメリカ人学生と一緒に学び、ホームステイをして多くの友人を作り、将来の日本を担う社会人へと育っていったのである。

・民主警察と戦力無き軍隊
 進駐軍の援助により、治安回復のため、警察は民主化と科学捜査・機械化、全警官への拳銃装備が行われた。そして密輸海賊根絶のため、海上保安庁の設立。日本の自衛と、国連安全保障への貢献のため、米軍・国連軍と連携する、(侵略)戦力無き軍隊である警察予備隊→保安隊→自衛隊が組織された。

・ユニセフと世界銀行
戦後の日本の衛生状態、食糧事情は悪かった。 多くの子供たちは栄養失調と病気に苦しんでいた。 その子供たちを救済してくれた国連機関があった。「ユニセフ」である。「ユニセフ」(UNICEF、国連児童基金)は、自然災害や戦争などにより被害を受け、伝染病や栄養失調に苦しむ子供たちを救済するために設けられた国連機関(現在約140カ国を支援)である。 「ユニセフ」は、日本の子供たちのために、約65億円(現在の貨幣価値として約1,300億円)の資金を提供してくれたのである。
 戦後間もない1953年から導入されはじめた世界銀行(国際復興開発銀行)からの低金利の融資は合計8億6,000万ドル(当時の日本円では3,200億円、現在の額に換算すれば約6兆円)に達し、インドに次ぎ2番目の大きな金額であった。つまり日本は世界でもっともお世話になった被援助大国の一つであったのである。 当時の日本の経済力はアメリカのわずか数%に過ぎず、正に、開発途上国そのものであった。 日本はその資金を、東海道新幹線や東名高速道路、そして黒四ダム、愛知用水といった日本のもっとも必要とした経済発展のインフラ(経済基盤)整備に使い、その結果、日本は驚異的な発展を遂げたのである。 日本は毎年着実に世銀ローンを返し続け、90年7月、全ての借金の返済を終了した。
 ユニセフも世界銀行も、当時はアメリカが最大の出資国である
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一番大きかったのは朝鮮戦争特需でしょう。

これは計画的な支援というよりも、結果として日本経済を救済した、立ち直りのきっかけを与えたということだと思います(戦争の勃発自体は計画ではないですから)。

何しろ、戦争ですから武器・軍需物資などの生産、修理、備蓄、さらに兵員の死傷への対応や休暇などの拠点が必要になります。ところが、朝鮮半島に近く、アメリカの友好国であり、かつ米軍の武器・物資などの生産、備蓄や修理ができるだけの潜在的な工業水準がある国となると、当時の極東では日本以外に無かったのです。

今なら中華民国(台湾)あたりでも可能でしょうが、当時は1949年に中華人民共和国が成立し、国民党が台湾に逃げてきたばかりですから、とてもそれだけの力はありません。

それで、アメリカは空襲で壊滅した日本の鉱工業の復活を意図的に主導します。戦争は最大の消費ですから、米軍の必要とする物資を生産する限り必ず売れます。その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドルといわれています。昭和25年当時の日本の国家予算が8千億(当時は1ドル360円時代)程度の時期の10億ドル=3600億です。この3年間で日本の工業生産額は一気に伸びました。

また、その過程で最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることが出来た点も、その後の高度成長に向けて大きなポイントでした。

その他には、日米安保条約に基づく軽武装・経済優先の吉田ドクトリンも大きな要因だったと思います。
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表だった軍事支援と経済援助ですね。



貸与に該当する物。(百科自転を引用せず記憶のみ)

保安隊
小銃、対戦車装備。(攻撃訓練で警察官の多くが退職します。)
予備隊
軽戦車等の装備。

当時は軍需は国産を容認されていませんでした。
TIPE61では出来る限りの国産を目指します。

2サイクルディーゼル、クロスドライブトランスミッションは
エンジン特性に癖があり、変速機は操作に熟練を要します。

護衛艦には対潜装備と小火器程度が承認されます。
次いでF-1対地支援機を容認させます。

経済的には、
生産ラインと言う大量生産方法。
規格と言う物。(同じ物を作り、共有出来る部品)
デパートメントと言うアメリカ商法。

商店街と言う小売商が消え、都内の町工場が消えました。

都内には相当数の旋盤1台などの工場が軒を並べ、
炭屋が炭を販売していました。
自転車、リアカーや2輪と三輪車が流通を支えていました。

ユニセフより、脱脂粉乳などの支援15年(延べ15億円)
世界中の方々からの支援です。

チョコレートは米軍口料として常備。
食料も無い状態を知った米兵は、外出に際しては出来る限りチョコレートを購入したと言います。
多くは兵士のポケットマネーで賄われていた為、配布が出来ずに撒いたとも言われています。

ですので、
米軍やアメリカだけが支援していたと言う事ではありません。

米軍の食事に際しては、
「残飯は日本に配ります。パンはパンの箱に。肉は肉の箱に、スープはスープの箱に入れてください」
と分別されていました。

歯型が付いたハムが有名ですが、
相手も珍しくおいしいハムが出たのに一口だけで我慢していたのです。
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Q戦後、日本が奇跡的経済復興を成し遂げた理由。

戦後、日本が奇跡的経済復興を成し遂げた理由。

敗戦後30年程度で、新幹線を走らせ、
アメリカという他民族国家を除けば、単一民族国家として世界第一の経済大国になった日本。

その原因はなんでしょうか。
あなたのご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

余談ですが, 確かに大和級は 3艦しか作ってないものの, さらに大口径の主砲を持つ伊勢級 2艦 (伊勢, 尾張) の設計ははじまってましたね.
新幹線については戦前の弾丸列車計画が大きいでしょうねぇ.

Q戦後日本の急速な高度発展・技術革新の理由は?

戦後の日本は、奇跡とも呼ばれる超高度発展を遂げたと言われますが、
なぜ日本だけがこうした成長を可能にしたのでしょうか?
また、自動車産業やカメラなど日本が世界のトップシェアを誇る分野は多くありますが
成長当時の日本が世界に台頭してきたとき、世界の反応はどんなものだったのでしょうか?
分かりやすくまとめてある本やサイトがなかなか見つからないので
お勧めの文献などあればそちらも教えて頂きたいです。
分かりにくい文章で恐縮ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

素人ですので、常識的な回答を。
1.朝鮮戦争の影響。敗戦で産業が壊滅状態になった日本が急速に回復した第一の理由は朝鮮戦争に伴う、特需。後方補給基地として、アメリカが安心して食料や雑貨、資材の調達、船舶・車両等の修理、などができる国は、当時近隣で日本しかなかった。中国は東側、台湾は政権が成立したばかりで産業基盤がない、朝鮮は戦争当事国。となると、日本しか無い。
2.安保条約による軽武装・産業優先政策。
東西冷戦の中で、日本がアメリカの傘の下、軍事費に予算を使わずに産業育成に資金を使うことが出来た。極東アジアは当時東側の影響が強く、日本はその防波堤の役割を担うため、アメリカが軍事的に保護政策をとった。そのため、日本自身で軍事費を負担することが最低限で済んだ。そのため、産業育成に湯水のごとく資金を注ぎ込むことが可能だった。
3.政府による産業育成、保護政策
「日本は唯一成功した社会主義国」と揶揄されるほど、大蔵・通産等の業界保護政策、金融保護政策は徹底していた。有名な「護送船団方式」、外貨割り当ての政策利用。また、1ドル=360円体制を死守するなど、輸出産業育成を政策課題としたこと。

もちろん、国の基盤として、義務教育が浸透し、良質で均質な労働者が多数存在したこと、そもそも戦前からそれなりの産業基盤があったこと、などがこれらの背景にはあるでしょう。

外国の反応ですが、60年代 made in Japan と言えば、「値段は安いけど粗悪品」の代名詞でした。少し前の、中国製品に対する私たちの反応を思い出してくれれば良いと思います。あれと同じです。また、「猿まねジャップ」ということも60年代から70年代前半には良く聞きました。これは製品だけではなく、テレビ番組や文化そのものへの批判です。

今、ネット右翼などという人達(たぶん若者)が、よく韓国に対して同じような発言をしています。当時を知っている我々からすると、「かつては日本も同じように欧米から言われてたんだけどな」と思い、痛々しく感じます。(だから、私は絶対にそういうことは言いません。それは国が発展するときに一度は通る道だと思いますので)

日本製品の評価が目に見えて「良くなってきたな」と、庶民レベルでも実感するようになったのは、70年代後半からですね。電化製品・車などドイツ製品と日本製品が、同じテーブルで比較の対象になるようになってきました。

素人ですので、常識的な回答を。
1.朝鮮戦争の影響。敗戦で産業が壊滅状態になった日本が急速に回復した第一の理由は朝鮮戦争に伴う、特需。後方補給基地として、アメリカが安心して食料や雑貨、資材の調達、船舶・車両等の修理、などができる国は、当時近隣で日本しかなかった。中国は東側、台湾は政権が成立したばかりで産業基盤がない、朝鮮は戦争当事国。となると、日本しか無い。
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Q戦後、アメリカからはどのような支援がされましたか?

第二次世界大戦後にアメリカ軍は日本に対して、何かしらの支援をしてくれたのでしょうか?

Aベストアンサー

アメリカは食糧を援助してくれました。

アメリカにとっては、戦後の余剰農産物のはけ口だった、という見方もありますが、極度の食糧不足に陥っていた日本人にとっては有り難いことでした。
「鬼畜」と呼んでいたアメリカに対する見方は一挙に好感に変わりました。

ソ連は、日本に援助するどころか、大陸で捕虜になった多数の日本人をシベリアで酷使しました。
敗戦というドラスティックな環境のもとでも、日本が共産主義化することがなかったのも、このアメリカの食糧援助があったからだと思います。

同時に、パン食の普及活動など、後々の穀物販売の布石もちゃっかりやっていましたが…。

Q日本が第二次世界大戦後、高度成長を遂げた理由について

 こんにちは。
妹に、試験でこのような問題が出たと言われ、私はうまく答えられなかったので、回答ください(>_<)

 『第二次大戦後、日本が高度成長を遂げたのはなぜか?』というような問題です。

 皆様の回答お待ちしています!!

Aベストアンサー

以下のHPが、わかり易いと思います。
でも、簡単に答えるなら、

当時の日本人が、勤勉でよく働いたから、でしょうかね
識字率が高かったと言うのも良い結果を招きいれた原因の一つだと思います。確か当時の識字率はアメリカ人のそれよりも高かったと言う結果を、見たことがあります。
でもそればかりでは、発展は難しかったでしょう、
私の考えではやはり、物造りに関しての工業の基礎が
しっかりしていたからだと思います。
でないと、当時、世界最高だと言われた零戦などは
製造することは出来なかったでしょう。
零戦を造っていた三菱重工や、造船、機関車の製造等の日立、石川島播磨などが戦後でも大企業で残っているのを考えると良くわかるでしょう。
戦争前や戦中に育まれた豊富な技術や人材が民需に上手く転用された事が、高度経済成長の一つの要因になったと思いますが・・・・

参考URL:http://members.at.infoseek.co.jp/J_Coffee/keizaishi.html#yokinfuusa

Q日本が先進国へと発展した理由

現在日本は先進国として認められていますが、どのようなきっかけで先進国へと発展していったのでしょうか?
背景にある事柄や時期などについて返答お願いいたします。

Aベストアンサー

 戦後復興のきっかけはやはり「朝鮮戦争」であり、北朝鮮が韓国の併合を目指した戦争で、日本は米国の軍事基地となり輸出により朝鮮景気と呼ばれる好景気になりました。その後、万博、東京オリンピックを契機に高度成長を継続させ、経済大国と呼ばれるまでになります。
戦後、発展途上国と言われる国家群をテイクオフさせようとして、やや成功したかもと思われるのは極東諸国のみという現状を考えても、単純な問題ではありません。奇跡と呼ばれる、明治維新、戦後復興の原因を少数のイベントに特定することはできないでしょう。
 歴史的に見るなら、日本の歴史は平安頃までの古代王朝、鎌倉幕府からの封建制、江戸時代の専制君主制、明治維新以後の絶対君主制、戦後の民主制とヨーロッパに似た推移をしています(もちろん、かなり異なる部分がありますが)。ヨーロッパに似た、より発展した社会を目指すような風土、変革を受け入れる国民性があったのではないでしょうか。

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Q昭和17年頃でいう5円は今で言うとどの位の価値なのでしょうか?

昭和17年頃でいう5円は今で言うとどの位の価値なのでしょうか?

Aベストアンサー

昭和15年春に私の両親は見合い結婚をしました。
母親(90)に聞いた話ですが、当時の結納金は200円だったそうです。
嫁入り支度に用意した会津桐の柾目箪笥は現在は100万円くらいですが、当時は100円で買えたそうです。
また、母親が嫁ぐ前に鉄工所の事務員をしてたそうですが、月給35円だったそうです。
父親が用意した新居は東京浅草でしたが、2千円で3階建が建ったそうです。
当時の物価は父親が好きだったカレーライスが10銭(100銭=1円)、映画館の入場料が50銭だったそうですから、物にもよりますが、現在の貨幣価値に換算すると5千~1万倍になります。
翌年の昭和16年12月8日に真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入した訳ですが、特にインフレになった話はしてませんから、昭和17年頃の5円は現在の2万5千円から5万円近い価値があったはずです。

Q韓国が返す気のない日本から借りたお金の額

ネットの掲示板を見ていると時々、わけの分からない回答に出くわします。
その1つが韓国が返す気がまったくないとされる日本からのお金です。
先日も64兆円さっさと返せという投稿を見かけました。
それも複数の箇所で。ということはそういう情報でもあるのでしょうか。

64兆円はさすがに現実離れしていますが、噂は一向に後を絶ちません。
日韓W杯のスタジアム建設も日本に泣きついて来たといいます。
なのにW杯では日本を貶める行動ばかり。本当なら非常に不愉快です。

一方で、借りた金はしっかりと返している。そんなの妄想だという意見も目にします。
そんなこんなで実態がよく分かっていないわけです。
韓国が返す気のない日本から借りたお金というのは存在するのでしょうか。
あるとすれば、それはODAのようなものなのでしょうか。
もし金額まで分かれば、お願いします。

Aベストアンサー

>一番上の資料だと韓国の借りた累計は1兆円にも届いてないようですが?

 すいません。韓国の場合はこのような累計です。
 借款のほかに無償供与、資産放棄も含めですね。

 1965年の韓国と日本と日韓基本条約で
 無償金3億ドル・有償金2億ドル・民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在価格では合計4兆5千億円相当を供与
 後は韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル)
 これだけで現在価格45兆円ほどです
 後国際協力銀行とかを含め最大に計算して60兆という数字になります

>それにしてもスタジアム建設の話は本当なのでしょうか?
 はい

最初に手を挙げたのは日本で、それを知った韓国があわてて手を挙げた。
立候補は他になく、日韓の一騎打ちになった。

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派と欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。

直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となった。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から趨勢を悟ったアヴェランジェ会長は定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして1996年5月30日FIFA理事会は「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名でホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送り、欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本は想定外となる共同開催決定に苦渋の決断で受け入れを表明。翌日の5月31日には、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」か「開催地決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。

結局、決着はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でもあったが、アヴェランジェ会長は名誉ある退席を選んだが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した。

その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金 (IMF) の管理下に入った。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。結局、開催1年前を切って既に観戦ツアーやチケットの販売が始まっていた事や韓国での開催が韓国経済を上向きにさせるとの見解に立った日本政府からの融資(輸銀融資30億ドル)を受けて、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。

 まず日韓開催決定し、その後金融危機で韓国が金がなくなり日本から金を借りてスタジアムを完成させた、の順です

>一番上の資料だと韓国の借りた累計は1兆円にも届いてないようですが?

 すいません。韓国の場合はこのような累計です。
 借款のほかに無償供与、資産放棄も含めですね。

 1965年の韓国と日本と日韓基本条約で
 無償金3億ドル・有償金2億ドル・民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在価格では合計4兆5千億円相当を供与
 後は韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル)
 これだけで現在価格45兆円ほどです
 後国際協力銀...続きを読む

Q日本はどうして発展できたのか?

こんばんわ。
最近幕末~の日本史について学んでいるのですが、
幕末~明治維新、そして戦争を体験して敗戦、そして高度経済成長を短期間でとげていった日本のすごさに、新ためてびっくり、そして疑問がわいてきます。
日本は元々まずしかったはず、なのにここまで発展できたのはどうしてなのでしょうか?日本史の本を読んでいると、いろいろな時代に偉人がでてきます。こういう人たちが他の国より多く出現したから成功できたのでしょうか?
また、他の国(にたような環境としてアジア)はどうして日本のようにならなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんばんは。

ご質問の文章を、「幕末~明治維新、第2次世界大戦の終戦~高度経済成長の終わりの2つの時期が短期間だった」と解釈してよろしいのでしょうか?

上記のように解釈して話を進めます。

一言で言うならば「内戦などがなく、政治が安定していた」でしょうね。
同時期の他の国々は内戦状態にあったと思いませんか?上記2つの時期共に中国は内戦状態ですよね。

それに比べて日本は、明治維新期に「西南戦争」があった以外に内戦はないですよね。そう言う状況下で国家・国民が一体となり「富国」のために突き進んだ結果だと思います。

まぁ、日本国民族と言う民族が、「他(の文化・文明)を吸収しやすい民族だから」という捉え方もありますが。。。


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