人生最悪の忘れ物

こんにちは。

三国志自体はおもしろいし好きなのですが、実際のところ、どこまで本当なのか気になり始めました。

(1)曹操は本人の才能もさることながら、漢の重臣の家柄出なのでその後の活躍ぶりは納得もできます。ただ、田舎で莚を編んで暮らしていた劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?

(2)関羽張飛など鬼のように強い武将がいますが、いくら強くても、遠くから弓矢で集中攻撃したり、槍ぶすまで応酬したりしたら倒せるような気がします。一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

(3)孔明に関してはやや神がかり過ぎな感じはしますが、軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?


曹操や劉備関羽張飛孔明らが存在して、三国時代というものがあったということは確実でしょうが、一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか、皆様のお考えをきかせてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

>劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?



人生で浮き沈みがあり、出世した!というのは本当です。
が、物語的に色々と脚色しているようです。
日本で言うところの、秀吉と同じです。

>一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

豪傑だったのは間違いないようです。
ただ、将の下には数百の雑兵・足軽が存在します。
戦闘に勝利しても、将の名前が武勇伝として残るのみで、実際の戦闘員の名前は残りません。
日露戦争でも、乃木大将の武勇伝は伝わっていますが、数十万の名もなき日本戦死者(一般兵)の氏名は伝わっていませんよね。
(靖国など一部で、記録があるだけです)

>軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?

孔明の場合は、地理学・天文学を用いた戦略を立てています。
ある程度信用しても大丈夫でしよう。
事実、三国志の頃の気象状況(風向きが変わった・太陽が隠れたなど)が「孔明の行動」と合致しています。

>一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか

物語としての三国志と、歴史としての三国志は異なります。
伝わっているのは、物語としての三国志ですね。
よく例としてだされるのが、忠臣蔵です。
忠臣蔵は物語(戯曲)であって、史実ではありません。
「吉良の首を取って泉岳寺まで行進した。江戸市民は歓喜を持って迎えた」事に物語・忠臣蔵ではなっていますが、そんな事実はありません。
(忠臣蔵には、実在しない人物が多く登場しています)

三国志は、史実を元にした歴史小説と考えた方が良いです。
が、三顧の礼など諺の謂れが分かって面白いですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豪傑が刀槍を振り回して敵兵を薙ぎ倒す、というイメージは豪快・痛快ですが、本当は、張飛や関羽が自軍部隊の統率に優れていた、ということなのでしょうか?
噂話に尾ひれがつく時代だったでしょうから、「敵の軍に張飛がいる」と知っただけである程度の戦意消失効果があったのかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/16 13:22

三国志の時代というのは、卑弥呼の時代より少し前の時代です。

邪馬台国論争で出てくる魏志倭人伝の魏はまさに三国志の魏なのです。そう考えると、「ずいぶん前の話だなあ」とリアルに感じるはずです。

で、武将についてですが、そういう時代なわけですからやれ兵法がどうのこうのといいながらも兵士の99%は有象無象の烏合の衆に過ぎないわけです。軍隊は、勇敢で優秀な武将に率いられて初めて戦力になりえたといえます。
それでもって、実際の当時の戦闘がどんなものだったのかというのは、実はあまりはっきり分かりません。あまりにも昔でビジュアルイメージを感じられる資料がないのです。
最近の研究で、どうやら三国時代の中国では馬具にはまだあぶみがなかったといわれているそうです。あぶみがなければ馬上で槍を振り回すなんてのは不可能ですから、そうなると三国志のイメージの一騎打ちもはたして本当に存在したのかかなり怪しくなります。
結局のところ科学的態度をとるなら、当時の戦闘がどんなものだったのかは「わからない」としか答えがないわけです。

孔明先生については、三国志演義特に吉川英治三国志で神がかり的存在で描かれていますから、かなり差っぴいて考えたほうが良さそうです。吉川先生は小説家ですから、小説として話を面白くかつ吉川三国志は少年向けというのもあって10代の青少年にも理解しやすくするために、孔明先生をああいう描き方にしたと思います。ドラゴンボールの悟空や北斗の拳のケンシロウを見ればわかりやすいですよね。強いスーパーヒーローは少年の心をつかむのです。
実際の孔明先生は、辺境の地だった蜀を国家として整備した司政官としての能力と、寄せ集め集団だった劉備家臣団を劉備亡き後もまとめた政治家としての能力はかなり評価していいと思いますが、軍事司令官としての能力はいまいちだったように思います。口の悪い人にいわせると「孔明先生には軍師が必要だった」のだそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

卑弥呼の時代というと、ようやく稲作が広まり、村が大きくなり、豪族が力をつけ・・・という時代ですね。中国はその数百年も前から戦乱があった(春秋戦国時代とか項羽と劉邦とか)んですね。

鐙がないとすると、馬に乗って何をしていたんでしょうね。騎兵として活躍するのは困難なわけで、やや高い視点から戦況を眺めるとかでしょうか。秦の始皇帝の兵馬俑の像とかから何かわからないでしょうかね。

私も子供の頃は彼らを単なるキャラクターとしてしか認識していませんでした。この年になり、人生の辛酸を舐めたというほどでもないですが、彼らを等身大の人間として見ることができるようになったと思います。
手柄争いや騙し合い、裏切りと忠義、敗北と勝利・・・真偽不明のまま読者が自由に想像できる三国志もおもしろいかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/16 14:21

三国志と通常呼ばれるものには、歴史書である「三国志」と、歴史書を元に書かれた「三国志演義」という小説、およびその小説を基に書かれた漫画や小説やゲームなどがあります。


三国志演義やその他の小説やゲームなどは史実に基づいている部分もありますが、作者の創作も混じっています。

ただし、
(1)の劉備が庶民から蜀漢の皇帝を自称するまでになったのは、史実として記載されていたと思います。

>(2)関羽張飛など鬼のように強い武将がいますが、いくら強くても、遠くから弓矢で集中攻撃したり、槍ぶすまで応酬したりしたら倒せるような気がします。一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?
活躍については、かなり小説家の創作が多いと思います。
関羽や張飛についても、その武勇についての記載は小説寄りはかなり少ないです。だれそれと一騎打ちをした…などという記載もなかったと思います。
WIKIの受け売りですが、
>208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた(長坂の戦い)。
>張飛は二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。

これは歴史書「三国志」にも載っています。歴史書であっても編纂者が間違えてかいちゃうこともあるかもしれませんが、実際に「二十騎で数線の敵を追い払う」ということがあったのかもしれません。

関羽についても官渡の戦いで、顔良という武将を討ち取った旨、歴史書には書いています。

>(3)孔明に関してはやや神がかり過ぎな感じはしますが、軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?
小説では、さまざまな策略を使って戦場を意のままに操るような記述がありました。
ですが、ちょっとうろおぼえで自信がないのですが、歴史書のほうでは、
たとえば、赤壁の戦いでは「孫権に戦いを決心させる」という記述はありましたが、実際にさまざまな計略を使ったという記述はなかったようにおもいます。(孫権に戦いを決心させたということはすごいことですが。)

歴史書では、各人物の事績を行った後に、著者のコメントが書かれています。
がそのコメントでは諸葛亮の政治家としての手腕を褒め称えています。しかし、軍略については
「毎年のように軍隊を動かしたのに失敗したのは、臨機応援に軍を動かすことが苦手だったのでは?」と書いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

長坂の張飛に対してこそ、まさに弓矢の集中攻撃の的のような気がします。
一騎打ちに関しては、個人対個人で倒したというより、本当は乱戦の中で戦死したのを大将が討ち取ったことにした、というのが事実なんでしょうか。

孔明に関しては、曹操の南征先遣隊の夏侯惇軍10万を博望坡で破った華々しいデビューも、演義の創作のようですね。
瑣末な事件まで自ら決済していたため過労死したというのはおそらく事実なんでしょうね。皆様はご自愛ください。

お礼日時:2009/05/16 13:57

お初です


他の方のご指摘の通り日本で流布している「三国志」の多くは「三国志演義」を元にしています。「三国志演義」とは正史「三国志」を基にした歴史小説で明代に書かれました。蜀漢をメインにて書かれています。一方、正史「三国志」は西晋の史書編纂官の陳壽によって編纂された歴史書です。晋(西晋)は魏からの禅譲によって建国されたものですので、魏がメインとなっています(本紀は魏帝室のみなので) 但し、陳壽は蜀の人で蜀漢の記述は気を使っています。また、諸葛孔明に関しては賛辞を送っています(現存せず)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が小学生の頃読んだのはマンガの横山三国志で、NHKの人形劇三国志も全部ではありませんが見ていました。私は見ていませんが、他には吉川三国志、最近では蒼天航路が有名どころでしょうか。
これらはみな「演義」を基にした作品のようですね。

「正史」が出版されているのは知りませんでした。読破はしんどそうですが、図書館とかで探してみたいと思います。とはいえ、「正史」だから事実とも限らないのが隔靴掻痒な感じです。

お礼日時:2009/05/16 13:38

まず回答NO1の方の訂正から・・・。


諸葛孔明の兄は諸葛謹で、その子が諸葛恪。

でわ本題ですが基本的には回答No2さんに同意します。
>劉備が浮き沈みを経て立身出世について
 これは事実でしょう。劉玄徳は後漢皇室の末裔と名乗っていますが、三国時
代に後漢皇室の末裔は何万といたと言われています。
 しかも元々軍閥基盤のない街の任侠の頭分だったようなので最初は上手く往かないことが多々あったみたいです。でも傭兵集団稼業を繰り返していくうちに信頼されるようになり一方の雄となったようです。
次に
関羽・張飛等の豪傑の活躍について
 そもそも軍団全てが騎馬のみとか弓手ばかりとかはありえません。
1つの陣には弓・弩・槍・馬等が必ず有り、それが陣法にのっとり展開していきます。武将1人で軍勢の中に突っ込んでいくことは呂布でもしないでしょう(笑
ただ個人戦においては常人以上の能力を持っていたには違いないと思います。
次に孔明について
 孔明は昔も今も人心を読み天象を操り千変万化の策略を捻り出す天才というよりも超人に近い軍師に書かれることが多いですが実際には「極めて有能な官僚・政治家」だったようです。
 彼は自身の事を管仲・楽毅になぞらえています(管仲は春秋時代の政治家・楽毅は戦国時代の武将ですが、連合を結ぶため各国を遊説し取りまとめています)。これは2人のように救国の志士たる気概があったということだと思います。
 最後に今、巷で流布されている三国志は羅漢中が執筆した「三国志演義」が基になっているものがほとんどです。「演義」というのは物語、時代小説と理解したほうがよいでしょう。ただし「史実を弁えて、その中に巷で噂されていた逸話などを取りまとめたもの」です
 史実に近いものを知りたいのなら史書「三国志」を読むべきです。かなり長い時間がかかると思いますが読み応えは大アリです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「劉備の傭兵集団」というイメージはしっくりくる感じですね。
数十人か数百人の集団とはいえ、リーダーに担がれる何かがあった人だったということなんでしょうし、その後次々とパトロンやシンパが現れたり、命がけで尽くしてもらえたりするのもある程度は事実なんでしょうね。

盧植門下で学んだというのが劉備にとっての登竜門だったような気がします。やはり野心や情熱もあったんだろうなと思いました。

お礼日時:2009/05/16 13:30

孔明(諸葛亮)は実在しましたが専ら「有能な官僚」でした。


孔明の兄貴の諸葛格は孫堅の重臣でした。
その子諸葛謹(?)はやり過ぎで身を滅ぼしたのは事実のようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

孔明の子と孫で、蜀滅亡時に戦死した諸葛瞻・諸葛尚親子も忘れられない存在ですね。三国志作者の陳寿は、諸葛瞻の部下だったときに諸葛瞻に酷い目に遭わされたために、孔明にやや辛口になったともいわれているそうですね。

あと、諸葛一族ではないでしょうが、隆中の草庵にいた童子が気になります。彼が後に姜維として孔明と再会するとかだったらすごいですが(笑)


wiki諸葛亮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B% …

お礼日時:2009/05/10 11:21

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