痔になりやすい生活習慣とは?

こんにちは。

三国志自体はおもしろいし好きなのですが、実際のところ、どこまで本当なのか気になり始めました。

(1)曹操は本人の才能もさることながら、漢の重臣の家柄出なのでその後の活躍ぶりは納得もできます。ただ、田舎で莚を編んで暮らしていた劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?

(2)関羽張飛など鬼のように強い武将がいますが、いくら強くても、遠くから弓矢で集中攻撃したり、槍ぶすまで応酬したりしたら倒せるような気がします。一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

(3)孔明に関してはやや神がかり過ぎな感じはしますが、軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?


曹操や劉備関羽張飛孔明らが存在して、三国時代というものがあったということは確実でしょうが、一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか、皆様のお考えをきかせてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

>劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?



人生で浮き沈みがあり、出世した!というのは本当です。
が、物語的に色々と脚色しているようです。
日本で言うところの、秀吉と同じです。

>一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

豪傑だったのは間違いないようです。
ただ、将の下には数百の雑兵・足軽が存在します。
戦闘に勝利しても、将の名前が武勇伝として残るのみで、実際の戦闘員の名前は残りません。
日露戦争でも、乃木大将の武勇伝は伝わっていますが、数十万の名もなき日本戦死者(一般兵)の氏名は伝わっていませんよね。
(靖国など一部で、記録があるだけです)

>軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?

孔明の場合は、地理学・天文学を用いた戦略を立てています。
ある程度信用しても大丈夫でしよう。
事実、三国志の頃の気象状況(風向きが変わった・太陽が隠れたなど)が「孔明の行動」と合致しています。

>一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか

物語としての三国志と、歴史としての三国志は異なります。
伝わっているのは、物語としての三国志ですね。
よく例としてだされるのが、忠臣蔵です。
忠臣蔵は物語(戯曲)であって、史実ではありません。
「吉良の首を取って泉岳寺まで行進した。江戸市民は歓喜を持って迎えた」事に物語・忠臣蔵ではなっていますが、そんな事実はありません。
(忠臣蔵には、実在しない人物が多く登場しています)

三国志は、史実を元にした歴史小説と考えた方が良いです。
が、三顧の礼など諺の謂れが分かって面白いですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豪傑が刀槍を振り回して敵兵を薙ぎ倒す、というイメージは豪快・痛快ですが、本当は、張飛や関羽が自軍部隊の統率に優れていた、ということなのでしょうか?
噂話に尾ひれがつく時代だったでしょうから、「敵の軍に張飛がいる」と知っただけである程度の戦意消失効果があったのかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/16 13:22

三国志の時代というのは、卑弥呼の時代より少し前の時代です。

邪馬台国論争で出てくる魏志倭人伝の魏はまさに三国志の魏なのです。そう考えると、「ずいぶん前の話だなあ」とリアルに感じるはずです。

で、武将についてですが、そういう時代なわけですからやれ兵法がどうのこうのといいながらも兵士の99%は有象無象の烏合の衆に過ぎないわけです。軍隊は、勇敢で優秀な武将に率いられて初めて戦力になりえたといえます。
それでもって、実際の当時の戦闘がどんなものだったのかというのは、実はあまりはっきり分かりません。あまりにも昔でビジュアルイメージを感じられる資料がないのです。
最近の研究で、どうやら三国時代の中国では馬具にはまだあぶみがなかったといわれているそうです。あぶみがなければ馬上で槍を振り回すなんてのは不可能ですから、そうなると三国志のイメージの一騎打ちもはたして本当に存在したのかかなり怪しくなります。
結局のところ科学的態度をとるなら、当時の戦闘がどんなものだったのかは「わからない」としか答えがないわけです。

孔明先生については、三国志演義特に吉川英治三国志で神がかり的存在で描かれていますから、かなり差っぴいて考えたほうが良さそうです。吉川先生は小説家ですから、小説として話を面白くかつ吉川三国志は少年向けというのもあって10代の青少年にも理解しやすくするために、孔明先生をああいう描き方にしたと思います。ドラゴンボールの悟空や北斗の拳のケンシロウを見ればわかりやすいですよね。強いスーパーヒーローは少年の心をつかむのです。
実際の孔明先生は、辺境の地だった蜀を国家として整備した司政官としての能力と、寄せ集め集団だった劉備家臣団を劉備亡き後もまとめた政治家としての能力はかなり評価していいと思いますが、軍事司令官としての能力はいまいちだったように思います。口の悪い人にいわせると「孔明先生には軍師が必要だった」のだそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

卑弥呼の時代というと、ようやく稲作が広まり、村が大きくなり、豪族が力をつけ・・・という時代ですね。中国はその数百年も前から戦乱があった(春秋戦国時代とか項羽と劉邦とか)んですね。

鐙がないとすると、馬に乗って何をしていたんでしょうね。騎兵として活躍するのは困難なわけで、やや高い視点から戦況を眺めるとかでしょうか。秦の始皇帝の兵馬俑の像とかから何かわからないでしょうかね。

私も子供の頃は彼らを単なるキャラクターとしてしか認識していませんでした。この年になり、人生の辛酸を舐めたというほどでもないですが、彼らを等身大の人間として見ることができるようになったと思います。
手柄争いや騙し合い、裏切りと忠義、敗北と勝利・・・真偽不明のまま読者が自由に想像できる三国志もおもしろいかもしれませんね。

お礼日時:2009/05/16 14:21

三国志と通常呼ばれるものには、歴史書である「三国志」と、歴史書を元に書かれた「三国志演義」という小説、およびその小説を基に書かれた漫画や小説やゲームなどがあります。


三国志演義やその他の小説やゲームなどは史実に基づいている部分もありますが、作者の創作も混じっています。

ただし、
(1)の劉備が庶民から蜀漢の皇帝を自称するまでになったのは、史実として記載されていたと思います。

>(2)関羽張飛など鬼のように強い武将がいますが、いくら強くても、遠くから弓矢で集中攻撃したり、槍ぶすまで応酬したりしたら倒せるような気がします。一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?
活躍については、かなり小説家の創作が多いと思います。
関羽や張飛についても、その武勇についての記載は小説寄りはかなり少ないです。だれそれと一騎打ちをした…などという記載もなかったと思います。
WIKIの受け売りですが、
>208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた(長坂の戦い)。
>張飛は二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。

これは歴史書「三国志」にも載っています。歴史書であっても編纂者が間違えてかいちゃうこともあるかもしれませんが、実際に「二十騎で数線の敵を追い払う」ということがあったのかもしれません。

関羽についても官渡の戦いで、顔良という武将を討ち取った旨、歴史書には書いています。

>(3)孔明に関してはやや神がかり過ぎな感じはしますが、軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?
小説では、さまざまな策略を使って戦場を意のままに操るような記述がありました。
ですが、ちょっとうろおぼえで自信がないのですが、歴史書のほうでは、
たとえば、赤壁の戦いでは「孫権に戦いを決心させる」という記述はありましたが、実際にさまざまな計略を使ったという記述はなかったようにおもいます。(孫権に戦いを決心させたということはすごいことですが。)

歴史書では、各人物の事績を行った後に、著者のコメントが書かれています。
がそのコメントでは諸葛亮の政治家としての手腕を褒め称えています。しかし、軍略については
「毎年のように軍隊を動かしたのに失敗したのは、臨機応援に軍を動かすことが苦手だったのでは?」と書いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

長坂の張飛に対してこそ、まさに弓矢の集中攻撃の的のような気がします。
一騎打ちに関しては、個人対個人で倒したというより、本当は乱戦の中で戦死したのを大将が討ち取ったことにした、というのが事実なんでしょうか。

孔明に関しては、曹操の南征先遣隊の夏侯惇軍10万を博望坡で破った華々しいデビューも、演義の創作のようですね。
瑣末な事件まで自ら決済していたため過労死したというのはおそらく事実なんでしょうね。皆様はご自愛ください。

お礼日時:2009/05/16 13:57

お初です


他の方のご指摘の通り日本で流布している「三国志」の多くは「三国志演義」を元にしています。「三国志演義」とは正史「三国志」を基にした歴史小説で明代に書かれました。蜀漢をメインにて書かれています。一方、正史「三国志」は西晋の史書編纂官の陳壽によって編纂された歴史書です。晋(西晋)は魏からの禅譲によって建国されたものですので、魏がメインとなっています(本紀は魏帝室のみなので) 但し、陳壽は蜀の人で蜀漢の記述は気を使っています。また、諸葛孔明に関しては賛辞を送っています(現存せず)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が小学生の頃読んだのはマンガの横山三国志で、NHKの人形劇三国志も全部ではありませんが見ていました。私は見ていませんが、他には吉川三国志、最近では蒼天航路が有名どころでしょうか。
これらはみな「演義」を基にした作品のようですね。

「正史」が出版されているのは知りませんでした。読破はしんどそうですが、図書館とかで探してみたいと思います。とはいえ、「正史」だから事実とも限らないのが隔靴掻痒な感じです。

お礼日時:2009/05/16 13:38

まず回答NO1の方の訂正から・・・。


諸葛孔明の兄は諸葛謹で、その子が諸葛恪。

でわ本題ですが基本的には回答No2さんに同意します。
>劉備が浮き沈みを経て立身出世について
 これは事実でしょう。劉玄徳は後漢皇室の末裔と名乗っていますが、三国時
代に後漢皇室の末裔は何万といたと言われています。
 しかも元々軍閥基盤のない街の任侠の頭分だったようなので最初は上手く往かないことが多々あったみたいです。でも傭兵集団稼業を繰り返していくうちに信頼されるようになり一方の雄となったようです。
次に
関羽・張飛等の豪傑の活躍について
 そもそも軍団全てが騎馬のみとか弓手ばかりとかはありえません。
1つの陣には弓・弩・槍・馬等が必ず有り、それが陣法にのっとり展開していきます。武将1人で軍勢の中に突っ込んでいくことは呂布でもしないでしょう(笑
ただ個人戦においては常人以上の能力を持っていたには違いないと思います。
次に孔明について
 孔明は昔も今も人心を読み天象を操り千変万化の策略を捻り出す天才というよりも超人に近い軍師に書かれることが多いですが実際には「極めて有能な官僚・政治家」だったようです。
 彼は自身の事を管仲・楽毅になぞらえています(管仲は春秋時代の政治家・楽毅は戦国時代の武将ですが、連合を結ぶため各国を遊説し取りまとめています)。これは2人のように救国の志士たる気概があったということだと思います。
 最後に今、巷で流布されている三国志は羅漢中が執筆した「三国志演義」が基になっているものがほとんどです。「演義」というのは物語、時代小説と理解したほうがよいでしょう。ただし「史実を弁えて、その中に巷で噂されていた逸話などを取りまとめたもの」です
 史実に近いものを知りたいのなら史書「三国志」を読むべきです。かなり長い時間がかかると思いますが読み応えは大アリです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「劉備の傭兵集団」というイメージはしっくりくる感じですね。
数十人か数百人の集団とはいえ、リーダーに担がれる何かがあった人だったということなんでしょうし、その後次々とパトロンやシンパが現れたり、命がけで尽くしてもらえたりするのもある程度は事実なんでしょうね。

盧植門下で学んだというのが劉備にとっての登竜門だったような気がします。やはり野心や情熱もあったんだろうなと思いました。

お礼日時:2009/05/16 13:30

孔明(諸葛亮)は実在しましたが専ら「有能な官僚」でした。


孔明の兄貴の諸葛格は孫堅の重臣でした。
その子諸葛謹(?)はやり過ぎで身を滅ぼしたのは事実のようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

孔明の子と孫で、蜀滅亡時に戦死した諸葛瞻・諸葛尚親子も忘れられない存在ですね。三国志作者の陳寿は、諸葛瞻の部下だったときに諸葛瞻に酷い目に遭わされたために、孔明にやや辛口になったともいわれているそうですね。

あと、諸葛一族ではないでしょうが、隆中の草庵にいた童子が気になります。彼が後に姜維として孔明と再会するとかだったらすごいですが(笑)


wiki諸葛亮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B% …

お礼日時:2009/05/10 11:21

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Q三国志の劉備軍はなぜ強かったのか?

過去にも似たような質問があったかもしれませんが、質問よろしくお願いします。

小説「三国志演義」が好きで、子供の頃から何度も読み返しています。

原作の羅漢中という人物は、中国の明の時代の人物で、三国志の時代から1000年以上経っているにもかかわらず、まるで現場を見てきたかのように、人物の会話まで詳細に描いていますよね。

時代をへだてた作品なので、かなり脚色は多いだろうな、と大人になるにつれて思うようになったのですが、それでも激動の時代を描いた作品として、やはり謎な部分が多いです。

僕がよく疑問に思うのは、作品の主人公になっている、「劉備」という人物に関する謎です。

劉備は20歳を過ぎるまで貧しい農村で育ち、母一人、子一人の家庭でむしろやわらじを編みながら、細々と暮らしていた、と小説の中では描かれています。

なぜそのような人物が、突如として戦場にたち、人並み以上の功績を挙げることができたのでしょう?

おそらく、義兄弟とされている、「関羽」「張飛」の働きが大きかった(というか、ほとんどその二人が功績を挙げていたのでしょうが…)、その「関羽」や「張飛」にしても、かなり素性が知れないですよね。

戦国時代に戦上手として知られた武将というのは、曹操しかり、信長しかり、幼い頃からかなりの英才教育を受け、それでいて多くの部下を従えながら、野山を駆け巡る、といったやんちゃをしていた人物が多いようです。

あるいは、孫子(孫武)や諸葛亮のように、書物を多く読み、自然観察を楽しみ、静かな暮らしをしながら時期を待つ、といったタイプもいますが、このタイプは軍師として活躍することが多いようです。

少しわき道にそれましたが、要するに僕の言いたいことはこうです。

曹操がもっとも恐れていた、この劉備(+関羽&張飛)という人物は、かなり非凡な才能を持っていたのではないでしょうか?

そうでなければ、常にわずかな兵力で、大きな兵力を持っている相手と互角、もしくはそれ以上の戦いをしてきた、ということの説明がつきませんよね。

諸葛亮や司馬懿、曹操もすごいと思いますが、僕は最近では、この劉備という人物もまた、かなり明晰な頭脳を持っていたのでは、と思うようになっています。

人間的な魅力ばかりが注目される劉備ですが、皆さんはどう思われますか?

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Aベストアンサー

他の方の回答もありますが、劉備の治めた蜀を漢の正統後継国として
みなしている面がありますので強い印象を残している面が大きいと思います。

それとやはりいくつもの場面で発揮される度量の大きさが劉備にはありますよね。
国の乱れから立ち上がる義勇軍の時代や公孫さんや陶謙への援軍といい
相手がどんなに兄弟でもそれに立ち向かう勇気と
呂布に国を乗っ取られても受け入れる度量とか一番の魅力かなと思います。

そういった諸国への対応が徐々に劉備の名声と信頼を高め、
袁紹や劉表が殺さずにかくまった要因だと思うんですよね。

私自身は、劉備本人に武勇や戦術的才能が多くあったとは思っていません。
しかし、徐々に高めた名声と義理堅さが人を惹きつけ、
曹操を含めた敵諸国が想像以上に強大化していく劉備に恐れを抱いたんだと思います。

Q劉備玄徳の人肉接待について

三国志の劉備玄徳が、戦に敗れて逃走中にかつて面倒を見た人の家に泊まった時に、その人は自分の妻を殺して料理し劉備に食べさせたという話があります。

一般的な日本人の感覚では、到底受け入れられないですが、中国の史書では立派な行いと称賛してるものも多いそうです。

三国志演義に見える話とのことですが、翻訳した人が「この部分は日本では無理だろう」と判断して、訳書からカットすることが多いとのこと。さもありなんと思います。

ネットで見ると、中国では古くから人肉を食する習慣があるらしいです。まあ、中国に限らず今ほど食糧事情がよくなかった時代は、世界でも割とあったことのようですが。日本でも、天明の大飢饉のときなどに同種のことがあったのは有名ですね。

ただ、気になったのは、日本では特殊な時期しかこの種の話はないけど中国ではかなりの頻度であるようだし、それを主君に報いる行いと称える記述もあります。少なくとも日本では、やむにやまれずやったという感じがしています。しかし、天明の飢饉の絵図を見ると、まさに地獄絵図ですね。

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(1) いろいろ見ると、中国で昔からカニバリズムがあるという証拠はない。三国志演義の記述もそれが当時としても極めて珍しいことなのでわざわざ書き残されている。これをもって、昔から一般的な習慣だったとはいえない・・・という意見があります。私も、そう思います。というか、そう思いたいです。
だって4000年の歴史を持ち、日本がまだ弥生時代で卑弥呼がでるかでないかの時代にすでに魏・蜀・呉の三国がせめぎあい、日本に漢字をはじめ様々な高度な文化を伝えてくれた国ですから。
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(2) もし事実だったら、そうなった原因はどのへんにあるのでしょうか。私見では、古くから小国
分立で争いが絶えなかったため、残虐性が高くなったのかなとか思いますが。

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Aベストアンサー

今手元に正史の『三国志』も小説の『三国志演義』もちょうどないので、記憶の中だけの話ですが、確か劉備が呂布に敗れた時、猟師の劉安の家に泊まって、劉安が妻を殺して「狼の肉です」と言ってもてなした話ですね。

このエピソードは正史にはありません。裴松之が付した注にもありません。
『三国志平話』および『三国志演義』の中にのみある話です。どちらもあくまでも小説です。



むろん中国でも、人肉食は極限状態です。
ただ、全くなかったということでもないみたいですね。

たとえば春秋時代の斉の桓公といえば、誰もが春秋五覇の筆頭に挙げる人ですが、管仲に馘首された厨宰(宮廷料理人)の易牙を、管仲の死後に再任用します。
易牙がクビになった理由は、桓公が「ワシは人間を食ったことがない」と言った際に、自分の息子を蒸し焼き料理にして献上したという無茶なものですが、管仲は「息子を料理にして殺すなんて、易牙は親子の情が薄い」と言っており、カニバリズムそのものを罪としてあげつらっているわけではいません。

『演義』の中には、董卓が死んだ際に董卓に苦しめられた人々が、恨みを晴らすために董卓の肉を食いちぎるという場面もありましたね。

また、正史だけでなく『資治通鑑』など比較的評価の高い史書の中にも飢餓における食人の話題は出てきます。むろんそのすべてを「本当にあったこと」として鵜呑みにすることはできませんが、「食人」という話題が史書に挙げられるということは、「あってはならないことではあるが、決して起こりえない話ではない」ということでもあることが分かります。(ちなみに「評価が高い」というのは、資料的価値ではなく文学的価値です)。


さて、高島俊男の『水滸伝の世界』では、「人を食った話」という一章を設けて、水滸伝の中にあらわれる食人の表現について言及をしています。
まず高島氏は桑原隲藏氏の「支那人間に於ける食人肉の風習」という論文を引いて、中国における食人の目的を、
(1)飢餓時の食料    (2)戦時の糧食が尽きた時の食料
(3)復讐        (4)嗜好品(美食)
(5)医薬品
と分類し、そのうえで「肉食が食の中に普通にある中国」と「食っても魚か鳥が関の山だった日本」との、肉食文化の彼我の違いを挙げています。

これらのことを総合して考えると、劉備の話は(劉備にとっても劉安にとっても)極限状態だったという場面における「美徳ではあるが悲劇」という演出でしょうね。


余談ながら、興味深いサイトを見つけました。日中両国における食人に関する話題です。
http://trushnote.exblog.jp/7602405/
http://trushnote.exblog.jp/7876738/

今手元に正史の『三国志』も小説の『三国志演義』もちょうどないので、記憶の中だけの話ですが、確か劉備が呂布に敗れた時、猟師の劉安の家に泊まって、劉安が妻を殺して「狼の肉です」と言ってもてなした話ですね。

このエピソードは正史にはありません。裴松之が付した注にもありません。
『三国志平話』および『三国志演義』の中にのみある話です。どちらもあくまでも小説です。



むろん中国でも、人肉食は極限状態です。
ただ、全くなかったということでもないみたいですね。

たとえば春秋時代の斉の桓公...続きを読む

Q三国志で「一騎当千」は本当か?

タイトルのとおりなんですが、一騎当千(一騎で千人もの敵を相手にできるほで強いこと)って本当
なのでしょうか?
と、言うのも最近「三国志」にハマリまして色んな本を読んでいます。その中で関羽や張飛、趙雲の
強さには目を見張るものがあります。
一騎で10万の敵陣を突破したとか、一騎で1000人の敵兵を倒したとか・・・・。

話的にはとても面白くて私も彼らのファンになってしまったのですが、でもこれって本当なんでしょうか?
現実に戦場で戦闘を行い、一騎で1000人の相手を打ち破る事など可能なのでしょうか?

私が想像するに、いくら強い武将がいたとしても弓矢で攻撃すればよけきれるものではないと思います。
物語の中では彼らはいとも簡単に弓矢をはじいていますが、四方から高速で飛んでくる弓矢をはらうのは
単純に考えれば至難の業だと思います。また、1000人もの相手と戦うとその疲労も相当のものだと
思います。

剣道や長刀(なぎなた)の試合を見ていて感じるのですが、例えばあれが真剣だと仮定した場合、
自分が攻撃を受けずに相手だけを倒すのは、ほぼ不可能のような気がします。まして、戦場で相手が
1000人、周りからは弓矢が飛んでくるとなると「一騎当千」という言葉は本当なのか、それとも話を
面白くするために後世の人たちが彼らの武勇伝を大きくしてしまったのか、それとも実は本当に1人で
1000人に値するほど強かったのか、と言う事が気になってしまいました。

この辺について詳しくご存知の方、もしくはご自分の持論や推論をお持ちの方がおれれましたら
色んな意見をお聞かせいただければと思います。

タイトルのとおりなんですが、一騎当千(一騎で千人もの敵を相手にできるほで強いこと)って本当
なのでしょうか?
と、言うのも最近「三国志」にハマリまして色んな本を読んでいます。その中で関羽や張飛、趙雲の
強さには目を見張るものがあります。
一騎で10万の敵陣を突破したとか、一騎で1000人の敵兵を倒したとか・・・・。

話的にはとても面白くて私も彼らのファンになってしまったのですが、でもこれって本当なんでしょうか?
現実に戦場で戦闘を行い、一騎で1000人の相手を打ち破る事...続きを読む

Aベストアンサー

まず、一人が1000人を倒す場合。飛び道具は現実的ではありません。
刀の場合ですが、日本刀ならせいぜい10人も切れば、
刀身に脂が回ったり、骨や甲冑で刃こぼれがするなどして、
使い物にならなくなるといいます。ですから、戦国時代の武将は、
換えの刀を何本も持ち歩いたそうですが、1000人を切るほどの
刀を持ち歩けるとも思えませんね。普通は毎日戦いの終わった後、
自分でせっせと研いで、次の日に備えたはずです。
ただ、中国の刀は青銅器とか鋳鉄で、
切るというよりは殴るといったほうが適当な代物かもしれませんけど、
この場合はねばさに欠ける(折れやすい)ので、
1000人を殴り殺すというのも至難の業でしょう。

逆に1000人が一人を倒す場合。飛び道具でないと面倒ですね。とはいえ、
鉄砲弓矢の場合、有効な力を持つ距離がそんなに長いわけではありませんし、
狙いがそれてしまえば、甲冑を付けていればあまりたいしたことはないでしょう。
仮に1000人が一人の回りをぐるりと囲んでいっせいに撃ったとして、
その円の半径は100mは超えるでしょう。近代の兵器でもない限り、
このぐらいの距離になってしまうと殺傷能力は期待できません。
密集したとしても、同士討ちの危険もあるので、
同時に攻撃できるのはすぐそばにいる10~20人くらいがいいところではないですかね。
この程度なら槍でもできます。島津豊久が関が原の退却戦で、
同時に十数本の槍に突き上げられて討たれたなどという逸話もあります。

それにしても、騎乗で防具を付けて武器を振り回すというのは
相当なテクニックを要する重労働ですから、
そんなに長い時間戦えるものではありません。
日本の戦国時代の合戦でも、
半日も続いたようなケースは少ないのではないでしょうか。

というわけで、

> 話を面白くするために後世の人たちが彼らの武勇伝を大きくしてしまったのか、

ってところが正解なのかな、と思います。
1対1だって戦って勝つのはたいへんなのですから、
冷静に考えれば1対10ならすごいことだと思うのですが、
そこはそれ、素人相手に面白く語るのが講釈師というものです。
1対10ならそこらの村の力自慢や法螺吹きの守備範囲に見えそうですからね。

なお、1000人を倒すのではなく、1000人の軍を突破するのなら、
それほど難しい話ではありません。上に書いた理由で、
1000人が一度に一人に当たることはまずできないのですから。
それでも備えているところに突っ込んでいけば難しいでしょうけど、
不意をうって、対応する暇を与えずに行けるのなら可能性はあります。

まず、一人が1000人を倒す場合。飛び道具は現実的ではありません。
刀の場合ですが、日本刀ならせいぜい10人も切れば、
刀身に脂が回ったり、骨や甲冑で刃こぼれがするなどして、
使い物にならなくなるといいます。ですから、戦国時代の武将は、
換えの刀を何本も持ち歩いたそうですが、1000人を切るほどの
刀を持ち歩けるとも思えませんね。普通は毎日戦いの終わった後、
自分でせっせと研いで、次の日に備えたはずです。
ただ、中国の刀は青銅器とか鋳鉄で、
切るというよりは殴るといったほうが適当な...続きを読む

Q三国志時代の戦い方はどんな感じだったんですか?

子供の頃テレビを見たら三国志の映画がやってて、軍対軍の戦闘シーンになったんですが、大将と大将が1対1で、戦ってるのを両陣営の歩兵は動かずだまって輪になって見てるだけ。戦ってる二人の刀の音がカンカン響くだけ。ものずごく異様に見えました。
親父に聞いたら「昔は大将同士1対1が当たり前だった」と言ってました。それじゃあ、歩兵の意味は?と疑問に思いました。日本でも戦国時代(自信ない)になってから1対複数の戦い方が導入されたとか本で見た記憶があるんですが。
そうすると、三国志時代はたとえば1対100ならば空手の百人組手のように1人ずつ順番に待って戦ったんでしょうか?

Aベストアンサー

軍対軍の戦いでした。  1体1の戦いは物語を迫力のあるものにするフィクションです。
戦いは騎兵はまだ少なく(馬も乗馬して戦える人も少なかった)、主として歩兵、弓兵、戦車でした。
戦車は2人乗りの2輪馬車で、乗員の1人が弓や戟という武器で戦い一人は御者をつとめます。

最初弓矢で両軍が戦い、次に戦車隊が猛進して敵陣を崩し歩兵が前進して決着をつけるという形をとる事が通常です。
騎兵は追撃戦で使われます。

従って兵数の多い方が優勢なので少数派は軍略に工夫を凝らして勝利を得なければなりませんでした。

この時代の兵士は農民を召集した急ごしらえであることが多く、戦いには不慣れでしたから、変わった戦術には弱かったのでしょう。

Q実在していたかが疑問視されている歴史上の人物

実在していたかが疑問視されている歴史上の人物(要するに、歴史書などには載っているが伝承に過ぎなかったり著述家の創作だという説が出ているもの)を教えてください。個人的に知ってるのは聖徳太子と佐々木小次郎ですが、おそらくもっといるのではないかと思い質問しました。

日本史か世界史かは問いませんが、歴史の知識は並程度なのでせめて山川出版社の高校生向け用語集に出てくる位の知名度の人か、前述の佐々木小次郎のように有名な歴史的エピソードの登場人物くらいの知名度の人にして下さい。

あとヤマトタケルとかは流石に伝説的要素の方が強いですし、天皇もはじめの何人かは架空の存在とも聞いたことがあるので、近世の人についての回答が特にうれしいです。

さらに注文をつけて申し訳ないのですが、東洲斎写楽のように正体が知られていない人については、「実は葛飾北斎の別名だった」みたく既に有名な人の別名義だった的なもの以外は、正体不明でもやはり存在しなかった訳では無いのですから含まないで下さい。

注文だらけで申し訳ないですが、宜しければ回答宜しくお願いします。

Aベストアンサー

真田幸村については、彼の実名が真田信繁であるのは、そのとおりです。もちろん、信繁は実在の人物です。
山本勘助については、実在がかなり有力で、「架空の人物」説は昭和の遺物になっています。ただ、甲陽軍鑑にあるような活躍をしていたかはかなり怪しいです。そもそも、かの書物は近頃見直されているとはいえ、鵜呑みにしては絶対にいけない書物にかわりないですし。ほかにすこし上げておくと・・

金売吉次
義経を奥州藤原氏に送る手助けをした人とされますが、実在かどうかは不明です。

武蔵坊弁慶
有名な坊主ですが、一昔前まで実在すら怪しかった人。吾妻鏡にもでてきてはいますから、存在自体はあったようですが、活躍の多くは、義経記などによるので、実像は不明です。

どうも日本ばかりなので、外国にも目を向けましょう。

ウィリアム・テル
実は実在が証明されていません。スイスでは大英雄で半数以上が実在を疑っていない人ですが。なお、彼の逸話は有名で、日本でもパロディ的な使い方をしていますが、彼の使った弓はクロスボウであり、射撃の方式としてはいわゆる弓よりも、銃に近いです。
実在については完全に不明なわけですが、その後のスイス独立の動きから考えると、近いことを起こした人がいたのではないかとも思えます。

ロビン・フッド
文学作品により広まったとされる伝説上の義賊。よくリチャード1世(獅子心王)と絡めて話がでてきますが、実在したかは不明です。おそらく、それに近い盗賊はいたのでしょうが・・・なお、13世紀に裁判記録にでてきた、ロバート・フッドという逃亡農民がモデルという説もあります(説としてはまったく有力ではないですが)。

どちらも弓の名手なのはなにか面白いものがありますが。

マルコ・ポーロ
著作もある、その内容もかなり裏づけができる。またそれがルスティケロ・ダ・ピサがマルコの
口述を著したものであるということになっている。しかし中国側には一切の記述がないという人。主に珍説として架空説が唱えられていますが、やはり存在していた可能性が高いと思われますね。

真田幸村については、彼の実名が真田信繁であるのは、そのとおりです。もちろん、信繁は実在の人物です。
山本勘助については、実在がかなり有力で、「架空の人物」説は昭和の遺物になっています。ただ、甲陽軍鑑にあるような活躍をしていたかはかなり怪しいです。そもそも、かの書物は近頃見直されているとはいえ、鵜呑みにしては絶対にいけない書物にかわりないですし。ほかにすこし上げておくと・・

金売吉次
義経を奥州藤原氏に送る手助けをした人とされますが、実在かどうかは不明です。

武蔵坊弁慶
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Q大さじ一杯 小さじ一杯って・・・

それぞれ何グラムぐらいなんですか?困っています教えてください。私はさじを持っていないので測れないのです

Aベストアンサー

重さは量るものによって違いますが、
大さじ一杯=15cc
こさじ一杯=5cc
です。

Q三国志「劉備」の人間的魅力

横山光輝「三国志」や、「蒼天航路」、その他三国志に関するエピソード本などを楽しく読みました。
そこで疑問があります。
劉備は、お金も地位も無い身の上から、「人間的魅力」だけを元手に、ついには一国の主となるのだそうですが、マンガや読み物などを読んでも、その魅力の実態がわかりません。(納得できない)
どんなキャラクターなら、武力も無い、お金も地位も無い人間に、忠誠を誓う有能な人間がつき従うことに無理のない設定になるのか疑問です。
マンガは楽しいのですが、あそこまで周囲を信服させる劉備の人間的魅力を実際の通り描いていないはずです。(昔のことなので実際の通り描くのは無理ですが、他の登場人物と比較しても、あまり魅力の根拠がよくわかりません)
一体劉備とはどんな人だったのでしょうか?
私の憶測では、
●描ききれないほどに魅力的だった
●人間至上、まれに見る程「自分プロデュース」が上手だった。
●関羽と張飛に囲まれて際立った。
(もちろん、最低その二人を魅了するキャラは持ち合わせていたとして。)

劉備の人間性に疑問を抱いて離れたという武将や軍師の話はないですよね????
あるのであれば、話は別になるのかな。。。

なんだかくだらない質問かも知れませんし、そんなことは抜きにして、面白ければそれでいい!のですが、ふと感じた疑問です。

横山光輝「三国志」や、「蒼天航路」、その他三国志に関するエピソード本などを楽しく読みました。
そこで疑問があります。
劉備は、お金も地位も無い身の上から、「人間的魅力」だけを元手に、ついには一国の主となるのだそうですが、マンガや読み物などを読んでも、その魅力の実態がわかりません。(納得できない)
どんなキャラクターなら、武力も無い、お金も地位も無い人間に、忠誠を誓う有能な人間がつき従うことに無理のない設定になるのか疑問です。
マンガは楽しいのですが、あそこまで周囲を信服さ...続きを読む

Aベストアンサー

劉備玄徳にはリーダーシップと聡明さがありました。それは間違いありません。

また物騒になってきたとはいえ、まだまだ平和な現代の日本にいてはわかりにくいでしょうが、
血で血を洗う戦国時代にあってなお高潔さを保ち続けた劉備の存在というのは、
裏切り渦巻く乱世の戦塵を吹き飛ばす一陣の涼風のような感動を
人々に与えたのではないでしょうか。

現代でもそうではありませんか。政治家や官僚の汚職が当たり前になっている昨今、
そんな人物が目の前に現れたら私も目がくらんでしまうかもしれません。

Q三国志では誰が一番強い?

こんばんわ!三国志が好きな大学生です!

皆さんは三国志では誰が一番強いと思いますか?やはり武力でいったら呂布、総合力でいったら関羽というのが普通でしょうか?

こんなことを聞くのはある本を読んだからなんです。その本には一番強いのは顔良だと書いてありました。

その理由として、戦いの中の様々な一騎討ちで「何回打ち合って決着がついたか?」または「何回打ち合い、決着がつかなかったか?」を集計していき、総合的に顔良が一番強いのではないかとたどり着いたのです。(詳しいことは忘れてしまったのですが)

ここで疑問に思うのが、顔良は関羽に一太刀で切られているではないか?
と思うのですが、その本ではその理由として、当時エンショウ側にいた劉備が「敵軍に関羽がいるのでもし見つけたら、私はここにいると伝えてほしい」とエンショウ軍にいっていたそうなんです。
だから、顔良は関羽を見つけてそれを伝えようとした時に切られてしまったとのことなんです。

私はこの考えはとてもおもしろいと思い、顔良が一番強いといえるのではないかとも思いました。

三国志好きの方はこの考えはどう思いますか?
顔良よりあいつのほうが強いって思っている武将がほかにいますか?

こんばんわ!三国志が好きな大学生です!

皆さんは三国志では誰が一番強いと思いますか?やはり武力でいったら呂布、総合力でいったら関羽というのが普通でしょうか?

こんなことを聞くのはある本を読んだからなんです。その本には一番強いのは顔良だと書いてありました。

その理由として、戦いの中の様々な一騎討ちで「何回打ち合って決着がついたか?」または「何回打ち合い、決着がつかなかったか?」を集計していき、総合的に顔良が一番強いのではないかとたどり着いたのです。(詳しいことは忘れて...続きを読む

Aベストアンサー

はじめまして。

ご質問の内容を読ませて頂きました。
ここでご質問されている「強い」というのは、武勇についてだけ指すのでしょうか?
三国志については、主に横山光輝のマンガと書籍では吉川英治の三国志しか読んでいませんが…
仮に武勇の部門だとすると、やっぱり呂布が一番強いのではないかと考えております。

ただしもし、精神面などの総合的な部類も混ぜて「強さ」を判断するのであれば、呂布ではなく私は趙雲だと思います。以下、総合的な「強さ」についてと仮定して私の意見を書かせて頂きました。

総合的な「強さ」の判断の理由としては、呂布の末路は、捕らえられたのちにいわゆる命乞いをしたと言われています。
また、金と女におごれ、結果的に部下との信頼感を失ってしまった。
このあたりの「強さ」がしっかり表れていれば、若くして死んでしまうような事はなかったのではないかと思います。

それと比べて、私がこの場で言う「強い」と思う趙雲は、武勇ももちろんそうですが、精神面の強さも非常に優れている事があらわれていたと思います。

例えば、私の好きな場面ですが、趙範は趙雲と義兄弟の契りをしたのち
好意で兄嫁(超美人、名前は忘れてしまいました…汗)を嫁にしてくれと提案したそうです。
その軽率な言葉に腹を立て、趙範を強く退けたとの事です。
後に劉備になぜ嫁にしなかったのかと問われたら、「確かに美人は嫌いではありません。ただ、戦いに勝ったという事で美人を自分の嫁にすれば、世間は主君である劉備をなんとみなすでしょう。そのような事は避けたい。」

のような感動的なセリフがあったといわれています。
本当に真から武士だと思います。

このような、主君に対する忠誠心・たった一人で何十万の大群に突っ込んでいく勇気などが多く表現されていた趙雲は本当に「強い」武士だと思います。

ただ、歴史については人それぞれ違った考え方をお持ちになられているので、あまり強く言えませんが…^^;

はじめまして。

ご質問の内容を読ませて頂きました。
ここでご質問されている「強い」というのは、武勇についてだけ指すのでしょうか?
三国志については、主に横山光輝のマンガと書籍では吉川英治の三国志しか読んでいませんが…
仮に武勇の部門だとすると、やっぱり呂布が一番強いのではないかと考えております。

ただしもし、精神面などの総合的な部類も混ぜて「強さ」を判断するのであれば、呂布ではなく私は趙雲だと思います。以下、総合的な「強さ」についてと仮定して私の意見を書かせて頂きました...続きを読む

Q北朝鮮からミサイルが飛んできたら

 北朝鮮から核ミサイルが飛んで来て、永田町に落ちたとすると、被害はどのくらい広がりますか? 即死のみならず、疾病による死亡や後遺症も含めて。

よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

■他サイトで同じような質問に答えているのですが、解りやすく新たなデータを追加したため長文となってしまいました。

 北朝鮮が保有する弾道ミサイルで、日本への発射が懸念される物にノドン2号とテポドン1号ミサイルがあります。
 ノドン2号は旧ソ連が開発したスカッドの亜種で、1,300kmの射程を持つと言われています。一方テポドンは1段目にノドンを使い、2段目にスカッドの弾体を結合して作った2段式弾道ミサイルで、射程も1,700km~2,200kmと見積もられています(射程および発射速度から中距離弾頭ミサイルとする記述もあります。が正直、どの数値が正しいという確証がないため、かなり曖昧な分類となっていることは確かなようです)。

 弾頭を搭載する2段目スカッド・ミサイルの弾体直径は0.9m弱で、弾頭を搭載するスペースが非常に小さく、核運搬兵器としては戦術ミサイルと呼ぶべき種類の物でしか在りません。
 同サイズのミサイルの弾体重量も最高で0.8tを下回り、最大重量を搭載すれば当然ながら最大射程まで飛ばすことはできず、目標距離を計算した搭載重量に低減させられることになります。

 核専用ミサイルとして新規設計するならともかく、化学・生物兵器弾をも搭載可能な柔軟性設計とするのが一般的な考え方であり、弾頭重量を500kgとした場合、そこに搭載される核弾頭は20~50kt程度と見積もることが出来ます。

▼弾頭の威力と被害予想に関する書籍やサイトを調べたのですが、詳しく述べている物を見つけられませんでした。

 現在、北朝鮮は20kt級核爆弾を7~8発製造可能なプルトニウムを抽出していると観られています。
 広島は投下されたLittle Boyは13kt(ウラン235)により20万人の犠牲者をだし、長崎もFatmanが22kt(プルトニウム)によりは7万4千人が数箇月の間に亡くなり、その後の調査で死亡者数が15万人にも達しました。平坦な広島に対して山間部による起伏が被害を減少させたのです。
 しかし、都会の場合、破壊された建造物が市街地を埋め尽くし、瓦礫と化した廃墟街を車輛で移動することは非常に困難であり、そのような地を人が歩くことも容易くはないでしょう。人口1200万(平日であれば都郊外からの近県から、多くの労働者が都心へと集まるため、被害想定人口はかなり高いと見るべきでしょう)の中心で核爆発が発生したシミュレーションをまだ目にしたことがないので解らないというのが本音です。

 ただ爆発後の死亡と放射能汚染による傷病認定が懸念されるかも知れませんが、他国からの攻撃であることを考慮するなら、政府も寛大に攻撃による疾病患者であることを認めるはずです。
 さらに大都市が核汚染に見舞われた場合、救援する側が対核防御服を身につけていなければ活動できないことです。日本ではこの手の状況対応能力が(ちいさな自衛隊部隊以外)ほとんどゼロであると言う事実です。つまり、救援したくても救援する側に被害が出るため救援活動が行なえず、放置された数日の間に助かる多くの命が失われるでしょう。

 個人的にはその数を500万~700万と見積もるのが妥当かと思っています。

■他サイトで同じような質問に答えているのですが、解りやすく新たなデータを追加したため長文となってしまいました。

 北朝鮮が保有する弾道ミサイルで、日本への発射が懸念される物にノドン2号とテポドン1号ミサイルがあります。
 ノドン2号は旧ソ連が開発したスカッドの亜種で、1,300kmの射程を持つと言われています。一方テポドンは1段目にノドンを使い、2段目にスカッドの弾体を結合して作った2段式弾道ミサイルで、射程も1,700km~2,200kmと見積もられています(射程および発射速度から中距離弾頭ミサイ...続きを読む

Q三国志の面白さって何??

歴史好きの人って、だいたい日本史で言えば、戦国時代や幕末が好きって人多いですよね?世界史で言えば、三国志が好きって人も多いと思うのですが、三国志の面白さを教えてください。

三国志読んだことありません。ゲームとかもしたことないんで概要も知らないんです。概要と、歴史の中の具体的な面白エピソードを教えて欲しいです。

Aベストアンサー

三国志大好きー。

あまり詳しくないんですけれど。
『天下三分の計』とかいう策略があって、それに基づいたモノだと思えば。
色々経過があるんですけれど、とにかく力を持った集団がそれぞれ名乗りをあげたんだ、と思ってください。

中国の上の方の土地半分が『魏』(魏志倭人伝の魏です)
海側に面して南、右半分が『呉』(古株さんw)
でもって下左半分にちみっこくある『蜀』
という三つの国が誰が中国全土の王様(覇王)になるか争った、というわけです。

もちろん、色々と主義主張もあるでしょうけれど。
で、それぞれの国の王様、というような主導者がいらっしゃいます。
『魏』は曹操。
『呉』は孫権…かな(呉は詳しくない;)
『蜀』は劉備。
そしてまた、彼らについている武官文官がとても個性的。

『魏』
曹操の従兄弟にあたる夏侯惇。
片目を矢で射られたので引き抜いたところ、眼球まで抜けてしまいました。が、夏侯惇は「親から頂いた目を捨てるのは失礼だ」といって自分の眼球を食べちゃいます。

それから、曹操の数多いブレインの一人、司馬仲達。
彼の頭は360度回るんだとか(w

『呉』
孫権だったかな、彼はお母さんが異邦人で、髭が紫で目が赤だったとか。もしかしたら逆かもしれませんので、機会があったら三国志、読んで確かめてください。

『蜀』
劉備さんは庶民出身。でも昔から、「お前は漢王室(戦国時代の前の王様)の子だ」といわれつづけたので、変にプライド高いです(w
ちなみに、彼、耳が長かったらしく、首を振れば自分の耳たぶが見れるという。
でもって、普通の人の頭一つ分背が高い。

で、彼の義兄弟たちは、それぞれ頭一つ分高い。
中でも関羽はめっちゃ背が高い上に、美髭公と呼ばれるまでに綺麗なお髭の持ち主。髭袋を持ってます(いや、マジで)
そして幼い頃は敵方の曹操とも友人関係。

さらに面白いのは諸葛孔明。
彼の奥様は旦那様より背が高く、色黒、そして発明家(嫁の行き遅れか)
そういう女性を妻にするだけあって、この孔明殿は「私が風を呼んでみせます!」とか怪しげなことを言い出したりします。

まあ、それぞれの国にそれぞれの面白い方々がいらっしゃって、それぞれ笑えちゃうような関係があったりするんですよ。だから面白いのかなぁ。
仲間同士の嫉妬で命を落としちゃった人もいれば、お母さんのために友から離れた人もいます。
それに最初は『魏』も『蜀』も友人同士だったし。
そういう人間関係とかがあって惹かれるのかも。

ちなみに、僕は三国志時代の初期辺りで活躍していた呂布が好きです。モンゴル人だという説があるのですが、とても自由奔放な感じに書かれていたのですー。
彼の愛馬、赤兎馬もカワイイ。
少女の癖に暴君を倒した女の子もいたり。


三国志、という大きめのスケールからじゃなくても、人物から捕えていくって言う読み方もありますよ。
僕は三国志よりも『魏』の曹操という人が好きで、そこから三国志に傾倒。
曹操は女好きで暴君と呼ばれていますが、実は頭の良いちょっと悪戯好きな(花嫁争奪したりしてますし)蜜柑大好きっこ。
そういうギャップが好き。

もちろん、ゲームでも面白いですーっ。

三国志大好きー。

あまり詳しくないんですけれど。
『天下三分の計』とかいう策略があって、それに基づいたモノだと思えば。
色々経過があるんですけれど、とにかく力を持った集団がそれぞれ名乗りをあげたんだ、と思ってください。

中国の上の方の土地半分が『魏』(魏志倭人伝の魏です)
海側に面して南、右半分が『呉』(古株さんw)
でもって下左半分にちみっこくある『蜀』
という三つの国が誰が中国全土の王様(覇王)になるか争った、というわけです。

もちろん、色々と主義主張もあるでし...続きを読む


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