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三国志といえば、やはり主役は蜀の劉備が善玉の代表ですが、その息子劉禅は中国の歴史上でも暗愚の帝王として有名ですね。

政治を省みることなく酒色にふけり、宦官を登用して国を傾けた張本人と言われ、蜀の国が無くなってからも、今の生活が楽しいので蜀を思い出す事はありませんと答えたり、劉禅の暗愚の話は枚挙の暇がありません。

ですが、元々むしろ売り出身の先代劉備とちがい、若くして皇帝となった劉禅はその後40年以上の治世で一度の反乱も一揆もなく、無事に国を治めた功績は大なのではないでしょうか。

魏に攻め込まれたとき、反撃することもなくあっさり降伏していますが、それとて魏に比べ約十分の一の戦力では領民を犠牲にして抵抗しても、いたずらに死者を増やすだけで、苦しむのは領民であるとの認識からではなかったでしょか。

結果として、蜀は滅びますが領民は安堵されましたので、その判断は間違いではなかったと思えるのですがどうでしょう。

今の生活が楽しいので蜀を思い出す事はありませんと答えた件も、もし蜀が恋しいと答えれば謀反や反乱の気有りと判断され、自分だけでなく一族や臣下の皆にも刑が及ぶと考えて、暗愚を装ったのではないですか。

どなたか、三国志演義ではなく、正史の三国志などに書かれている劉禅の正確で公正な功績をご存知の方は教えてください、本当に劉禅は暗愚な帝王だったのか?よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

>高沛と楊懐の二将を謀殺し、兵を転換して一気に首都の成都を包囲し降伏を迫りました。


謀殺したのは事実でしょう。ですが、逆に劉備も狙われていたことも事実です。
それに一気にいけるほど蜀の地は楽ではありませんよ。一気に行けるなら
名軍師ホウトウも死にませんでしたし・・


>故郷のエピソードも有名ですが、「故郷を思うとさみしい気持ちにもなります・・・」なんていうコメントは、いつの日にか蜀の国を回復したいという野望を秘めているとしたら、そんな大事なことを簡単に漏らすのは、それこそ暗愚ではと思います。もしばれれば一族皆殺しでしょうから。大志(蜀の再興)という目的のためには、、「今が楽しいから蜀は思い出しません」と、とぼけるはずと思ったりしています。

三国志の時代なんかは書物ですので事実と食い違うことは多々あるはずです。(正史でも)
本人がどう考えていたかなんかはあってみないとわかりません。
三国志を読むと劉禅は暗愚な人ととらえられることが多いでしょう。(私も思っています。)
ですので、上のようにあなたの意見は受け入れられにくいですが、いんではないでしょうか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。普段は好きな三国志を語れる友人が周囲におりませんので、とてもうれしいです。皆様の多数のご回答に感謝いたします。

>それに一気にいけるほど蜀の地は楽ではありませんよ。一気に行けるなら
名軍師ホウトウも死にませんでしたし・・

なるほど、蜀の桟道や細い山道ではなかなか軍隊の移動には苦労されたでしょうね。ちなみに一気だったかより、だまし討ちだったかどうかが重要ですよね、同族である劉璋の信頼を裏切って、成都を攻めたのはやはりだまし討ちではないかなと思っています、劉璋は成都包囲の前まで劉備は敵との認識はなかったでしょうから。最初から敵の存在の曹操でも攻めてくれば、それはおっしゃるとおり侵略でしょうね。

>逆に劉備も狙われていたことも事実です。

蜀の人間に狙われていたことが事実なら、その時点では蜀での劉備の威光もやはりその程度で、やはり末端の民までがこぞって劉備を慕うほどの威光はまだ無かったのではという思いは変わらないのですが。その後、劉備が亡くなるまでの短い間に蜀の民に先主劉備を慕うほどの威光ができたのでしょうかね。


>三国志の時代なんかは書物ですので事実と食い違うことは多々あるはずです。(正史でも)

そうですね、でも三国志演義よりは、、、ね。

>本人がどう考えていたかなんかはあってみないとわかりません。
三国志を読むと劉禅は暗愚な人ととらえられることが多いでしょう。(私も思っています。)
ですので、上のようにあなたの意見は受け入れられにくいですが、いんではないでしょうか

あの~、お礼に書きました通り「私は思ったりしています」とか「私は、思っています」と書いています通り、自分がそう思うだけで、回答者の皆さんの書き込みを否定したり、自分の意見を押し付けたり、同意や感想を求めているものではありません。(皆さんの回答がうれしくてやや興奮した書き込みになっていますが)、誤解がありましたら、ごめんなさい。

あと、孔明が劉禅の義理の父だという件ですが、調べても判りませんでした。もし正確な資料がありましたら、ぜひご教授くださいませ。よろしくお願いします。

お礼日時:2009/05/11 23:59

一言でいえば、「なにもしなかった」のではないでしょうか。

余計なこともしなかったが、これといったこともしなかった。

まあそもそも劉禅は立場が難しいところです。父親の名声はあまりに偉大過ぎ、家臣団はその父親に心酔しています。自分に対する忠義心も、あくまで「お父さんが素晴らしかったから息子であるあなたにも忠義」です。「あなた自身に心酔した」ところでないのがポイントです。
いうなれば、事業を引き継いだ二代目社長。社内にはやり手の番頭たちが仕切っていて良くいえば「任せて安心」悪くいえば「自分のやりたいようにするとカドが立つ」です。
劉禅と反対の路線をとったのが、武田勝頼でしょう。父信玄の老臣を遠ざけ、自ら若手を抜擢しました。なにしろ何かをやろうと思っても老臣たちが「先代は・・・」と言い出してうざいったらありゃしません。
んで、結局のところそれが勝頼派と反勝頼派に家臣が分裂し、確かに謀反こそ起きませんでしたが結局家中がまとまらず滅亡へと至ることになります。それでも、長篠合戦に敗れても結構な間武田家を保ちました。ま、信長が放置プレイをした面もありますけど。

蜀には孔明先生という偉大過ぎる政治家がいて、ヘタに独自の色を出したら孔明と意見が対立することは明らかです。劉禅自身はもしかしたら自分が孔明より劣ることを自覚していて、「余計なことをしないで孔明に任せよう」と思ったかもしれません。それが、結局のところ孔明の存命中は上手くいったということだと思います。
孔明先生も、劉禅なら「自分にケチをつけない」ことを知っていて、そのままにしたのでしょう。もし仮に劉禅がやる気まんまんな人なら、どこかで孔明と対立して孔明を処分したかもしれず、そうなったらなったで批判されていたでしょう。
実際のところ、度重なる出兵で蜀は繁栄どころはジリ貧で疲弊していました。そもそも孔明戦略は荊州確保が至上命題で、曹操はそれを見抜いていたから呉をそそのかして蜀が荊州を確保できないようにしたと思います。

頭のいい人だったら、どこかで孔明に「お前、毎年毎年出兵してるけど結果が出てねえし領土増えねえし国内が疲弊するばっかじゃねえか」と文句をつけていたと思います。実際、そうでしたからね。のん気な楽天家だったと思います。「仕事よりレジャー」タイプだったのでしょうね。
また、故郷のエピソードも頭のいい人なら「故郷を思うとさみしい気持ちにもなりますが、万民のためには・・・」なんていう気の利いたコメントを残すと思いますが、「今が楽しいからどうでもいいです」っていうのはズバリ本音を丸出しにした(後で家臣からたしなめられていますが、そのたしなめられ方も「もうちょっと考えてコメントしろ」みたいなことだったと思います)といえるので、まあ頭がいい人ではなかったと思いますよ。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。皆様から多くの回答が寄せられてうれしいです。
>そもそも劉禅は立場が難しい

そうですよね。そもそも三国志は勇壮な将軍や曹操や孔明などの名だたる丞相らが活躍する話であって、皇帝自らが活躍はしないですよね。皇帝が活躍するような国では逆に相当あぶない気がします。

>劉禅と反対の路線をとったのが、武田勝頼でしょう。

なるほどそうですね。私は蒋介石の息子で台湾総統の蒋経国と比べてみました。蒋介石は遺言で大陸反抗を指示しましたが、蒋経国総統は父の遺言に背いて中国と争う事はせず、内政に力を注ぎ、経済、教育、文化の発展を達成し台湾を経済大国に変貌させて、国の前途を李登輝に引継ぎ亡くなりました。

そんな蒋経国を、父の意思をつがず中国を攻めて大陸に中華民国の回復をしようとしなかったので暗愚だとは言わないでしょう。劉禅は確かに、魏に攻められて国を滅ぼしましたが、もし国が滅びるのが劉禅の後の皇帝の時代なら劉禅の評価はもっと高かっただろうになと思います。あの時代の治世40年は異例です。

劉禅は頭が良かったわけではないでしょうが暗愚でもなく、偉大な孔明先生のやり方を懸命に学んで、孔明亡き後の三十年を無難に国をまとめたと思います。

故郷のエピソードも有名ですが、「故郷を思うとさみしい気持ちにもなります・・・」なんていうコメントは、いつの日にか蜀の国を回復したいという野望を秘めているとしたら、そんな大事なことを簡単に漏らすのは、それこそ暗愚ではと思います。もしばれれば一族皆殺しでしょうから。大志(蜀の再興)という目的のためには、、「今が楽しいから蜀は思い出しません」と、とぼけるはずと思ったりしています。

お礼日時:2009/05/11 21:30

諸葛亮が出師の表を表す際、改めて国を治める為の心得を説いているのは、


劉禅に不安が大きいからだと思います。

また黄皓のような佞臣を登用し、跳梁を許したことからも、暗愚ぶりは間違いないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね、出師の表は臣下としての孔明の気持ちが出ていて泣けてきますね。
ですが、劉禅が出師の表を読んだとしても暗愚なら理解出来なかったでしょうね。また二回目以降の後出師の表は後に作成された偽物という説もありますね。

宦官の黄皓が佞臣とされ、跳梁跋扈し蜀の国を傾ける原因になったというのは、主に三国志演義での記述が元になっていますね。将軍の姜維を追放したり、怪しげな巫女に占わせたり、賄賂政治を行ったりとされ、重用したのは劉禅が暗愚だったからとされていますね。

ですが、もうその時代は治世であるのに、たびたび無用な魏と戦闘を繰り返し、そのため戦費が増大し蜀の民を疲弊させた姜維を遠ざけたのは正しい判断だったかもしれないと思ったりします。もうその時点で魏との国力の差は格段に開いていましたから。

そもそも黄皓は歴史書『三国志』の著者である陳寿が蜀漢に仕えていた際に、陳寿を免職しているので、良く書かれることがなかったのではないかとも思います。

お礼日時:2009/05/11 08:29

三国志演義はおすすめしませんが、劉備が劉禅へ遺言として、「父のごとくこれ(孔明)につかえよ」と命じたのは、正史の諸葛亮傳に出てきます。

ただ、心構えとしての話ですけどね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

白帝城での劉備のこの話は有名で、三国志の名場面のひとつではないでしょうか。

長い事自分に仕えた超雲に礼をいい、孔明には後事を託して亡くなる劉備に涙した三国志ファンも多いでしょうね。

お礼日時:2009/05/10 15:00

劉禅は治世の皇帝というよりは世間を知らなかったと思います。

現代でいう箱入りみたいな・

>同族の劉璋からだまし討ちに近い形で奪い取り
表現としては微妙に違いますね。だまし打ちというのは相手に知らず知らずのうちに
計を行うことです。この場合はどちらかというと侵略ではないでしょうか。
侵略といっても大義名分はありました。「われらが蜀の地を守ろうとしているのに
このような老兵と兵糧を送るとは何事か!」とか殺されそうになったからとか・・

劉備に威光がなければ80万の兵なんてそうそうについてきませんよ。
それに内乱もなかったようですし。
劉備だけでなく孔明も兵には慕われていましたね。策略かもしれませんが、
4万の兵だったのを8万の兵に動かせたのですから

きちんと三国志演義を読みましたか?劉備の遺書として劉備の息子たちは孔明を
父とするようにとしたためてあったはずですよ?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。皆さんからいろいろな情報を頂きますとうれしくなりますね。

三国志演義では、劉備を善玉にするためにかなり苦しい言い訳めいた理由で蜀への侵略を正当化しているみたいですね。

212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来たとき、劉備は兵力を動かして劉璋を油断させ、そのすきに高沛と楊懐の二将を謀殺し、兵を転換して一気に首都の成都を包囲し降伏を迫りました。それでだまし討ちに近いと表現しました。もし歴史的に間違いなら、ぜひご教授をお願いします。

劉備の威光については、前の回答者さんとのやりとりで兵ではなく蜀の民のことなのですが、末端の民にとっては劉備だろうが劉璋だろうが為政者が代わっただけで、民がこぞって劉備を慕うほどの威光は無かったのではないかということです。それとも法正だけでなく最初から多くの民も劉備が為政者になるのを願っていたのでしょうか。

>劉備の遺書として劉備の息子たちは孔明を父とするようにとしたためてあったはず.。
とのことですが、戸籍的に孔明の養子や嗣子になったのかということです。もしそうだとすれば、初めて知りました。(心構えとして父のように思う、ではありません。)

>きちんと三国志演義を読みましたか?
再度の確認で恐縮ですが、質問文にあります通り、ありもしない話が書かれた小説にすぎない三国志演義ではなく、正史の三国志に書かれている情報を元に皆様からご教授をしていただいております。

お礼日時:2009/05/10 14:50

行動としては民のことを考えた行動だったのでしょう。


ですが、親の遺志を継がなかった人でもあります。
民には劉備の威光が残っており、戦に敗れても何糞という感じだったそうです。
そんな民たちですから、故主劉備を崇めて、一揆をしなかったんではないでしょうか。

劉備は死ぬ直前に孔明に「私の息子に才がなかったら、貴方が蜀を治めてくれ」と
言いました。結局のところ、孔明は劉禅を支えたわけですが、孔明には
馬謖の例をみるように人を見る目は完璧ではありませんでした。
ですので忠義を抜いて、劉禅が有能と見えてしまったのかもしれません。


>有名なところでも「しょうえん」や「費い」、「董允」などの能吏がたくさんいましたから。
この人たちを採用したのは先主劉備であり、後任として丞相にしたのは
孔明の遺言です。義理の父である孔明のいうことをきいただけではないでしょうか
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いろいろな情報を頂けてありがたいです。

劉備は乱世に生きた人でしたが、劉禅は治世の皇帝でしたのでむやみに勝ち目の無い戦で民を苦しめ疲弊させる事をきらったのかなとも考えられますね。家康と秀忠みたいなものかも。

劉備の威光についても、蜀は元々劉備の本拠地であった訳でもなく、同族の劉璋からだまし討ちに近い形で奪い取り、劉備の時代には内政に力を入れたわけでもないのでそれほど威光があったのかなという思いもあります。

また白帝城での劉備のこの話は有名ですね。孔明にとって蜀を簒奪する事は簡単だったのかもしれませんが、おっしゃるとおり劉禅が有能と見えてしまったのかもしれませんね。または有能でも無能でも自分がいる間はどっちでも良かったのか。

孔明って劉禅の義理の父でしたっけ、知りませんでしたありがとうございます。
確か、劉禅の皇后は張飛の娘でしたよね、あと劉禅の娘が孔明の息子に嫁いでいるので親戚であるのは間違いないみたいですが。

お礼日時:2009/05/10 12:13

正史の後主傳を、ざっと眺めてみましたが、出てくる名は丞相亮など有力家臣がほとんど全部です。

蜀漢は人材に恵まれてたからでしょうね。
つまり、正史から客観的にはわからない、ということに・・・。

この回答への補足

文字化けしましたので。

有名なところでも「しょうえん」や「費い」、「董允」などの能吏がたくさんいましたから

補足日時:2009/05/10 08:33
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

諸葛孔明の死後も後主劉禅が国を治められたのは、人材に恵まれてたからというのはあるでしょうね。有名なところでも蔣琬や費褘、董允などの能吏がたくさんいましたから。

ですがその人材を登用したのは、後主劉禅その人であったわけで、彼らを適材適所に起用したのは劉禅の才能ではなかったかなと思います。諸葛孔明の悪口を告げ口するような人物を処刑したりしていますので、やはり人物を見る目があったのかもしれませんね。

三国志は千八百年前の話なのに、今もなお我々を楽しませてくれますね。

お礼日時:2009/05/10 08:32

正史を知らないので参考にはならないと思いますが、個人的には蜀をまとめていたのは諸葛孔明の業績が多大で、劉禅は「蜀の象徴」的なお飾りでしかなかったと思います。



ただ劉禅が蜀の皇帝としては暗愚だとは思いますが人格的な気質は劉備ととても近いと感じます。
残念ながら育った環境が大きく違いすぎます。
劉備は厳しく徳の高い母に育てられ、劉禅は腹黒い宦官にいい様にふやかされそのまま素直に育っただけです。
確かに魏統一の流れを考えると死者の被害は最小限だったと思います。

ウィキペディアではこうかかれていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%A6%85
蜀の旧臣陳寿の『三国志』では、「白い糸は染められるままに何色にも変ずると書かれている。
(周りの人間が有能ならよく、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨)。
孫皓のように残虐な振る舞いは行わなかったが、進んで善政を布いたわけでもない。
隣国の呉では政情不安定のため謀反や反乱が頻発していたが、蜀では諸葛亮の死後、三相らが政治を引き締めており、謀反や反乱は起きなかった。
評は「あれほど出兵しながらもみだりに恩赦などを行わなかった点は、なかなかに賢明である。しかし、諸葛亮が死んだ後の事を考えれば、優劣は歴然としている」と締めくくっている。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

おっしゃるとおり、蜀の建国の時期に内政を充実させた諸葛孔明の業績は大きかったでしょうね。

ただ諸葛孔明が健在だった時代は、劉禅の治世全体の最初の頃の四分の一に過ぎず、残りの三十年は孔明の補佐無しでありながら、あの時代に国を持ちこたえた訳で、劉禅がまったくの無能だったとは考えにくいかなと思っています。単なるお飾り皇帝では、謀反も一揆もない三十年間は無理だったのではないでしょうか。

三国志は千八百年も前のお話なのに、今もなおこれほど話題になったり、映画にもなったりとすごい時代だったのですね。

お礼日時:2009/05/10 08:08

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