ついに夏本番!さぁ、家族でキャンプに行くぞ! >>

タイトルの通りですが、人格、意外な一面、暖かい話を知ってる方何が教えて下さい!最近一気に小説など読んだのですが、裏切りや残酷なことが多く少しぐったりしています…
よろしくお願いします!

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A 回答 (8件)

 信長のはなしをひとつ 将軍義昭を奉じて 上洛し 諸事万端の段取りを済まして 岐阜に帰還 ところが それを見越して また


そぞろ 三好の一党が京周辺で動き始め 不穏な情勢に 義昭は不安になって 岐阜の信長に来援を要請しました 雪の積もる季節でしたが
ものともせず 急ぎ急行の指令を城下にだしました
そのときの顛末が信長公記にあります
荷の運搬に対して 信長は信玄や謙信のような 伝馬制度は採らず 馬借でした 城下で営業を許可しておりまして 通常は一般の請負ですが
いざというときは 独占貸切になり どこの誰が何をどれぐらいのものを積むかは すでに決めてありまして ほら貝とともに 短時間で出発できるようになっていました が そのときは何がたりなかったのか
少々混乱しまして (既定の人数にたりなかったようです)いつもより
たくさん積もうと(積めば積むほど金になる)荷持の取り合いがどうもあったみたていで 混乱したんです
信長は じきじきに 出て行って こういったそうです
京は 急いでいかなければならないので けんかするな
濃がいちいち見て採決してやるから さわぐな と
いちいち点検して これでよし  いくぞといって 出発したそうです
今で言うところの宅配便です
信長は もちろん京に間に合い 蹴散らしたそうです
馬借の人夫らと雪のちらつく中 馬の背に荷持を担ぎ上げたりしていたわけです
この距離感が信長なんでしょうね
支配するものと支配されるものの間の中間を排除しょうとした
行動の一端がかいまみれる思いです
  
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この回答へのお礼

織田信長って一般的に冷血で残虐なイメージありますけど、基本的には自分に逆らう人に対して…ですよね。目には目を…。 でもやっぱり歴史に興味のない人から見ればただの殺人気とか思ってる人も多いですが… 学校の授業でも何があってどうなった という結果だけでなく過程も教えてあげてほしいなと思います。テストには関係ないし授業時間も限られているので難しいとは思いますが… 一つのことを一方からではなくいろんな角度から見られる様になるのでは…
織田信長の行いが全て正しいかは分かりませんが、完全な悪ではないことと日本を造ってくれた御先祖様の内の一人ってことは確実ですから♪もちろん私の主観なので歴史を勉強してもなお嫌いとゆう人はそれでいいと思いますけどね。
とても良い話、ありがとうございました!
この話は初めて知ったので嬉しいです。またお世話になることがあればお願いします!

お礼日時:2009/05/14 14:17

「信長記」によると信長が鷹狩の折、悲しんでいる老女に遇い、わけを聴き先祖伝来の田畑を横領され、餓えに苦しむ毎日との話を聞き、帰城後丹羽長秀に調べさせその訴えの正しいことを知り、土地を取り戻してやったという。


比叡山焼き殺しの信長の優しさの一面です。
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この回答へのお礼

うわぁなんて素敵な人でしょう…やっぱり織田信長が一番好きです♪ありがとうございました!

お礼日時:2009/05/16 00:55

こんにちは。




こちら(↓)の石田三成と大谷吉継という武将のエピソードはどうでしょうか?

http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200705 …
(人様のブログですが)
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織田が上洛したさい、織田家中のサムライが


京の名門の出の人間と同席することがあったが
名門様が、あまりに着飾って立ち振る舞いも
勿体つけた雅ぶり炸裂なので、この尾張の
サムライは何だか自分の田舎モノぶりをコケに
暗にされてる気がしてムカついたので、
名門さまの前で下半身全裸になって
「名門様、尾張の名物でござる」といって
一物を これミヨガしに見せて名門様は
フォロー不能になったという。
これを織田信長が聞き知った、側近らは
殿のカミナリ炸裂、ストリーキングをやった
侍は厳罰か手討ちかと恐れおののいたが
織田信長はハラを抱えて笑い、ワシも
京都の古風高貴カッコ付け連中と付き合うも
いいかげん肩が凝っておったところじゃと云い
モロだしサムライは、お咎め無しだったという。
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この回答へのお礼

そのサムライ最高ですね!笑って許す織田信長も信長らしいとゆうか…おもしろかったです、ありがとうございます!

お礼日時:2009/05/16 00:47

・戦国時代の武将は、誰もが両刀使いですが、


 武田信玄は浮気はしていない旨のラブレターを家臣の高坂弾正に送っている。
・豊臣秀吉は、右手の指が6本(親指が2本)あったため、
 織田信長からは「はげねずみ」以外に「六つ」とも言われていた。
・豊臣秀吉の女癖が悪かったため、正室のおねが信長に愚痴の
 手紙を出したとき、優しい返事を出している。
・豊臣秀吉は名家の姫が好きだったが、
 徳川家康は出産経験のある後家が好きだった。
・徳川家康のふんどしは、多少汚れても目立たないように
 白色ではなく、最初から薄い黄色のふんどしだった。
・織田信長が京に行ったとき、京で一番の料理人の料理を食べたとき、
 まずくて料理人を殺そうとしたが、京の人が好んでいる薄口ではなく、
 田舎者が好きな濃い味付けで作り直したため、殺されずにすんだ。
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この回答へのお礼

武田信玄の男色…なんだか怖そう…でもラブレター書くなんてちょっとかわいいじゃないですか!徳川家康のことは他の方の返答で知ったのですが、その為に黄色いふんどしなんですね!妙に納得です! ありがとうございました楽しめました!

お礼日時:2009/05/14 14:39

徳川家康は吃音だった。


徳川家康は気が弱く、なにか事が起こるとすぐ腹を下した。戦のとき以外でも野グソをした(戦のときはみな野グソ)。信玄にぼこぼこにやられたときは脱糞していた。
徳川家康は、真田が出陣するとの知らせを廊下で聞くと、気絶しそうになり、柱につかまって「父か子か。」と言った。
豊臣秀吉が織田信長から付けられたあだ名は「サル」ではなく「ハゲ」。
織田信長が上洛したとき、京都の料理人はわざと濃い味付けの料理を出して信長が「うまいうまい」といって食べるのを陰で「田舎者」と笑っていた。
織田信長は初めて見た黒人を、体に墨を塗っていると思って小姓たちに洗わせた。
織田信長愛用の乗馬袴は、小便用の前空きで、ボタンで留めるようになっていた。現存する。
織田信長の妻で斉藤道三の娘の「濃(のう)」は、父親に激似のブスだった(伝承)。
真田の抜け穴は大阪市内に現存し、保存会もある。戦争中は防空壕としても一部使われた。
加藤清正は朝鮮で虎退治をしていない。なお、江戸時代の庶民は「清正公様」を「せいしょこさま」といっていた。
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この回答へのお礼

おもしろい…徳川家康、豊臣秀吉の二人は、いろんな話を知る度に私の中で威厳がなくなってゆきます…(^^)他の武士たちのことに対しては見直すのに…これが逆にもっと知りたくなるから不思議です(^^)
ありがとうございましたー!おもしろかったです!

お礼日時:2009/05/14 14:31

真田信繁(幸村)の逸話で


大阪冬の陣直前に家康から、叔父である真田信尹を使者として最初「信濃国内1万石」、次いで「信濃一国を与える」から豊臣方を裏切らないかと持ちかけられたが、信繁は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と撥ね付けたと言います。

真田は先々代 幸隆 先代 昌幸ともに謀略・戦略に長けた武将でした。
信繁も父親譲りの才を持ち「今孔明」とも言われてましたが、元々は勇猛果敢な人であったようで、義理堅い所も持ち合わせていました。

因みに
一般的には真田幸村と言われていますが、現存する公的な文章には「幸村」の名前は一切出てきません。これは江戸時代の講談師が真田十勇士などの話を作るときに勝手に付けた名前です。
正式には真田源次郎信繁。
武田信玄の弟 武田信繁に肖って付けられたそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!『真田幸村』ではなかったのを知ったのも、ごく最近です。。他の歴史上の人物や話などでも学校で習ったものとは違うことが多々あり名前覚えるのも苦労します…何度も名前変わるし!でも真実(確実な真実は分かりませんが)を知った時はすごくワクワクしますよね♪

お礼日時:2009/05/14 00:52

こんにちは。



昨日「人志松本の○○な話」で松本さんが熱弁していた
豊臣秀吉の家臣「黒田官兵衛」の話が面白いですよ。

とても頭がきれる家臣で、秀吉も懇意にしていたが、そのうち秀吉が「裏切られるのでは?」と不信を抱き一時一線を退く。
秀吉の死後関が原の戦いで手柄をたてようとするも、おバカな息子
に関が原の戦いの際に計算違いをされ、結局は名もないまま
終わった、というもの。

まあ、テレビの話なので、あとでwikiなどで調べると色々複雑なのですが、博識でキリシタンで平和主義? あまり出世欲がなかったらしい・・・という経緯をみると面白いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

こんにちわ。へぇ~。黒田官兵衛って野心家(人並みに)なイメージだったんですけどあんまり欲なかったんですね!いろいろ調べてみたした~ちょっとおマヌケで空回り…好感がもてるかも…(>д<)
ありがとうございました!

お礼日時:2009/05/14 00:28

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Q最強の戦国武将は?

最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合...続きを読む

Q歴史上の偉人の(格好悪い)面白エピソード

歴史上の偉人の(格好悪い)面白エピソード

「勝海舟は子供のころ犬に金玉かまれて死に掛けた」
「勝海舟が咸臨丸で渡米したとき船酔いでまったくの役立たずだった」など、
偉人の面白エピソードを教えて下さい。
その際、出来れば以下の条件を守って下さい。

・日本人である。
・あまりに古い偉人はやめてほしい(大河ドラマになるくらいの年代ならOK)
・勝海舟のように、歴史にあまり興味の無い人が、
「名前は知っているが、具体的に何をした人かはちゃんと説明出来ない」
というくらいの知名度の偉人が望ましい。

……ちなみに、上記の勝海舟のエピソードはこのサイトの過去質問で発見したのですが、
このエピソードは本当なんですよね?

Aベストアンサー

結構有名な話でしょうが・・・

徳川家康

三方ヶ原の合戦で武田軍に大敗し浜松城に逃げ帰る際に
恐怖のあまりに○ンチもらした、とか。

西郷隆盛

陰嚢水腫で×ンタマが人の頭くらいあり、
検死の際にはそれで本人と確認された、とか。

Q戦国時代のおける大名の妻のなかで、一番の妻は誰だと思いますか?

戦国時代のおける大名の妻のなかで、一番の妻は誰だと思いますか?
もし、この女性が戦国武将になったらすごかったと思う人は誰ですか?
おね、まつ、ちよ???

Aベストアンサー

賢妻は前田利家の妻まつでしょうか?

この女性が武将だったら、と思うのは
伊達政宗の母「義姫」
お家のためだったら息子も殺そうとするあの非情な血が
政宗に流れ、彼を奥州の覇者へとしたのではないでしょうか?

Q織田信長の性格 考え方

ここで、織田信長についてかなり論じられていますが、
織田信長の性格、考え方を深く知りたいと思っています。他人がどう思っているかの洞察力はかなり長けていたようです。豊臣秀吉、徳川家康よりも実際はそれ以上の大きな器の人物ではないかと思っております。

 まあ人生訓的水先人の師的にもこの人物を深く知りたいと思っています。大雑把なことはなんとなく評判だった行動(実父の死の墓前での行動、坊さんへの討伐等でわかりますが)で推測がつきますが、それ以上つっこんだ記事を見たことがありません。
 ぜひ、思われていることがあればご意見をお聞かせください。
 また、くわしい文献も知りたいです。
志半ばで倒れたので文献的には書かれたのが少ないのかもしれませんけど。

Aベストアンサー

いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍が厳重に野戦築城された織田、徳川連合軍を正面突破せざるを得ない状況に追い込まれたからです。織田、徳川連合軍は第三次川中島の戦いに於いて武田軍の採用した啄木鳥戦法と同じ方法をもっと堅実にやったとも言えるでしょう。
このように、信長と雖も情勢を読み違えることもありましたし、軍事的には割合常識的な作戦行動を取る事が多いです。さらに、美濃攻めや長島一向一揆相手の戦闘で何度も敗北している事を考えると、兵農分離が精兵を養うのに有効だったかも疑問です。実際に、当時の人口構成では農兵の方が精強だったと主張する論者も存在します。信長の行った合戦で勝ちが多くなったのは、上洛以降圧倒的大軍を動員出来るようになってからです。このように見ますと、安易に信長を軍事の天才と称えるのは早計かと思います。
人材を抜擢して競争させる人事方針も、組織の膨張期には威力を発揮しますが、安定期に入ってからは害になる事もあります。どこかで方針転換が計られなければ、永久に膨張を続けるしかありません(ナチドイツと似た構造)。この点をどうするつもりだったのかは、信長勢力が安定期に入る前に信長が死にましたので、何とも言えません。
最後に参考になりそうな書物としまして、藤本正行氏著、信長の戦争-信長公記に見る戦国軍事学 をお勧めいたします。

いまだに桶狭間の戦いを梁田出羽守の情報による奇襲と信じている向きが多いようですが、この説は今では信憑性が低いです。当時信長の家臣であった太田牛一の著書である信長公記には、奇襲と読み取れる文言はありません。寧ろ正面攻撃をかけたと読み取れる内容で、正面の今川軍を鷲津、丸根両砦を攻略した後の労兵と誤認して(実際は新手)攻撃をかけたようです。
長篠合戦における鉄砲三段撃ちも江戸時代の創作であり、実際の主な勝因は酒井忠次の別働対が長篠城の救援に成功した為、腹背を敵に圧迫された武田軍...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q上杉謙信の女性説について

高校時代に歴史の先生から、「上杉謙信は実は女性だったという説がある」というのを聞いたのですが、詳しい事をご存知でしたら、その根拠などを教えて下さい。もう、20年以上も気になっています。

Aベストアンサー

 確か、その「上杉謙信女性説」最近、友人に教えて貰いました。
 その根拠ですが
1,上杉謙信がいた地方の歌に「まんとら様は男に負けない力持ち」という内容の歌詞がある事。ここの「まんとら様」は昔の謙信の名前だそうです。「男に負けない」という表現は、男には使わないのではという事だそうです。
2,どんなに勝っている場合でも、一ヶ月に一回、数日間、決まった周期で合戦を中断している事。
3,「川中島の合戦は武田信玄と美男子を取り合う目的があった」という説がある事。この説は、他に、「上杉謙信男好き説」の根拠ともされているそうです。
4,上杉謙信の銅像等で彼がよくかぶっている頭巾が当時の女性のファッションであった事。
5,上杉謙信の絵で、彼が不自然なくらいひげを生やしている事。「女性という事がばれるといけないので、後で書き加えたのでは?」という話です。
友人はかなり「上杉謙信女性説」を信じているみたいです。
 しかし、その説にも反論があり、「謙信が女性なら出家は出来ないのではないか」(謙信は出家しているらしいです)という事だそうです。
 ご参考になれば幸いです。

 確か、その「上杉謙信女性説」最近、友人に教えて貰いました。
 その根拠ですが
1,上杉謙信がいた地方の歌に「まんとら様は男に負けない力持ち」という内容の歌詞がある事。ここの「まんとら様」は昔の謙信の名前だそうです。「男に負けない」という表現は、男には使わないのではという事だそうです。
2,どんなに勝っている場合でも、一ヶ月に一回、数日間、決まった周期で合戦を中断している事。
3,「川中島の合戦は武田信玄と美男子を取り合う目的があった」という説がある事。この説は、他に、「...続きを読む

Q戦国時代の猛将・勇将

見てくださった方ありがとうございますm(_ _)m

僕は日本史(戦国時代だけですが^_^;)が好きで戦国武将達の評価を記した本や小説などをいくつか読んだりしてます。

それらを読んだりしていると「猛将・勇将」などの言葉が出てきます。例えば、加藤清正、福島正則、本多忠勝、柴田勝家などです。僕のイメージですが、そういう方々は戦場で槍を振い敵の首をスパスパ取っていくような武将って感じなのですが、いろんな本を読んだりしていると、身分が高い武将は自ら戦うことは稀、と書いてありました。

さらに「強い武将といわれるのはその人自身が強いのではなく、手勢の兵が強かったり、用兵が巧みだったりする」のようなことが書いてありました。
ではその時代、猛将・勇将の基準は何なのでしょうか?
黒田孝高のように武勇に秀でていない(それは分かりませんが)が、用兵や戦術が巧みな武将は猛将・勇将とは言われないのでしょうか?

どうでもいいような質問ですみません(>_<)
また、下手な文章で読みにくいかもしれませんがお許しください。

どなたかご回答お願いします!

見てくださった方ありがとうございますm(_ _)m

僕は日本史(戦国時代だけですが^_^;)が好きで戦国武将達の評価を記した本や小説などをいくつか読んだりしてます。

それらを読んだりしていると「猛将・勇将」などの言葉が出てきます。例えば、加藤清正、福島正則、本多忠勝、柴田勝家などです。僕のイメージですが、そういう方々は戦場で槍を振い敵の首をスパスパ取っていくような武将って感じなのですが、いろんな本を読んだりしていると、身分が高い武将は自ら戦うことは稀、と書いてありました。

さら...続きを読む

Aベストアンサー

近頃は有名な武将や姫自らが武器をとって戦うような、3Dアクションゲームが
人気を博している時代ですからね。戦国武将の小説も、根っこの部分は
これらのゲームと同じです。
それに、時代を遡れば遡るほど、いわゆる職業軍人的な武将は少なくなり、戦が始まりそうな
気配になったら、自分の領地にいる農民やら氏族やらを徴集して、兵士や小隊長として使います。
彼らはお偉いさんに命令されて集められただけの一般庶民ですから、戦い方などの
知識は素人以下です。
つまり、戦術や戦略に詳しいリーダーたる武将は、彼らを上手く鼓舞し士気を上げながら、
後ろに立って、陣形の組み方、攻め際、引き際などを指示し、集団を動かす
要となる役割があるのです。それこそ前線に出て戦ったりなどし、討ち取られでもしたら、
その時点でアウト。城から財産から領地から領民まで、根こそぎ敵方へ奪われてしまいます。
小説などの物語は、いわゆる娯楽用のフィクションです。読者の気持ちを盛り上げる為には、
史実に沿うより、勇ましい描写や格好良いイメージを大事にした方がウケも良く、読者も
気持ち良く物語を読めます。
夢をぶち壊してしまったかもしれませんが、今後は、史実は史実、物語は物語と
割りきった上で、改めて歴史小説を楽しんでみてはいかがでしょう?

近頃は有名な武将や姫自らが武器をとって戦うような、3Dアクションゲームが
人気を博している時代ですからね。戦国武将の小説も、根っこの部分は
これらのゲームと同じです。
それに、時代を遡れば遡るほど、いわゆる職業軍人的な武将は少なくなり、戦が始まりそうな
気配になったら、自分の領地にいる農民やら氏族やらを徴集して、兵士や小隊長として使います。
彼らはお偉いさんに命令されて集められただけの一般庶民ですから、戦い方などの
知識は素人以下です。
つまり、戦術や戦略に詳しいリーダーたる武将...続きを読む

Qあなたの好きな戦国武将を教えてください!

好きな戦国武将ベスト3とその武将の簡単な解説をお願いします!

Aベストアンサー

・本多忠勝
・上杉謙信
・鈴木重秀

上二名は義を重んじた点と武にも長けていた点。(かなり大雑把にいうとですが)
鈴木重秀は雑賀衆の頭領として多彩な才能を披露すると同時に、当時鉄砲を使用したことで有名な信長軍よりも鉄砲技術に優れていた点を評価。(ある意味最先端を行っていたのは雑賀かなっと。)
まぁ雑賀の寝返りまくりの「義」を無視した方針はあまり好きではありませんが。

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む


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