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日本で年号が使われたのは645年の大化の改新以降だということは、学校で習いましたが、それ以前の聖徳太子の時代などはどのようにして時代を把握していたのでしょうか?
中国の年号を使った居たのでしょうか?
○○天皇○○年のようにしていたのでしょうか?

お手数ですがご存知のかた、お教えください。

A 回答 (4件)

いわゆる稲荷山鉄剣の銘文には、干支が使われていますね。



その他、寺院などの埋蔵物や建築材などにも干支が記されていることが多いですね。

感風諮号による数え方、推古3年とかいうのは「日本書紀」以降でしょう。
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この回答へのお礼

干支を使っていたんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/29 19:03

 今名付けられている漢字二文字の天皇名は平安以降(一部は明治)に付けられたものです。

元々天皇陛下は生存中には名前がありません。平安以降では全て「今上」天皇になります。現天皇にしても全く同様です。決して「平成」天皇というわけではありません。亡くなってから先代の天皇を「平成」天皇と名付けよう、と取り決められて初めてそう呼ばれるわけです。

 平安より前には日本書紀中に書かれている和風の天皇名が正式ですけれど、こちらも死後名付けられたものであることには変わりがありません。

 当時は中国の情報もリアルタイムで入ってくる状況ではありませんし、中国自体いつも統一国家であったわけでもありません。

 おそらくはNo.1の方も書かれている「干支」いわゆる十二支と十干の組み合わせ-例えば丙午(ひのえうま)や庚申(きのえさる)など-を利用していたと思われます。
 飛鳥~白鳳時代の作である仏像の年号表記も干支を用いていますのでほぼ間違いないでしょう。

 これを用いた場合、60年で一周してしまいますのでまた同じ干支が巡ってきてしまいます(いわゆる還暦)。
 しかし、当時の寿命から考えても一代の内に同じ干支に出会わない可能性も高く、仮に二度目だったとしても前回とは60年開きがあるのですからいつのことか間違えることはないでしょう。
 後世にまで歴史を残す、ということさえ考えなければ暦としては充分問題なく活用できていたのではないでしょうか。
 ちなみに、先の仏像の場合60年を隔てたどちら年の作であるか決められずにいるものもあります。後世にとっては少々厄介なことになっています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
自分でしらべたのですが、干支は漢の時代からあったとのことですね。

お礼日時:2009/11/29 19:06

大化の改新以前は、○○(天皇)○○年と記述したようです。


聖徳太子は敏達3年(574年)~推古30年(622年)の人
  http://www.sunfield.ne.jp/~inokuras/seireki1.htm

敏達天皇と用明天皇が一寸ごちゃごちゃしてますが。
 http://homepage1.nifty.com/gujyo-economic-res/ko …
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E% …
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聖徳太子くらいだと「私年号」を使っていた可能性もありますが, 多くの場合は「天皇が即位してからの年数」を使うか「干支」を使うかだと

思います.
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