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私は、小中高生の頃、学習用ノートを最後のページまで使い切ったことがありませんでした。
いつも途中のページでなんとなく嫌になって、新しいノートを買います。
現在は大学生ですが、ノートではなくルーズリーフを使うようになったのでこれについては改善できました。

ところが、たとえば私はブログをやっているのですが、いつもひとつのブログスペースを使い続けることができず、ころころとブログを移転し続けています。

日記も、たとえば今流行っている「5年日記」等の類を始めてみるのですが、1年分書いたところで、また新しい5年日記を買って次の年から書き直す、ということをしてしまいます。
その理由は、「1年間毎日欠かさず書くことが出来ず穴あきだらけになってしまった日記帳が嫌だから、また新しく日記帳を買って、今度は絶対に毎日欠かさず書いていこう」という心境です。
(しかし、新しい日記帳にも毎日欠かさず書くことはできず、途中で辞めてしまうのがオチです。)

スケジュール帳もすぐに乗り換えたくなるので、1年間のうち買ったスケジュール帳が5冊もある、というのは毎年です。
しかもそのスケジュール帳たちは結局一冊も使われること無く、その年の年末大掃除のときにゴミ袋行き。

このような自分の行動を、自分では「リセット」と呼んでいます。
「ああ、またリセットしちゃった・・・」のように。
どうして私はすぐにリセットしたくなってしまうのでしょうか。
実は大学も一度辞め、違う大学に再入学しました。編入ではなく、入学からやり直しました。
これも「リセット」の一種かなと思います。

このままでは、自分は就職したときにもこの癖が出てしまい、
何度も転職を繰り返すようになってしまうのではないかとか、
結婚してもすぐに離婚して、結婚をやりなおしたくなってしまうのではないかとか、
今後の人生に大きな不安を抱いています。

どうすれば、この変な癖を直すことができるのでしょうか。
この「リセット」の根本的な原因は何なのでしょうか。

A 回答 (7件)

流石に大学はリセットしていませんが、モノに関しては共感できる節はあります。


自分も小学校中学年(ノートが方眼)まではノートを使い切っていましたが、
大学ノートを使うようになると最後まで使わずに新しいものを買ってしまって
いました(我が家は低所得なので贅沢な話ですが)。

スケジュール管理はPDA(最近売られているスマートフォンの通話機能のないもの)で
管理していましたが、紙の手帳はどうだろうと某自己啓発系の会社の本体も
リフィルも高価なものを買いましたが、碌に使わず売却しました。

周囲からは新しもの好きと思われていますが、趣味のコンピュータや自転車は
性能に不満のない限りメンテナンスはしませんし、買い換えもしません。


専攻が心理学(臨床少々、メインは青年期発達と人格心理)なので改めて
考えてみるに、どこかに「完璧主義」が入っている気がします。
ノートを例にとると、キレイなノートの中身を参考書のようにしたいと
(あまり意識せず)思って書き始めて、その理想と現実のノートの内容の
不一致から(人間は大抵この種の不一致を回避しようとします)、心的な
不快感を回避する目的でノートを半端で止めてしまうように思えます。
日記の場合も同様と考えます。

ですので、ご心配の就職等で企業に入る前と後のギャップが大きいと、
辞められる状況にあればまだしも、(転職先が決まらないなどで)辞められない
場合に相当なストレスを感じるはずです。その際にメンタル面での不調に苦しんだり、
逃避行動的な態度をとって信用を失うことが考えられ、これは回避したい
ところですね。

単なる学士の一考察ですので、上記内容が全く正しいということでは
ありませんので、その点はご留意下さい。
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個性と捕らえればいいんじゃないでしょうか。


よく言えば執着が無い。
悪く言えば飽きっぽい。

出力値や目的が明確であれば、失速しないのですが、ひとまず なら出力の力も弱いので途中で目標を補足できなくなり、失速するし、魅力を感じなくなれば、前に進まなくなる。


持続は力なり といいますが、持続して達成するたびに喜びとなり、失速しないんでしょうけど、自分の本来の願っているものではなく、ひとまず だった場合、持続する力が無いじゃないですか。


自分は何を願っているのか、どんなものなら執着できるのかわからない状態。

だけど、こだわり続けるってのも時にはよしあし。
世間体を重要視して離婚だけは避けたいとした場合、仮面夫婦関係を持続するわけで、持続が幸せにならないこともある。
だけど いいときもあれば悪いときもあり、持続していたら結局のちのち積み重ねで大きなものが手に入るという神話もありますが、あくまで神話。

努力すればするほど それに見合う代償を手に入れられるはずだという思い込みがある。
だけど、実際はそれは幻にすぎない。



仕事をすることは社会貢献をすることだといえば聞こえがいいですが、実際は生活のためですよね。
とても辛い仕事であっても、一家を養うという立場にあれば、養うということに重きを置くので、仕事をやめないわけです。

だけど、一家を支える立場になかったり、別の仕事がすぐに手に入るご時世だったら、我慢して辛いことをしないわけです。


研究者は多くが薄給ですけど、ずっとやっている。
それは興味があることをやり続けることができる立場にあるから、持続できるわけです。
もし、興味が無いことに移動させられたら、例え前より給料がよくても、長続きできない。
だって望まないものが一番で、自分が望むことはどんなにやっても今は手に入らないのだから。


で、賢い人は生活と興味があることを別々に捕らえることができ、仕事は興味があることをやるための資金源を稼ぐことだ と割り切っている。



他は、、多動性障害ってものもあります。注意欠損症とか呼ばれるもの。
周りのいくつものものに目がいってしまって、一番重要なことがおろそかになってしまうってもの。

Aに対してもBに対しても、Cに対しても注意が向くので、定まらず、今向いたCに注意が行ったときAが注意からそれてしまう。


障害が無い人は、Aに注意が向いたら、B、Cに対して出力係数を上げないのでしょうし、同時に全部にほどほどの注意を向けるんでしょうけど、注意欠損症の人はひとつに100向くかわりに他が0になっちゃう。


でも障害というより個性だと思えばいいんじゃないかと。
どっちが幸せか、他人では評価できないしろもの。


持続は力なりは確かにそうだけど、それに満足しているのかどうかは、本人にしかわからない。

あとは変化を恐れる人も、同じことを持続する。
転職を繰返す人は、変化を恐れない。 
ただ、適応したのに、別の方向に目が向いてしまい、適応できている場所を離れてしまう。
困った状態に自分がなるかというと、別ステージでピンピン生きている。

というわけで、まあ 個性と思ってあまり気にしないでいいんじゃないかと。
確かに聞こえはよくないですが、結構有名になった人は、転校先の学校に適応できず、何度も転校を繰返していたり、何度も転職をしていたりする。
やっと自分にあった環境になったとき、動くのをやめてます。
そういう意味では適応能力が無いと言えますし柔軟性が無いとも言えますが、結果よければすべてよし でいいんじゃないか と。
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No.4です。


お返事を頂いてから、書いた方が良かったのかもしれませんが、再投稿です。
と言うのは、ご質問を読んでいて疑問に思ったこと、お尋ねしたかったことがあったのですが、急いでいたので(私事ですが、家族がパソコンを使う用事があったので)書きそびれ、中途半端な文章になってしまったからです。

学習帳の件も疑問だったのですが、中でも一番の疑問は日記です。
日記は何のために付けているのでしょうか?
ブログもそうなのですが、


>今流行っている「5年日記」等の類を始めてみる

とありますが、始めた動機が
「流行っていて楽しそう、面白そう」だったとして、続かないのが分かっていて、何故またもや「5年日記」を買ってしまうのでしょう。


>1年間のうち買ったスケジュール帳が5冊もある、というのは毎年です。しかもそのスケジュール帳たちは結局一冊も使われること無く、その年の年末大掃除のときにゴミ袋行き

というのも、自分では尋常じゃないと分かっていますよね。
そして、またしても買ってしまう。
きっかけが何であったのか、私には分かろう筈もないけれど、依存症の傾向があるのではないでしょうか。
「このままでは駄目だ。穴埋めが必要だ」と、強迫的になってしまうところがあるのではないですか?
このことが、後々の就職や結婚と必ず結び付くとは限らないけれど、
「常に新しい同等の物、スペアを用意すれば失敗はなくなる」
と、思い込んでいるところはありませんか?

ここでもまた、新たな疑問が頭をもたげてくるのですが、
「何故、お金をはたいてまで、新しいスペアが必要なのでしょう」
お金で失敗が買い戻せるような、錯覚があるからではないでしょうか。
ご質問にある捨てられたもの達は、つまりは貴方の足跡ですよね。
それには、見たくない現実“失敗”が詰まっているからですか?
これらの足跡を消去することは、“禊ぎ”で“厄払い”と言うことになのでしょうか?
過去の日記や手帳のことは、重く捉えすぎると貴方には逆効果ではないかと思うので、汚点ではなく、
「あの時の自分にはリフレッシュとして必要だった」と割り切って良いと思います。
そして、そこで終わらせずに、繰り返さないように反省もしましょう。

そもそも、一点の曇りのない人生などないと思います。
けれど、後悔の少ない人生を送ることは出来ると思いますよ。
何でも欲しい、やってみたいと飛びつくよりも、それが本当に自分に必要なのか吟味することは必要なことです。
躊躇して足踏みばかりするよりも、挑戦への一歩は輝かしいものだけれど、日記やブログ、手帳は貴方にとって必要な物ですか?
ここまでやって駄目だったのなら、必要ないのじゃないですか?
なくとも支障なく日々は送れますよね。

ブログも、反応がつまらないから続かないのではないですか?
だったら、これ以上、続ける意味がないと思うんですよね。
別に上手く行かなかったからといって、一々汚点のように思わなくとも、今は学生なのだから、本当に自分に必要なことにだけに打ち込めれば良いと思います。
新しい大学のことも仰っていたので、今、本当には、やりたいことが見つかっていないと焦っていらっしゃるのかもしれませんが、あちらにしておけば良かったと、いつも後悔ばかりするよりも(私は、あちらにすれば良かったと言う人は、そう言いながらも、結局は、自分の力に見合った方を選んでいることが多いと思います)、

「人事を尽くして天命を待つ」の心境で、日々を送られるのが良いと思います。悪い結果ばかり思い描いて神経をすり減らすよりも、良い結果を掴み取れるよう、今できることを精一杯なさったら良いと思うのです。
それに、年配の人よりも若い人の方がチャンスを掴む能力があると思いませんか?
若い内は無理も利くし、吸収力も優れていると思います。
「鉄は熱いうちに打て」という言葉は、若い貴方にはピンと来ないかもしれませんが、自分が年を取ったとき、ヒシヒシと解るものですよ。
あまりに先のことを愁うよりも、一日一日を大切に過ごしていくことが、着実に幸運を引きよせることに繋がって行くと思います。

就職や結婚は人間が相手だし、相性や貴方自身の本気度によるものだから、日記や手帳の二の舞になるとは限らないけれど、今の内から本気になって打ち込むことや、やりたいと思ったことを計画を練って完遂することの喜びを知っておいた方が良いですよ。
あと、何か物事が悪い方向に傾きだしたら、何でも関連付けて考える癖があるのなら、止めた方が良いです。
これは、物では気休めになっても穴埋め出来たことにはならないからです。
貴方自身のものの考え方を変えなければ、同じ結果の繰り返しになってしまいますよ。
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学習ノートを使い切ったことがないというのは、私としては不思議だけれど、家が割と裕福なのではないですか?


欲しい物を直ぐ買って貰えると思っていると、長持ちさせようとか、最後まで使おうとか、あまり思わないかもしれないですよね。
また、それとは逆に、家計が苦しくて高価な物は中々買って貰えず、自分の物と言えば、ごきょうだいのお下がりばかりで、学習ノートなら必需品だから、難なく新品を買って貰えるので嬉しかったとか?
…意識していなかっただけで、何かきっかけがあったのかもしれないですよね。

経済的なことと関係ないとしたら、何度でもやり直しが利くという、おまじない的行為なのかもしれないですよね。
それか、あまり物には愛着を持てない性分があるのかもしれません。
自分の持ち物なのに、何処か自分とは関係ない物のように思えてしまうとかね。

あと、日記のことですが、最初から目標が高すぎるのだと思います。
別に、日記は毎日書かなくとも良いと思います。
日記も、最初から日記帳だなんて立派な物ではなく、大学ノートに、
「気まぐれ日記」というスタイルで付ければいいのではないですか?
毎日が波瀾万丈だなんてことは先ずないし、本当に日記を付けるのが好きじゃないと、毎日続けるのは苦だと思います。
もっと、ゆったりと構えていれば良いと思いますよ。
記念日にしたい様な出来事があった日に付けるので良いと思います。

毎日だとか必ずだとか思うから、
「ああ、私はきっと最後まで続けられない」と、逃げたくなるのだと思います。
「100メートルなら走り抜けるけれど、マラソンの完走は出来ない」と思うのと同じことだと思います。
最初から遠い道のりを思い描くから、しんどくなるのだと思いますよ。
完璧主義が過ぎると、反って失敗を思い描いて達成意欲が削がれるのだと思います。

それと、ノートや日記帳のことと大学の再入学を始め、将来のことと結びつけるのは、些か強引じゃないでしょうか。
ノートや日記帳の事は、単なる性癖と割り切った方が良いと思うのです。
別に、ノートも日記もブログも人生を左右するようなことではないし、そこまで気にせずとも良いと思います。
ちょっとした気分転換だとか、リフレッシュをしているのだと思えば良いじゃないですか。

大学のことは、自分で選んだことならば後悔しない方が良いですよ。
そして、ノートは過去のことだし、ブログは自分の趣味であって、誰かに迷惑を掛けているのではないのだし、日記の問題は先ほども書きましたが、気が向いたときに付ける事にすれば何も問題ないじゃないですか。
気にし出すと何でも悪く関連づけて、脳内に「達成回避回路」を造ってしまうようなものだと思います。
悪い自己暗示を掛けても何も良いことはありません。
気に病まずとも、目標設定を無理のないものに見直せば、これらの繰り返しは無くすことが出来ると思いますよ。
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私見ですが、自己理想が高いのかと考えます。


現代の日本人の問題でしょうね。
「リセット」等ともっともらしい名前を付けている事も…(失礼)
貧困にさらされている国の子どもには考えられない事でしょうね。

「こうありたい」「こうでないといけない」と思っているが、現実の自分(行動)はそれについていっていない。

買い替えられるものはまだいいですよね。
しかし何度買い替えても満足しない…

大学は変更して良かったですか?
今の大学に満足していますか?
満足しているなら、今後重大な決断をする時は色々な事を調べ熟慮してから決められる事の大切さを学べたはずです。
満足していないなら、自分がどのように考えどのように行動すれば満足できるのか試行錯誤しながらお試し下さい。

また、人間関係はどうですか?
やはり何か気に入らないとリセットするのですか?

就職も結婚も、人間的に成熟していないと無理でしょう。
まだ大学生との事。
御自身の甘えを「癖」と言い訳せずに、自分自身がどうありたいのか(どんな人間になりたいのか)、その為に今できる事は何なのか。
それを一つずつ行っていく事が大事だと思います。
手帳は買い替えられても、他人は変えられません。
結婚も幸せにしてもらうのではなく、自分が努力して幸せな家庭を作るものだと思います。
理想の自己像と現実の自分が一致するためには努力が必要だと思います。
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これは流れでそうなっているのです。

運ともいいますが、自分で自分をそういう風に「運んで」いるのですから運です。こんな軽いことに運と言うのも変なようですが、やはり運です。というのは、

どうでもいいこととして真剣に捉えてないのは人は軽く扱います。これは誰でもです。あなたはその自分が見えているだけです。他の人はそれに気づきもせずに暮らしています。気づかないイコールリセット、知らぬまにです。

では何故あなたは気づいてしまったか、それは日記だからです。日記は気づかせてくれるのです。リセットしなくなる時が来ます。それは人生をかけるものに打ち込みだしたときです。

今はその前だから自分を振り返る余裕がありますが、そのときが来れば時間の早さは倍以上になります。今のゆとりのある日々を優雅に過ごして人生謳歌してください。jinseiwalker
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 一言で言ってしまえば、あなたの気持ち1つでコントロールできる問題なのでは。

それができないとココで言っている部分に「甘さ」と「甘え」が見える気がしますよ。

人生は1つ1つの選択の積み重ねです。継続しなかった物も多くあるでしょうけれど、継続している物もあるはずです。本当に脳の微細な異常で、ADHDなど(検索して御覧なさい)を持っている人にも、色々なことに継続が困難な場合もあります。何度も結婚と離婚をくりかえしたり、職を転々としたり。それでも、同じモノを持っている人でも、継続ができている者もあります。要は自己コントロールの有無だと思います。出来ないと思ったら、出来ないだろうし、出来ると思えば大抵の事は人間できるモンです。ヤバい、と感じた時点でその転機は訪れていると思いますよ。頑張って下さい。
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