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「白虎隊」

1・会津藩が長州を御所の護衛から外せたのは天皇の勅許があったからですが、それは本当に天皇が自分で書いた勅許だったんですか?。

2・会津の公用人や殿様は天皇直筆の書状を1回でも見た事があるんですか?。

3・勅許にはあくまで国賊を排除しろと書かれていただけでどこにも長州や薩摩、淀、会津の名前は載っていなかったと歴史の本には書いてありましたが。

A 回答 (1件)

攘夷勅命が1863年3月


薩英戦争が1863年8月
下関砲撃が1863年5月

薩摩は、攘夷がどれだけ愚かな思想であるかを痛感します。

この頃は、
開国派、攘夷派。
尊王派、公武合体派、佐幕派。

こう言った思想のみでした。

八月十八日の政変の時、孝明天皇、幕府、薩摩藩は、
公武合体政策で難局を乗り切ろうとしていました。

幕府に強い態度で諸外国に望ませようとする孝明天皇。

それに対して天皇を中心とした政治をしようと言う尊王派は
孝明天皇の意に明らかに反する物でした。

孝明天皇の希望は攘夷のみであったのです。

その後、
諸外国は大阪湾に軍艦で乗り入れ、天皇に条約の勅許を求めます。
攘夷が不可能な事だと悟ります。

>勅許にはあくまで国賊を排除しろと書かれていただけ

「当時」公武合体の天皇の意に反していたのは長州のみです。

その後の長州征伐で長州は、幕府の武器が旧式である事や、
お殿様の指揮能力が極端に劣る事を知ります。

一時征伐では西郷は参謀として参加しますが、
二次征伐では薩長同盟が成立していた為拒否。幕府は大敗北します。

尊王攘夷から尊王倒幕派へ、公武合体派から倒幕派へ変わります。

たった2年で国賊は官軍になり、
京都守護職下の新撰組は国賊へと変わります。
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この回答へのお礼

そうですか。分かりました。感謝します。

お礼日時:2010/03/06 01:02

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