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国などを一括りに差別する心 の根っこは何?

なぜ人は、「あの国の人間はああいう奴ばかりだ」などと平気で
口にしてしまうのでしょうか?
しかし一方で、個人単位ならば親しくできる人は大勢いますし、
「そういう(良い)人もいる」という事も理解している人が殆どです。

別に国に限らず、○○ファンは○○ばっかり。とか、
○○を見る奴は○○だらけだ。ありとあらゆる事に
一面として事実、しかし言いくるめるには過剰な事が
世の中には有り触れていると思います。

そして、そういう人の一部には、
常軌を逸して「拒絶だけで全く歩み寄ろうとできない」人が居ます。
恐らく何かの印象が根付くだけの事が過去に有るのでしょうけれど、
どうも普通の人間とは違う、
理論的会話が不可能、客観的価値観や情報の拒絶、情報の曲解など
何か人間として壊れているかのような側面を見せる人も居ます。


「国などを一括りに差別する心」について、
一般的な人の心と、そういう一部の人の心 について
どう思われますでしょうか? 何かご助言を頂けると幸いです。

(※「国名」を出す事、「特定国の歴史」の話はご遠慮願います。)

A 回答 (7件)

『無知』『経験不足』『脳内?』



ただ、それだけ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/22 15:32

もう一言。


『理屈っぽく割り切ろうとしてしまっている』

要するに『固い』(頭がフリーズ?)
「国などを一括りに差別する心 の根っこは何」の回答画像2
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/22 15:32

更に、もう一言。



 まだ、何も分かっていない、ということに気付いていない。

『分かる“わけがない”』という真理?を忘れてしまっているのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/22 15:32

更に、更に、もう一言。



 『過去に、嫌な目に遭ったことを根に持ってしまっている』(多分

これかな?(4度目の正直!?)(すみません)
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この回答へのお礼

嫌な印象などの思い込み、知る事への怠慢という感じでしょうか。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/22 15:36

「知ってるか」それとも「知らないか」という概念の果てだと思います。



「知っているものは安心できて」「知らないものは安心できない」
つまるところ、固定概念に捕らわれる方は「無知」なのかと思います。

それが本当にいいのか悪いのかわからずに受け入れてしまっている。
「どれが本当に良い物なのかの自己判断ができない状態」です。

個人で付き合えるということは
「その相手という人物を自分の眼で確かめる事ができているから」――・・・ ではないでしょうか?

仮に国という人括りではなく「各々が、各々の目で、各々という個を知り、認め合おうとする心」があったのならば、

しかしながら、知らないものは「既知の情報だけで、勝手にそうと判断してしまう“実際に確認もしないのに、情報に頼りすぎる傾向”があるため、偏見が産まれてしまったり、情報操作の享受が発生してしまったりするんです。」

仮に国や地域、情報などといったそういった縛りがなかったとして、ただお互いが産まれた時に一緒に居たのであれば「隔たり」というのは、産まれなかったかもしれませんからね。

犬と猫が最初から一緒に居たら、仲がいいようなものです。
=最初からお互いを知っている

実際にオリンピック等で出場している選手(ある一部分でも知った人)であれば、例え横に居ても「ああ、○○さんだね。」と受け入れられることが多いでしょう?
※頑張っている姿に対して、何かが中傷などを入れて“本質をねじまげてしまう”という操作が入らなかった場合ですが。

※実際に芸能人の誰かがテレビに出ていたとしたら「その人はいつも見ているから知っている」なんて刷り込み(言い方は悪いですが敢えて)という効力があって、その人に好感を覚えてしまうんです。(知っているということで、安心してしまうからですね。)

これは実は結構恐ろしいことで、延長線上ではどうなるのか・・・?

“その世界は知っているから安心で正しいものである”という誤認が産まれるのです。

独裁政治や洗脳というのはまさにこういった作用を起していて、実際には“人が人であるべき、本来の自然性を欠いてしまう結果”となることも少なくないようですね。

「知っている世界が安心で正と想ってしまうような傾向にある」という理論から、日常の笑いのタイミングや、考えも、知っている(という思い込み)によって正(ただしくは、正ではなかったとしても)と想ってしまうところがあるとういうことです。

※よく、デブだとか、ブスだとか外面の問題で笑う人がいますが(そういうキャラだからとか、変な思い込みによってね)、間違った“正(笑い)”の世界を正としてしまったんでしょうなぁ。誰かを傷つけて得る笑いが、“例え、多数が笑っていても、全員で笑えていないのはある意味の笑いではないですからね。” 案外とこの世界は変なところが多いです。 何かを拒絶してしまって“ある一グループ内だけが、安心して楽しく、好き勝手できる世界”というのは、やっぱり、可笑しいものですからね。 笑いを取るために、相手を尊重する心を欠いてしまっては、皆で笑う事はできないかもしれないです。

「知っている世界というのは居心地がよく、それを正だと想ってしまう」ので、それ以外の世界が現れてしまったとき「それを知ろうとできないこと」が無知に繋がるのかと思います。

「知っていると思い込みすぎるあまりに、知らないものが見えない」
ファンについては、少なくとも「他の世界を知る必要がないとしてしまうぐらいの、何か」があるのだと思います。

が、実際のところは世界というのは無数に存在するので「何か一つだけである」というのは、いいことばかりではないでしょうけれどね。

皆での世界というのが必要になってくるかもしれません。
(一世界の知に、意識を捕らわれるのではなく、全体に知を通わせることも大切になってくるのかと。両方必要なんですけれど、欲などからの兼ね合いによるバランスの問題かもしれませんね。)

まとめると
「国などを一括りに差別する心」については、
「知っていると思い込みすぎるあまりに、知らない世界を充分に知ろうとしない(解ろうとしていないのに、ほんのわずかな一部分の情報で、総て解ったつもりで接してしまうところ) ≒ 知ろうとしないこと  ≒ 無知」

ということなのかと想われます。
少しでも読んで下さった方が、世界への偏見が解ければと想って綴らせていただきました。

折角同じ地球という世界で生きているのだから、
皆で幸せを共有したいですし、判り合っていきたいですからね。

誰も傷付くことがないように、皆が皆、お互いに産まれてきてくれてありがとうと言えるような、そんな「お互いの存在の認め合い」ができる世界になって欲しいですから。

やっぱり、戦争も、喧嘩も、イジメも、拒絶のし合いも、どこか心寂しくって、そういうのを無くしたいという想いがあるということは、
お互いでどこか認め合いたいと思える心があるからだと思います。
人は心のどこかで、建前上は、プライドだったり、偏見だったり、何かしらの隔たりをもってしまうところがあるかもしれませんが、それでも本当に大切なことは、心のどこかで解っているのだと思います。

○○国だから、○○人だからとか、○○企業だからとか、○○グループだからとか、いつかそういうのを抜きにして、
本当の「個として、相手を認め合える、本当の知」というのが広がっていけたら嬉しく思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>固定概念に捕らわれる方は「無知」
>「その相手という人物を自分の眼で確かめる事ができているから」
>芸能人
確かに、知ってるか知らないかの果てなのでしょうね。
その「知っている」が刷り込み(不確実な情報)で人心は容易く操れますし
操られている事に無自覚なのも見ていて悲しいものが有りますし、
「知ったかぶり」で決め付けて自分の器の小ささをアピールしてる愚か者は
どの国にも居ますし、自分もその愚か者でもありますし。

難しいですね。
知る事への労力。
知っている事がどういう面で真実でどういう面で間違いか。

>独裁政治
ですね。
よく知らない。あいつらはこういう事をした。許せるか?
あいつらは敵。周囲の人が同じ「あいつらは敵」という意識を持つ
共感での連帯感。知を損なった愚か者の末路。操る人間の悪意・・。

>「知っている世界というのは居心地がよく、それを正だと想ってしまう」
>ので、それ以外の世界が現れてしまったとき「それを知ろうとできない
>こと」が無知に繋がるのかと思います。
>「知っていると思い込みすぎるあまりに、知らないものが見えない」
そうですね。
しかし歳を取っても、根本的な性格が極度に歪んでいない限り、
自分の中の矛盾を消化する為に理解に至れるのが
人間の救いなのかもしれません。

何か過去の歴史のうねりの違和感に1つの答えが出ました。
ありがとうございます。


>文末あたり
私もそう思います。
人は無垢に他人を知ろうとして、痛い目に会ってしまい決め付けて
自分の心を守ろうとするのでしょう。
心の弱い人ほど周囲を決め付けて歪んだ自己防衛の末、
結果自分を傷つけて尚更苦しんでいるように見えます。

そして人は他者に傷付けられると、同じ苦しみを他者に与えて
ストレスを吐き出す心理がありますし、
そういう連鎖が知る事を阻む壁なのでしょうね。

子は親の鑑で、親が狭量だと子供はそれを反面教師にしても
はやり狭量な部分を抱えてしまいますし、
閉鎖的な家庭で育った子供は「知っているつもり」で
何もかも決め付けて見る社会へ進み始めているのでは
と一抹の不安が過ぎります。

ご回答、ありがとうございました。
できる事ならあ、全ての人が他人を出来るかぎり傷付けず
幸せに生きていける社会になってほしいものですね。

お礼日時:2010/03/26 23:45

 私も先の回答者様と同様、「知っているか、知らないか」


に一票です。

 良く知らないから「変だ、おかしい」と違和感を感じるだけで、文化・習慣・思想・人の性格等をその根源まで知り尽くせば、全て「ああ、なるほど当然だ」に納まります。

 ただ、根源まで「知る」という事は非常に難しい事ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「ああ、なるほど当然だ」
ですよね。 私はまだそれぞれの国の根源を知るには程遠い程度の
知識しかありませんが、過去が有っての今ですから、
唐突に社会も個人も変わる訳はなく、そうなるだけの事情が
何事にも有りますよね。

それを納得するか納得しないかは個人の器次第だと思いますが。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 23:02

⇒一般的な人の心と、そういう一部の人の心 についてどう思われますでしょうか?


育って来た環境と,親からの偏見を受け継がれた人々です。学校でも,大学教授でも平気でそうある国を指して平気で言いますから,
それは,極めて単純明快です。差別,優劣,軽蔑,卑怯,野蛮,非常に低次元の人々は,親から教えられてきたからです。質問者のご指摘の人々から,虐げられて来た体験からして,ある民族だけに限った傾向だと認識しております。正反対の投稿分に驚きました。
テレビでも歴史話に盛り上がり同様にある国を指し平気で差別的言動を連発されたのは日本一流の大学教授2人です。ですから大学である国を軽蔑する様に教育されているのだと確信して居ますが違いますか?
あらゆる日本のサイトで,ある国を差し毎日の様に馬鹿を大合唱する民族に拒絶感だかけしか持てません。
ある国を指し平気で馬鹿と差別的言動を連発する民族は嘘吐きで,世界一卑しい民と話された2人の著名な著者の言動が印象に残っています。
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この回答へのお礼

この質問をしてから後に色々知ったのですが・・
色々と実態を知り、なぜそうなるのか大まかに理解しました。
他の先進国も旅行者に悩まさせられている事も知りました。

しかし公平な目線で理解しあえる人も多く存在するようですし
私は差別を差別で返す報復の連鎖を産むような罵りあいも、
個人単位でならともかく、
八つ当たりのようなひと括りにした差別をする人も、
同国民として恥ずかしい。冷笑されるべきだと私は思えています。

差別を平気で口にする人は八つ当たり先が欲しいだけの
器の小さな人に見えてしまいます。
しかし私も差別的な言葉を無意識に吐いて自己嫌悪します。矛盾です。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/26 22:59

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