一回も披露したことのない豆知識

「負けの美学」は人間が持つ概念として誤りではないのでしょうか? 

「負けの美学」という言葉について、長文でうまくまとめきれていないのですがもやもやしているので質問させて下さい。
カテゴリー「哲学」「国語」に質問すべきような内容の質問なのですが、歴史カテゴリーに質問したのは、過去事例から本質を探れるかと思った為です。どなたかご意見頂ける方がいらっしゃいましたらご教授頂きたく、宜しくお願い申し上げます。

負けの美学なるものがどうして存在するのか、理解できません。
負けが確定してしまった後では、それはどうしようも無いので美学を発動せざるを得ないという理解はしています。しかしそれより前の時点で、勝負をする段になった時、本来であれば勝つ事、あるいは負けない事を前提にして挑むべきで、「負けの美学」という負けを前提とした言葉が一般的な認知に伴い、ごく普通の市民権を得ているようで下記のようなある種の気持ち悪さを感じるのです。

・本来なら美しさなど二の次で勝利せねばならない。「こういう理由があるから負けても良い」という理解は余裕のある贅沢な感覚であって、人間の根本の選択肢にあるのは危険である。
・敗北というマイナスの重要事項が「美しさ」によって問題点をぼやかされているように思える。

  第二次世界大戦で、日本を守る為に青年が特攻隊として散り、そこには「戦争には負けるが特攻により講和で3:7を引き出す事ができる」などという考えがあったという事を引き合いに出せば、これは「負けの美学」であり、これはこれで大変立派であると後世の私は思うのだけれども、視点を変えて言うと、これは負ける事が確定したからそう言う事を考えなければならなかった事情が背景にあり、敗北の美学を出す前に、勝つ(あるいは負けない)算段を立てておくべきだったと(当時は仕方の無い面はあったと思いますが)。そして圧倒的な戦力差ががあると分析ができていても尚、「座して死を待つよりも~」と言う美学で突っ込んで行ってしまった。
以上は結果論なのですが、それでは歴史を反省にして、今現在の我々としては継続して国際社会で手を打ち続けるべきで、そうした場合に政治の基盤である国民の理解が「負けの美学」を肯定的に捉えてしまっているのは、戦前とは違った意味で大変危険なのではないかと思うのです。
乱暴に言ってしまえば「負けてもそれは美しいから戦争へ突っ込んで行ってしまえ」という空気が醸成されたのが戦前で、「負けたとしても利害が複雑に絡むので外交はある程度負けてもいい」というのが現在の日本であり、そうした国民の勝敗に対する根底の認識の甘さが現在の領土問題や国際問題に関わる日本の弱腰姿勢を構成する基盤としての危険性を多分に含んでいる可能性があるのではないかと危惧しているのです。

他にも雑感を書くと、
・本来なら敗北から立ち上がっていく所までを礼賛すべきだが、「負けの美学」という言葉を出すと、敗北した、美しかった、終わり。で済まされているように思える。
あるいは視点を変えて
・スポーツなどで負けた姿は美しいけれども、それを負けの美学と混同しているのを見受ける。「負けの美学」と「good loser」はそれぞれ主観と客観の言葉であって、別物。
・美学なるものは己が内に定めるエゴや規律、哲学や気構え・覚悟なのであって、人間として持つべきそれは「負け」を選択すべきでは無い。

という部分で「負けてもそのままでいい」という空気を許容するならまだしも、それが是であるという社会を気味悪く思っているのです。
本来であれば「今回の勝負に負けたけれども、次の勝負では別の手段でやっちゃる」的なエネルギーがあるべきはず、と自分勝手に思っているのですが、「負けの美学」という言葉を是に取る空気により、結果としてマイナスの空気が社会を覆っているように思えてならないのです。

戦国時代は致し方の無い「セカンドベスト」的な選択肢が「負けの美学」に通ずる事もあったり、あるいは「負けるのは悔しいが、結果は残したるわー」という部分があって美学にもなったのでしょうが、現在は人にあきらめという感情が入り、その代わり悔しさという感情が取り払われてしまった結果、従来の負けの美学とは違った意味で使用されているように思われるのです。

そこで質問させて頂きたいのが下記になります。
1.「負けの美学」を持って戦った過去事例はどのようなものなのでしょうか? 
  またその負けは事前に防げなかったのでしょうか? 
2.その「負けの美学」はどのような「良い結果」を残したのでしょうか? 
3.転じて「負けの美学」の言葉の本質はどのようなものなのでしょうか? 
4.現代の我々はどう捉えるべきなのでしょうか? 
  負けの美学を持つべきなのでしょうか? 

A 回答 (4件)

1)戦国時代だったら事例は山ほどありますけど、典型的な例は、湊川に向かった時の楠正成だと思います。

最初から敗北を覚悟かつ予言して、犠牲者を少なくするために軍勢を最小限に絞って出陣するなど、ここまで「負けの美学」を徹底させた例は戦国時代でも珍しいと思います。また、正成自身、決して情に溺れる人ではなく、政権維持のためには盟友新田義貞の追放も献策するほどの冷徹かつ理性的な面を持っていたのに、敢えて負け戦に臨んだ点も、興味深いです。

2)後世に「名」を残したこと。「上策」として出した新田義貞を追放して足利尊氏と和解する案、「中策」として出した京都を放棄して持久戦に持ち込む案、いずれも全く受け入れられず、最悪である迎撃戦を命令されたからには、命令に従って敗北するか、足利方に寝返るか、二つに一つの選択肢しかなかった訳ですが、前者を、作為的とも言える徹底的な敗者の美学でもって貫くことで、「忠臣」と「名将」の両方の名声を歴史に残すことに成功し、南朝の視点から書かれた太平記、北朝の視点から書かれた梅松論の双方の歴史書で賞賛される唯一の人物となりました。他のやり方では、どちらかを残すことはできても、もう一方を残すことはできなかったでしょう。その意味では楠正成の敗戦は、美学と言うよりもかなり戦略的(「主張」がある)で、この点が非常に面白い。

3)これは、実際には対照的な2つのケースがあるように思います。
一つは「組織のために負ける美学」。このキーワードは、特攻隊の例も含めて、「組織の意思の重視(組織の判断が誤っている時でも、その判断を重んじる)」と「信用の重視(裏切り者・無責任の誹りを恐れる)」の2つではないかと思います。この点は、日本古来の農耕社会(組織社会)の風習がやはり色濃く残っているように感じます。
もう一つは「自分のために負ける美学」。こちらは、むしろ組織の意思に逆らって、それゆえに抹殺される訳ですが、「勝敗は気にせず、自分の気持ちに忠実に自分の思ったことをやる」と言う考え方です。日本では少ないように思えますが、実際には結構あります。戦国時代で言うと松永久秀や真田昌幸なんかはそんなタイプのように思います。
 上述の楠正成に私が感心するのは、彼は彼一流のやりかたで、この両方の美学を同時に達成したような気がするからです。組織のために負けて「忠臣」と言う名声を得、同時に自分のために負けて「名将・気骨者」と言う名声を得ています。こういうケースは結構少ないように思います。

4)「負ける」か「逃げるor裏切る」かの選択を迫られた時に、「負ける」を選択すると言う判断は、多分に個人の価値観の問題が含まれているように思います(どちらが正しいと言う問題ではない)。しかし、「負けの美学」について言うと、勝つために最善を尽くして、それでも負けの選択しかなかった場合にしか、「負けの美学」は発生しないと思います。それ以外は、ただの「惨めな敗北」です。最善を尽くして、それでも勝てなかった幾多の人達に対する人々の思いが、「負けの美学」と言う概念を生んだのだと思います。自分で勝手に負けの美学と決め込んでいても、それが単なる言い訳にすぎない場合は、美は全く存在しません。その点には気を付けないといけないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

楠正成に関しての情報を頂きありがとうございます。
名を残したというのは後世の我々による客観的な評価であり、当人自身は義を通すという事が敗北以上に大事だったから、という事にはならないでしょうか? 大体において名を残す=義を通すという事になると思いますので、義を通すと言い換えさせて頂きます。
他の例に挙げて頂いた方も、敗北以上に尊重すべき意思があったから、敗北を進んで選んだ、という事もできそうです。

それでは義を通したから負けても良いのだ、という一元的な考えは、歴史を勉強して現代の我々にフィードバックする時に、現代社会では通用しないと思うのです。義を通す他にも勝ち負けを重視しなければならない部分も沢山あり、「負けの美学」が尊重される余りに人間の元々の必須機能である生き残りの部分の思想が整理できていないように思われます。

例えば死んで名を残すという事は現代の我々には美しく見えるけれども、これを整理しきれていない所為で安直に死が美と結び付けられてしまっている。最近の自殺が多いのはこの辺の事も絡んでいるかと思うのは飛躍のしすぎでしょうか。新渡戸稲造の武士道の解説が分かりやすくされており、「本当の勇気とは、生きるべき時に生き、死ぬべき時に死ぬ事だ。犬死するなら匹夫にでもできる」としています。
我々はこの辺を整理しなければならないと思うのです。

そもそもが「負けの美学」なるものが本人は決して唱える事はなく、当人でない後世の我々が囃し立てる類のもので、いざその本人になったら「負けの美学で突っ込んで行きます」なんて恥ずかしくてきっと言えないでしょうね。

だらだらと書いてしまいましたが、私なりにまとめると義を通す為に負ける事は正しいと思われるが、グローバルなこのご時世、それでは生き残れない可能性がある、という事になると思います。

私自身も義理を通す為に泥を被った際、それが基で結果何も残らなかった事、却って悪い方向へ事態が進行した事が挙げられ、周囲と調整、同意を得た上で義理を通しても、負けた所で責任を押し付けられて潰される、という事を体験したので、負けの美学なるものを信用できずにいます。

お礼日時:2010/08/22 09:24

>周囲と調整、同意を得た上で義理を通しても、負けた所で責任を押し付けられて潰される



いやあ、これは日本の企業で責任ある仕事を任せられたことのある人間なら、誰しも思い当たる経験があるのではないでしょうか。おっしゃるとおり、なかなかつらいことではあります。

私が楠正成を好きなのは、「義を通した」ふりをして、実際には「意地を通した」のではないかと思える節があるからです。だいたいが「新田義貞を追い出して足利尊氏を迎え入れる」などと言う作戦(しかも足利尊氏との戦いに勝った直後!確かに絶妙のタイミングではあるが・・・)が、当時の南朝政権のぼんくらどもに受け入れられるはずがないことは正成自身も分かっていたはずです。

義を通すだけならそこまでせずとも、ただただ後醍醐天皇の命に唯唯諾諾と従って戦死すればよかったでしょう。しかしそれでは忠臣との評価はついたとしても、足利方の史書である梅松論にまで「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と書かれることはなかったと思います。

正論である自分の意見が凡庸な貴族達に退けられる様を世の人々にまざまざと記憶させ、湊川に向かう時も「この戦い、必ずわが軍は負ける」と予言を残し、史書に書きつけさせての出陣は、あまりに念が入りすぎで、明らかに、自分の判断が正しかったことを、明確に後世に残すために仕組んだものであると私は思います。名を残すとは、「生前に負けても死後に勝つ」ことです。決して単純な「負けの美学」ではなく、自分の死後も自分の名声を巡っての戦いは続くと考え、世の中の大勢が決した時には、自分が正しかったことが誰の目にも明らかとなり、その時には自分が勝者になることを狙った、極めて大きな意図があったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

再度の回答を頂きありがとうございます。
とても勉強になります。

このお題で質問をさせて頂いた生徒の私としては、歴史の教訓から現代に生きる我々に注意、あるいは応用を施して役立てねばなりません。

楠正成の件については義理を通して死後に勝利した件については理解しました。
それでは同じく義理を通した石田三成はどうか、あるいは意地を通したWW2の日本は世界でどう言われているか。

現代の太平記を書くのは現在のメディアを握っている中国人かあるいはユダヤ系の人間であるように思われます。
あるいは、それらのメディアに感化された国民感情が更に悲劇をもたらさないとも限りません。
それに対しての前進的、予防的な対策も打たねばならないと思うのです。

お礼日時:2010/09/11 21:30

>1.「負けの美学」を持って戦った過去事例はどのようなものなのでしょうか?


>これは負ける事が確定したからそう言う事を考えなければならなかった事情が背景にあり、敗北の美学を出す前に、勝つ(あるいは負けない)算段を立てておくべきだったと

WW2のドイツはどうなんでしょうかね。
これらの国に対しては、敗北の美学とやらを出す前に勝つ(あるいは負けない)算段を立てておくべきだったとは言わないのでしょうか?



4.現代の我々はどう捉えるべきなのでしょうか? 
あくまで私の印象ですが、
戦争なら戦後の国民、スポーツなら観客やファンといったように、「負けの美学」を持っているのは当事者ではなくむしろ第三者ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

> WW2のドイツはどうなんでしょうかね。
> これらの国に対しては、敗北の美学とやらを出す前に勝つ(あるいは負けない)算段を立てておくべきだったとは言わないのでしょうか?
全くそうです。

> 4.現代の我々はどう捉えるべきなのでしょうか? 
> あくまで私の印象ですが、
> 戦争なら戦後の国民、スポーツなら観客やファンといったように、「負けの美学」を持っているのは当事者ではなくむしろ第三者ではないでしょうか?
そうですよね。
スポーツであれば尚更、本人は負ける事を想定してやっていないですから。
質問の方にも書きましたが、
・主観的観測だと「負けの美学」
・客観的観測だと「グッドルーザー」
でまず分かれて、かつ、第三者があの選手はグッドルーザーだと言っているのはまだしも、やっている本人が「負けの美学」を持つのもなんだかおかしな話しであるし、尚且つそのような事を認める世の中の空気もおかしいと思うのです。

お礼日時:2010/09/11 21:13

「勝ち負け」の概念じゃないんじゃないかなって思います。

「白黒」の概念だと思います。日本人は、今も昔も白黒はっきりとつけるのが苦手ですよね。

「坊っちゃん」か何かに、陸上競技をやっている場面がありまして、それを見た主人公が「ただかけっこをしてしかも順位をつけて勝った負けたとやっている。なんとくだらなくて卑しいものだ」と陸上競技を全否定しています。明治の人たちの多くの価値観ではなかったかなと思われます。どうも当時の人たちは順位をつけたり勝った負けたとやるのが非常に嫌だったようですね。
明治時代から大正時代にかけて、「野球害悪論」というのがありました。野球というスポーツはそれが広まっていく過程で、かなりバッシングを受けたのです。その野球害悪論者の言い分というのが、野球というのは勝敗をつけるものであるから、ということです。
どういうことかというと、勝ち負けだけを目的としている野球を青少年がやっていると「勝てばいい」とか「勝つためならなんでもやっていい」という考えを持つようになって教育上よろしくない、と。本来こういったものはその競技を通じて自らの人間性を高めることがその本質であり、その点勝ち負けで判断する野球というものは害悪である、というものでした。
私は剣道は全く知らないのですが、やっていた人から聞いたのですが剣道はやはり人格鍛錬が今でも主であり例えば試合に勝ったときに思わずこぶしで小さくガッツポーズを取っただけで反則負けになるそうです。

神風特攻隊(自爆攻撃隊)についていえば、そこはちょっと違うと思います。当たり前ですが、本当は日本軍とて自爆攻撃なんてバカバカしいことはやりたくなかったのが本音です。だけど、南太平洋海戦以来ベテランの航空隊員を失った日本軍は最早米軍に対し有効な打撃を与えられなくなったんです。そこで、なんとかして敵に爆弾を当てられないかと悩んだ末に自ずと出てきたのが自爆攻撃です。本当はドイツ軍みたいに誘導爆弾とかしたかったところですがそんな技術も金もなかったんです。
それで、半分ヤケで神風特攻隊をやってみたところ、これが期待以上の大戦果を挙げたのです。一方、今までどおりの攻撃法での攻撃隊は全く爆弾を当てることができなかったんです。それで、なにかが壊れたというかもう一線を越えちゃったというか、ええいもうこれしか方法はないからこれでいこうとなったのです。沖縄戦の頃には米軍も対策法を編み出して神風特攻攻撃でさえ米軍にはほとんど打撃を与えられなくなっていました。でも、辞められなかったのです。なぜなら他にもう手段が残されていませんでしたから。
これはまた別の機会があればゆっくり書きたいのですが、個人的な考えですが、日本人は逆境にメチャクチャ弱いんです。逆境に立たされると思考停止してヤケクソでおかしな行動をしちゃうのです。いわゆるバンザイ突撃なんかも米軍にじりじり攻撃されるというストレスに耐えられなくて「どうせ死ぬなら、もうパーッと突撃して死んじゃおう」っての行動と考えるのが実態に近いと思います。

太平洋戦争に進んだのも、「負けてもいいから・・・」ではなく、海軍も陸軍も膨大な国家予算を与えられてあれだけの軍事力を持っていながら戦わずしてアメリカに降伏したら国民に説明できないという事情が大きかったと思います。だから、あまりよく考えずに真珠湾攻撃という大バクチ作戦に出ました。あれは「俺ァ海軍辞めたらモナコに行ってバクチ打ちになるんだ」と常々言っていたという山本五十六だったからこそできたギャンブル作戦ですよ。

つまり「敗者の美学」なるものは、勝敗そのものに価値を置かないからこそでてきた価値観だったと思いますよ。基本的な考え方として勝つとか負けるとか、どうでもいいんです、日本人には。
赤穂浪士の討ち入りを、陽明学の見地から批判した人たちがいます。それは、「主人が殺されて悔しいと思ったら後先考えずに即討ち入れ」というものでした。「でも、それじゃ失敗するかもしれないじゃん」という指摘には「失敗とか成功とかそういうことを考えることがやましい。それは商売人と同じだ。悔しい、その思いをストレートに行動に移してこそそれは昇華される。成功するか失敗するかというのはあくまで結果に過ぎない」と反論しました。ここの成功、失敗を、勝利、敗北に書き換えると質問者さんも日本人として理解しやすいのではないかと思います。
この陽明学の「知行合一」の思想は日本人の性に大変合っていたようです。幕末の志士に大いに影響を与え、明治以降も多くの軍人、財界思想人に影響を与えあの三島由紀夫の最後もこの知行合一の実践だったといえます。

この回答への補足

御礼遅くなり、大変申し訳ありません。
回答頂きありがとうございます。

坊ちゃんの件と、明治の頃の勝敗を明確につける風情は無かったとのお話しは分かったのですが、囲碁・将棋などはどうだったのでしょうか? 

> 自爆攻撃なんてバカバカしいことはやりたくなかったのが本音
確かにその通りだと思います。
現代において特攻を焦点にして戦争を考える際の一番の問題点は政治力、外交力で戦時情勢を乗り越えられなかった点にあると思われます。
結果論ではありますが、高橋是清が日露戦争でやった事と、東条英機が精神論で突き進んだ事は結果は勿論イコールではありませんし、かつプロセスもイコールではない。
(ロビー活動の有無が明暗を分けたのが一因と言えなくもないと思います。)
「敗北せざるを得ないが誇りは保て」という思想により、戦中世代は苦渋を舐めた。

> 日本人は逆境にメチャクチャ弱いんです。逆境に立たされると思考停止してヤケクソでおかしな行動をしちゃうのです。いわゆるバンザイ突撃なんかも米軍にじりじり攻撃されるというストレスに耐えられなくて「どうせ死ぬなら、もうパーッと突撃して死んじゃおう」っての行動と考えるのが実態に近いと思います。
これは私は現在の所、不同意です。(非難している訳ではありません)
どうせ死ぬなら、という思考は海外でも見られるように思います。
アフリカでアメリカの傭兵部隊が行動する時、一人がケガをして動けなくなってしまった。一緒に行動するにはもう足手まといだし、かと言って置き去りにすると、敵側の捕虜になった後での鼻、耳をそぎとり、目をくりぬくなどの過酷な拷問が待ち受けている、ならばここで殺していく、という話しがあったのですが、もううろ覚えで出典を思い出せません。フィクションだったかも・・・。
あとはテルモピュライの戦いでしょうか。
歴史については浅学なのですが、玉砕なる精神は日本特有のものではないように思われるのです。
ただ、数量的不利なのにも関わらず、勝利を収めているケースでは玉砕などではなく、あくまで理知的な計算に基づいてロジカルに行動したケースに限られるように思われます。

> 太平洋戦争に進んだのも、(中略)という事情が大きかったと思います。
そうなのですね。勉強になりました。ありがとうございます。

>つまり「敗者の美学」なるものは、勝敗そのものに価値を置かないからこそでてきた価値観だったと思いますよ。基本的な考え方として勝つとか負けるとか、どうでもいいんです、日本人には。
ズバっと言って下さり、大変面白く読ませて頂きました。
私なりに言い換えさせて頂くと、「誇り」「精神論」「人間としての美しさ」「日本人の意地」が勝敗よりも優先された結果、敗北を招いてしまったと。三島氏の行動もこれで説明がつきます。石田三成もこの部類に入るかな? 計算違いもあったでしょうが、結果的には義理を通して敗北してしまったので。
また、家康は逆の部類、つまり敗北に耐えて耐えて卑怯な手を使ってでも実質的な勝利を収めた。
そうした分類の中、日本人は実質的に成功する家康タイプと義理を通すけれども負ける三成タイプのどちらを選ぶべきかと言えば、答えは自明のはずが、義理を通したり誇りを優先してしまう人間が多いように思います。

ここに日本人の思想的な課題があるんじゃないかと思いました。
中国、韓国、北朝鮮に外交が譲歩しているのも日本のそうした国民感情を逆手に取られた(過去の日本は酷い事をしたと喧伝しているやつです)も根は一緒で、今後の思想・イデオロギー的課題になるのでしょうね。

補足日時:2010/09/11 21:03
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この回答へのお礼

遅いレスポンスで大変申し訳ありませんが、日本での競争なるものがどういった形で認識されていたのか興味深い事例があったので、御礼欄に記載させて頂きます。

福沢諭吉の「福翁自伝」の王政維新から引用します。
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私(福沢諭吉)がチェーンバーの経済論を一冊持っていて、(中略)今で申せば大蔵省中の重要職にいる人にその経済書の事を語ると、(中略)ぜひ見たいと所望するから、早速翻訳するうちに、コンペチションという言語に出遭い、色々考えた末、競争という訳字を造り出してこれに当てはめ、(中略)これを見せたところが、(中略)「イヤここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない、ドンナ事であるか」「どんな事ッてこれには何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、隣でものを安く売ると言えばこっちの店ではソレよりも安くしよう、(中略)互いに競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利もきまる、これを名づけて競争というのでござる」「成程、そうか、西洋の流儀はキツイものだね」「何もキツイ事はない、ソレですべて商売世界の大本が定まるのである」「成程、そういえば分からないことはないが、なにぶんドウモ争いという文字が穏やかならぬ。これはドウモ御老中方へごらんに入れることが出来ない」と、妙な事をいうその様子を見るに、経済書中に人間互いに相譲るとかいうような文字が見たいのであろう。
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大阪の商人の皮膚感覚を身に着けていた福沢諭吉と、侍の気風を備えていた幕府の役人の感覚が錯綜していて大変面白いのですが、ここから見ると当時の日本人の全てがそうした「勝負、競争は下らん」と思っていた訳ではないようです。

「西洋の流儀はキツイ、東洋(日本)が普通だ」と言う幕府の役人と、
「何もキツイ事があるか、これが普通だ」という諭吉。
もっと言えば、
「争うのは普通ではない」という侍と「争うのは普通だ」という商人の考え方の対立となります。

御礼と補足が逆になってしまった感がありますが、このQAの今後の参考テキストとしてここに記載させて下さい。

お礼日時:2010/09/20 18:18

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