織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。
サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

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A 回答 (3件)

質問者様の意思を尊重して回答します。

あいまいですが、ご了承ください。

☆織田信長
貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
戦国時代を終わらせたという功績。

すべては家康で終息しています。
脱線しますが、家康が「本能寺の変」の主犯格との一説もあります。
家康のブレーンに「天海」という人物がいました。
「天海」=「明智光秀」という説があります。明智光秀は生きていたという説です。

歴史に「たら」「れば」はないですが、織田政権とあるいは豊臣政権が続いていたらどうなっていただろうか?と思うとさらに興味が湧いてきます。
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織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川

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同じ事をしたわけじゃないから「比較」は無理ですよ。


それぞれの功績なら、いくらでも資料がありますし。

どの部分がわからないと、ピンポイントで質問すれば、回答がつきやすくなりますよ。
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Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q織田信長、羽柴秀吉、徳川家康のガチシーン

ガチでヤバかった戦のベスト3を教えてください。

※当人が参戦したものに限る
タイムリーな説明あれば嬉しいです

ちなみに・・・・・・

織田信長
1位 本能寺の変 (というか死んでいる) 
2位 金ケ崎の逃げ (雑賀孫一により足に銃弾浴びたとか?)
3位 姉川の戦い (13段構えなのに恐ろしい)

羽柴秀吉
1位 金ケ崎のシンガリ、大逃げ(死を覚悟してたらしい)
2位 山崎の合戦 (戦場に着くまでのハラハラ感)
3位 小牧・長久手の戦い (家康やっぱりつおい)

徳川家康
1位 武田信玄チームと戦いクソ漏らした時のやつ (絵とか書いてもらった)
2位 関ヶ原の戦い(秀忠がまだこないと知った瞬間)
3位 大阪・夏の陣(真田が突っ込んできた時間帯)

当ってます??

回答、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

では補足を
この辺は私の一番の得意分野でして


実は家康は大阪夏の陣で死亡していた
という説が最近は通説になりつつあります
実は大阪の南宗寺という寺に家康の墓があるのです
大阪夏の陣で決死の攻撃を仕掛けた後藤又兵衛から逃れるために
家康は葬儀の棺に入って逃げるのですが 怪しんだ又兵衛に棺を槍で突かれ
南宗寺にたどり着いて絶命したそうです

ただ 真田幸村の壮絶な戦いぶりが徳川家で語り草となったので
幸村に追い詰められた と現代に伝わっているようです

実際家康は大阪の陣後消えました
影武者が現れたんですね
小笠原秀政という人物が替え玉だと言われています

秀忠と家光も南宗寺に参拝しているし
歴代将軍が何故か後藤又兵衛の墓にも参っているのです

Q織田信長と徳川家康の弱点

織田信長と徳川家康の弱点を教えてください。
学校の授業で、討論をします。
私は、豊臣秀吉派です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信には強攻策を出さない代わりに、弱い大名や烏合の衆である百姓一揆、非戦闘員に対しての無差別の虐殺を多数行いました。それだけでなく、神仏を破壊し続け、将軍だけでなく天皇をないがしろにすることはなはだしかった等々の記録が多数残っています。それだけに留まらず、部下に対しては恐怖政治を行い、吝嗇家(ケチですね)であったようです。
 その結果、当たり前ではありますが、多数の人に恨みを買いまくり、非業の死を遂げました。自業自得ですね。

 秀吉はひょうきんで人に愛される人柄で、工夫上手であったことから、一介の農民から前代未聞の出世を遂げました。しかし、本人は名も亡き家出身ということを常にコンプレックスを持っていました。将軍になりたかったのに、それができなかったのは家柄のせいですね。実績は問題ありませんから。
 一番人気のある人に思われることが多いですが、それは太閤記という御用作家の書いた書物(曲げられて書かれた事実)と、没後十数年で豊臣家が滅亡したことに対しての同情があったものと思われます。
 この人の欠点は、やはり家柄コンプレックスだったと思われます。自分の出身階級である農民層に対する虐殺や、農民を非人間的目的で使った戦闘などの記録が残っています。また、全国統一した後に、信長の夢であった朝鮮・中国(明)支配目的とした出兵を行ってしまったこと・・・これは許されることではありません。これにより、戦乱で疲れていた国内はますます疲弊し、豊臣家の支配に対する疑念を各大名に与えることになりました。また、晩年は一子秀頼のことしか頭になく、為政者としての責任を果たしたとは言えなかったと思います。

 最後に家康ですが、幼年時より苦渋の人質生活を余儀なくされ、そんな中で強いものにうまく巻かれる生き方を学び、信長の同盟者として、秀吉の同盟者として、難しい時代を生き抜きました。この忍耐力はまことにすばらしいでしょう。大器晩成の見本のようです。
 豊臣秀吉の没した直後は、一応の天下統一が成った後とはいえ、まだ安定とは程遠い時代でもありました。そこで五大老の筆頭という立場にいながら、豊臣家家臣に相互不信の種をまき、戦乱で疲れた日本に、無駄な戦乱を起こしました。関が原の戦いや大阪の陣は、日本一の所領を持つ家康にとっては、避けて通れたものであったと私は考えます。家康が、そうまでして豊臣家を滅ぼしにかかったのは、「徳川家が政権をとる形で平和な日本を作ること」であって、「日本を平和にできるのなら、誰がそれを行ってもかまわない」という民百姓の心とは無縁なものでした。
 その証拠に、信長が実行して秀吉が模倣した民百姓への仕打ちを継承し、「民は生かさず殺さず」という江戸時代が出来上がっていったのです。戦乱の収まった平和な時代に士農工商制度が必要だったとは私は思いません。大勢の貧しい人の上にあぐらをかく武士、その上で更にのんびりしている将軍・・・そういった中で、民衆に不満が溜まり、いくつかの乱に発展したと思われます。
 また、徳川家の政治をひっくり返されることを恐れての鎖国政策もうなずけません。これがあったからこそ、明治の幕開けで、日本は西欧諸国に大きな遅れをとるのです。そして、その遅れが焦りにつながり、西欧諸国に負けないような国になろうと奔走した結果、朝鮮や中国への出兵となり、暴走した軍部がアメリカに戦争をしかけて敗戦となるわけです。
 敗戦の責任が徳川だけにあるとは言いませんが(笑)。

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信に...続きを読む

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q織田信長と豊臣秀吉の弱点

織田信長と豊臣秀吉の弱点を教えてください小学校6年生の宿題です。調べてもわからず、困っております。

Aベストアンサー

織田信長の弱点。
近畿・東海地方を平定した段階に於いて
自信家になってしまった。
自分は他を裏切ることはあっても、部下は
絶対に自分を裏切るはずはないと思ってしまった。
その油断が、僅かの兵しか連れずに京へ入る
事となり、本能寺の変を招いた。

豊臣秀吉の弱点。
卑しい身分から、成り上がったまでは良かったが
家歴代の家臣というものがおらず、常に損得勘定で
人を引きつけておくしかなかった。
領地には限りがあり、これが朝鮮へ出兵する遠因と
なった。
晩年近くになって実子が出来たが、それを守るべき
親戚がいなかった事が、豊臣家崩壊の原因となる。

共通する弱点。
いずれも、天下を取るという意識は旺盛であったが
天下を取ったあとの政治という面での意識が希薄で
あった。

したがって信長は本能寺の変が無くとも、織田家の
天下は長続きしなかったと思われる。

秀吉も、実子秀頼が成人の時まで存命していたと
しても、豊臣家の天下は長くは続かなかったと
思われる。

後の天下人、徳川家康との決定的な違いかと思います。

以上、お粗末な講釈で失礼しました。

織田信長の弱点。
近畿・東海地方を平定した段階に於いて
自信家になってしまった。
自分は他を裏切ることはあっても、部下は
絶対に自分を裏切るはずはないと思ってしまった。
その油断が、僅かの兵しか連れずに京へ入る
事となり、本能寺の変を招いた。

豊臣秀吉の弱点。
卑しい身分から、成り上がったまでは良かったが
家歴代の家臣というものがおらず、常に損得勘定で
人を引きつけておくしかなかった。
領地には限りがあり、これが朝鮮へ出兵する遠因と
なった。
晩年近くになって実子が出来...続きを読む


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