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歴史上、不当に評価が低い人って誰だと思いますか?


☆不当に低そう

井伊直弼 勝海舟と同じで、現実が見えてた人。

伊藤博文 朝鮮支配の黒幕みたいに言われているけど、死んだとき財産残さないほど無欲



★不当に高そう

源頼朝 鎌倉に引きこもり。

足利尊氏 超裏切り者。

ピタゴラス ピタゴラスの定理は仲間が見つけたらしい


?評判どおりの悪人?
ヒトラー
スターリン
ブッシュ
金正日



悪く言われている人の心温まるエピソードとか、あったら教えてください!

A 回答 (6件)

不当に低い評価を受けている例は、平清盛。



私は常々、源頼朝を日本の最大の政治家だと思っておりました。何故なら、彼はそれ以前の約5百年にわたっての中央集権制度の日本での実験の失敗を鑑み、どこの国からも教わることなく、幕府制度と呼ばれる封建制度を作り上げた人だからです。

人類史的に見ても、ここ2千年程の歴史の中では、国の安定期に封建制度で行って来たのは西欧と日本の二ヶ所だけです。後は皆中央集権制度でした。そして、このニヶ所だけが近代の産業革命および資本主義制度を優等生として立派にやり遂げたのですから、封建制度がどれほど重要な制度であったか説明する必要すらないでしょう。事実、資本主義制度の根幹は私有財産制ですが、この概念は全ての物が国王あるいは皇帝と言うたった一人の人間に属する中央集権制度では発達しようがありませんでした。その反対に、地方の各豪族のまとめ役として将軍と呼ばれる王の王を頂く封建制度では、少なくとも各豪族には土地と言う私有物があるので、この私有財産制の概念が高度に発展できたのです。因に、どんな国でも私有財産制が重要であると気が付くと、それを憲法の中に成文化するものですが、人類史の中でそれを最初に成文化したのは鎌倉時代の貞永式目だそうです。そこでは私有財産制という言葉は使われていませんが、それを「本領安堵」という言葉で表しています。西洋がこの概念を憲法に成文化するのはそれよりも数百年後です。

だから、この封建制度を考案した頼朝に勝る人が日本に他にいたとはとても思えませんでした。ところが、明治時代の在野の歴史学の巨人山路愛山の『源頼朝』を最近読んで、実はこの頼朝の制度の根幹はほとんど清盛によって考案され、その一部も既に実行されていたことを知りました。清盛は戦争に負けた側だったので、歴史では何時でも起こるように、戦争に勝った側が負けた側を糞味噌に喧伝して国民を洗脳してしまうので、こんなに重要なことをやった清盛が不当に貶められているようです。『平家物語』の清盛はケチョンケチョンでしたからね。

たとえば、私は何故清盛が突然福原の遷都をしたのか解らなかったのですが、愛山に言わせると、実は福原は清盛の根城であり、それは丁度頼朝の鎌倉みたいな物だったそうです。木曾義仲の失敗でも解るように、京都は南都北嶺に挟まれ、軍事的な根拠地としては最低な立地条件だった。それを清盛は十分に認識していたので、自分の根拠を福原に持っていたのだそうです。だから源氏に脅かされた時に、福原の遷都を実行した。運悪くそれは失敗してしまいましたが、その判断に清盛の軍事的天才が見え隠れしてます。そして愛山よると、頼朝はこの清盛の天才的判断を理解し、鎌倉に居を求め、決して京に移ろうとはしなかったとのことです。もしのこのこと京に出て行ったら木曾義仲の二の舞を踏んでいたでしょう。その他、清盛は将軍にはならなかったけれども、豪族をまとめる王の王という立場を既に築き始めていた。これを上手に模写したのが頼朝だそうです。

このように考えると、戦争で負けた側の指導者はたとへ賞賛すべき善政を施したとしても、戦勝者から貶められて糞味噌に言われてしまうようになる。だから、実はA級戦犯の日本の曾ての指導者達も不当に低く評価されている可能性だってそう簡単に否定できないかもしれませんね。その反対に、戦勝者の側では、凡夫でも英雄であるとの大宣伝が出来るので、不当に高く評価されることが日常茶飯事に起こっているようです。


そんな例の一つとして、江戸末期から明治初期に日本に滞在した英国の外交官アーネスト・サトウの書いた『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の明治天皇に対する記述は参考になると思いますよ。
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この回答へのお礼

平清盛って、すごいですよね。

遷都とか日宋貿易とか、いろいろやってます。

よく、平家は貴族政治の延長(朝廷から官位をもらう)で、源氏は武家政治を確立した(独自の役職・任命)って言われますが、
武家政治の始まりは清盛なんですね。

本領安堵と私有財産と資本主義の話も、勉強になりました!

お礼日時:2011/01/19 00:45

西太后。


昔の映画で政敵である別の妃の手足を斬ってカメに入れるシーンがあるんですが、あれはフィクションと言われています。
しかし息子の妃である珍妃を井戸に落として殺させたのは本当ですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA% …

無茶そうなわりには半世紀も権力を維持出来てますし、当時の女性の中では学問のあった人だそうです。名君ではなかったかもしれませんが、悪女のイメージを強められている人のようです。
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この回答へのお礼

井戸に落とすのもかわいそうな気がします・・・

西太后って、お城の中での争いとかにはすごい能力を発揮するけど
国の全体をみた政治とかはできない人って感じがします。
でも、時期が悪かったかもしれないですね。

お礼日時:2011/01/19 00:50

不当に高く評価されているのは、リンカーン。



私自身アメリカに住んで居りますが、その経験でもアメリカで一番人気のある大統領は、やはりリンカーンです。アメリカは理念優先の国であり、現実には関係なく、理想的なことを言った人が大変人気があります。リンカーンは奴隷解放と言う理念を前面に出して南北戦争を戦い、そしてその戦争に勝った側の大統領でした。だから、アメリカ人から見て素晴らしい大統領だと言うわけです。

ところが一歩下がって、もっと冷静に考えてみましょう。奴隷解放のためには本当に戦争しか方法がなかったのでしょうか。例えばヨーロッパでも奴隷はおりました。しかし、その解放の時に戦争は起こっておりません。ヨーロッパの多くの国ではその解放のために、奴隷所有者たちからその奴隷を国が先ず買い上げました。そして、その人達を買い上げた後、自由にしたのです。それには大変なお金が掛かりましたが、それをヨーロッパ人はやったのです。

ところが、リンカーンは多大なお金が掛かることを危惧して、南部の奴隷所有者達からいきなり奴隷を取り上げてそれを自由にしようとしたのです。これじゃ、南部の人達に取っては自分たちの財産を盗む泥棒と同じだと思われてしまいました。だから、南部の人達は命をかけて自分たちの財産を守るべく戦ったのです。その結果戦死したアメリカの若者の数は62万人に上り、未だにアメリカの戦没者の数で最も大きな犠牲を払った戦争でした。

150年経った今でもその戦争の痼りが残って居り、それに掛かっている無駄な費用は今でも大変なものです。それにも拘らず、黒人男性の4.8%が現在服役中であり、白人男性の受刑者0.7%と比べてその7倍もあります。これは全男性に対しての割合ですから、現在20~30才代の人達では3人に1人ぐらいの割合で黒人男性は牢屋に入っているのです。ですから、リンカーンの奴隷解放は完全に失敗して居ります。

それにも拘らず、リンカーンはアメリカの英雄です。その理由は上にも書きましたが、戦争に勝った大統領であったこと。そして、大統領就任中に若くして暗殺されたこと。その上実態は兎も角、「人民の人民による人民のための政治」なんて、言っていることが理想に燃え、とってもカッコいいからです。

若い人は、言っていることの理想につい感心してしまいますが、それを実行するには大変な洞察力がいる。だから、理想的に見えても、それを短絡的に実行すると、とんでもないことになってしまうのです。その具体的な例がリンカーンのやったことです。それを見抜けたヨーロッパの人達は、確かに始めはお金が掛かり過ぎるように見えましたが、長い目で見て、アメリカとは桁違いに安上がりに問題が解決できたのです。

以上の主張は、私が言い出したことでは在りません。アメリカ内部でもごく少数派の人達はそのことを言っているのですが、何せ自分たちの英雄にケチをつけられるのは皆大嫌いですから、ヨーロッパの歴史と比べたこの冷静な分析を、アメリカのマスコミも国民も受け入れようとはしていないようです。
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この回答へのお礼

南北戦争は、本当は奴隷のためというより、
関税をかけて、ヨーロッパから自立するっていう
経済的な理由が原因だったって聞いたことがあります。
建前と本音ですね。

お礼日時:2011/01/19 00:38

不当に低いというか、無視に近い扱いを受けているのはやはり豊臣秀長でしょうなあ。

というより、自らの存在を黒子に徹したという賢明さがすごいと思います。秀長死後に豊臣政権が急速に迷走し始めた辺りが秀長の存在の大きさを物語っていると思います。家康がブレーンでさえ役割に応じて使い分けていた(天海や本多正信など)のは豊臣家を見ていたせいかな、とも思います。
あと、最上義光。地元山形じゃ名君です。何が悪いって、そりゃあの大河ドラマ「独眼流政宗」の青年時代の渡辺謙演ずる政宗と好対照を成す原田芳雄の上手すぎる怪演が影響しているでしょう。当初のキャスティングの予定は松田優作だったとか。んー、松田優作だったらどうだったんでしょうね。しかし、松田優作の遺作「ブラック・レイン」の悪役の怪演ぶりを思うと・・・

不当に高い人の筆頭は、んー、やっぱり2011年時点では龍馬さんでしょうか・笑。
「日本を今一度洗濯し申し候」は彼一流の大言壮語で、彼自身どうしようというプランも特になく割と思いつきで言ったんじゃないかと思います。ただし、そういう大言壮語をさらっといえるあたりが彼の憎めないところでもあると思います。結局彼がなにをやりたかったのか、志半ばで倒れたのが幸いしたのでしょうね。私は彼がやりたかったのは財閥で、岩崎弥太郎が彼の立場になっていたのかなと思います。そしてもしそうなっていたら、商人として名を残していたので福山さんが主演することもなかったでしょう。
同じ幕末がらみでは、土方歳三さんもそういう一面はあるかと。イケメンだから評価されていますが、ありゃあ田舎の農民が新しい時代が始まろうってのに武士になりたいと時代遅れなことを言い出して、やったことは警備員という名の暴力団でしたからね。
ただし、新撰組崩壊から五稜郭の戦いに至るまでの歳三さんは人間的にとても大きく成長したらしく、五稜郭の戦いのときに旧幕府軍の兵士が新政府軍の兵士の遺体に辱めをしたそうなんです。それで、それを礼に反すると咎めた兵士たちと辱めをした兵士たちとの間で仲間内でものすごい対立になったそうです。そこに歳三さんが現れて「遺体に手を出した胆力はたいしたもんだし、それを咎める勇気も偉いもんだ」といって見事に丸く納めてしまったそうです。五稜郭の戦いは旧幕軍兵士は誰もが「もう勝てない」ことは分かっていたそうですが、それでもあれだけ粘り強く戦えたのは「土方の指導の賜物」と旧幕軍の生き残りはみな口を揃えたそうですよ。もし彼が生き残って日清戦争や日露戦争を指導してたらと思うと興味深いですね。
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この回答へのお礼

豊臣秀長ってぜんぜん有名じゃないですよね。
教科書にも載ってなかったような気がします。
でも、すごい人だったんですね。
兄弟そろって優秀ですね。

最上義光も有名じゃないですよね。
なんか怖そうな東北の戦国大名ってイメージしかありません。
ドラマの影響って大きいですね。

私は、坂本竜馬がすごく好きなんですけど、
過大評価も大きいかもしれませんね。
身分が低い + 先進的 + 大胆 + 出世に興味ない + 晩節を汚さない
英雄の条件を全部集めたような人だとは思います

新撰組の人は、明治まで生き残れたら、立派な軍人になってそう。

お礼日時:2011/01/19 00:27

面白いテーマですね。



●田沼意次 = 江戸時代に老中となり「田沼時代」を築き上げた人物。息子は意知。田沼=収賄・贈賄という悪いイメージしか教科書には出てきませんが、相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、防火対策(相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している)、殖産興業などきわめて正統的で当を得た施政を行っています。干拓事業にも熱心で実際に印旛沼干拓政策を行いましたが、その結果生まれた好景気で、賄賂の横行が始まったのもまた事実です。しかし実際の田沼は、土地政策通で数々の功績を挙げています。


●吉良上野介 = 忠臣蔵では徹底的に悪役とされる人物ですが、領地三河国幡豆郡では、1686年に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、地元では今でも「吉良公」と慕われています。吉良町には赤馬という郷土玩具がありますが、これは上野介が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされています。


スターリンについては、こんなエピソードがあります。

彼は独裁者であるが故に暗殺を極度に恐れ、本当に信頼のおける側近のみしか自分の部屋・寝室に近づけさせなかったといいます。ところがこれが災いし、スターリンは就寝前に脳卒中に襲われてしまい、朝まで誰もそれに気付けなかったという事です。朝になっても起きてこないスターリンを心配した側近が部屋に入ったところ、本人が倒れており、急いで医師を呼んだが手遅れだった、という話しです。その時、その死を確認した側近の1人が「独裁者が死んだ!独裁者が死んだ!」と小躍りして喜んだというエピソードです。
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この回答へのお礼

田沼意次は、できる政治家って感じですね。
その後の寛政の改革はどうしようもなかったらしいから、
松平なんとか(忘れた)は、政治と金だけを追求する、無能な政治家って感じだと思います。

吉良上野介は、地元では人気者なんですね。

スターリンが、部下を信じてたら、すぐに医者にかかれて
寿命がのびたかもしれないですね!

お礼日時:2011/01/17 23:28

中国史だと傑・紂は悪く言われすぎているというはなしがありますね。


傑は夏王朝最後の王である傑王、紂は殷の最後の王である紂王で共に暴君の代表のようにいわれてますが、実際はそうでもなかったとか。

不当に高く評価されてるのは諸葛亮孔明。
必ずしも演義の影響ということではなく、蜀滅亡後の早い時期から孔明伝説はかなり広まっていたようで、歴史書の「三国志」を書いた陳寿は孔明を貶めたとして清代まで悪く言われつづける羽目になりました。
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この回答へのお礼

いつの時代でもそうですが、
とくにほかに歴史書が残っていない古代は、
言ったもの勝ちの勝者の歴史になりやすいですね。

それと、諸葛亮孔明ってなんで天才だって信じられているんだろう?
もっと、戦争でも政治でも文学でも、立派な業績を残した人たちがいるのに???

お礼日時:2011/01/17 23:20

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