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はじめまして。


孝徳天皇が飛鳥と難波宮を行き来し
天智天皇は飛鳥→大津宮
天武天皇は大津宮→飛鳥浄御原宮
持統天皇は飛鳥浄御原宮→藤原京
元明天皇は藤原京→平城京
聖武天皇は平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京
桓武天皇は平城京→長岡京→平安京

この間わずか150年です。
何故こんな短い間に、各天皇はこうも慌ただしく遷都に遷都を重ねたのですか?
なるほど天武天皇などは壬申の乱の影響もあったかもしれません。
ですが他の天皇たちにはいったいどのような理由がったのですか?

A 回答 (5件)

ん・・・なるほど・・・おそらく孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇らは特にそこまで大きな理由はないと思います。

まぁ、言っちゃえば、「さっぱり」したかったから。
たとえば、あなたも勉強をしていて、何時間も何十時間もしちゃって、その場に居続けると疲れちゃうでしょ?そしたら、「ちょっと場所変えて勉強しよう」って思い、家から図書館、図書館から塾などのように移動すると思います。まぁ、もちろんそれが全部じゃないとは思いますが、そのように新しい天皇になるということは政治の色も変わるはず。そこで、「よし!じゃあ、さっぱりしよう!」と思い、遷都を繰り返したのです。もちろん、元明天皇のときは始めて都を中国の「長安」に習ったため、都を大変革をせざえるなく、「よし!じゃあ、作っちゃえ~!」っていうような理由で作っただろうし、天智天皇のときは「白村江の戦い」に負け、これから新羅や唐に攻められる恐れがあり「やべ・・・拠点変えて守らなきゃ・・・」って思ったのもあるでしょう。でも、まぁ、これらは・・・ね?あまり気にする必要はないとは思いますが。

ただ、聖武天皇と桓武天皇だけは違います。こいつらは大きな理由があるので、今からそれをご説明します。

<聖武天皇>

聖武天皇のご時世、なんと四回も遷都をしていますよね?なぜなのかというと・・・これはある乱が原因です。その乱というのは何なのかというと・・・「藤原広嗣の乱」が原因でした。この「藤原広嗣の乱」とは一体どういうものだったのか?

天皇が聖武天皇になったとき、時の政権は皇族出身である「橘諸兄」という人物でした。それまで、聖武天皇のときの政権は「藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」だったのですが、彼らは天然痘で次々と病死(これは前の政権で、藤原四子によって自殺に追い込まれた「長屋王」という人物の怨念だといわれました)したので、藤原氏の勢力が一時後退したのです。
そこで政権担当になったのが、「橘諸兄」です。彼はもっと都を繁栄させたい、でも僕知識が足りない!ということで、当時唐から帰国した「吉備真備」と「玄坊」という人物を登用したのです。彼らは中国のことも詳しかったし、どのようにすれば都が唐のように繁栄するかをよく知っていたので、とても大活躍しました。
ところが、これに不満を持った人物・・・そう!先ほどの「藤原広嗣」です。彼は誰なのかというと、先ほどやった「藤原四子」の中の一人「宇合」の息子さんでした。彼は当然、このことを面白くないと思っていたのです。何で?だって、つい数年前までは「藤原氏」が政権を握っていたのに、それを「橘諸兄」にとられた上に唐から帰ってきてちょっと物知りな「吉備真備」と「玄坊」が政治で活躍しているからです。そこで、彼は「吉備ちゃんと玄ちゃんって、ちょっと唐から帰ってきて物知りだからっていって、政治のトップにいるけどさ~!実際は何の役にも立たないジャン!あいつらを排斥してよ~!」といって、「大宰府」で反乱を起こしたのです。まぁ、それでも鎮圧されちゃったので、残念ながら藤原氏はもっと政界から退くことになったのです。
しかし、ここで一番驚いたのは、誰か?それが「聖武天皇」です。実は「藤原広嗣」と「聖武天皇」は近い親戚関係にありました。「ま、まさかおじさん(いとこ?)が僕に向かって反乱してくるなんて・・・怖いよ~!」って言って、精神的に不安定になってしまったのか、聖武天皇は恐ろしくなって都を出て行ってしまったのです。親戚が乱を起こしたことがよほどショックだったらしく、その後も落ち着くことができなく、何度も遷都を繰り返した後、結局もとの平城京に戻ったんですけどね笑。みんなからしたら「そりゃないぜ~!」って感じだったでしょう。
もちろんその中で、疫病や飢饉もありそれを全般含めて「社会的不安」が聖武天皇を遷都にいたらす要因となったのです。その結果、彼は仏教によって国を守ろう!いわゆる「鎮護国家」というのに目覚めて「みんな~!大仏作ろうぜ!寺作ろうぜ!」って言って、「大仏建立の詔」や「国分寺建立の詔」を発布したのです。
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この回答へのお礼

みなさま、ご回答ありがとうございました。

非常に分かりやすく、とても参考になりました。
ご回答いただいた内容を頭に叩き込んだ上でもう一度学習をしようと思います。

お礼日時:2011/02/05 05:23

基本的な考え方として、都を定めそこに都市を開発し発展させていく考え方自体遣隋使遣唐使が持ち込んだものです。


それ以前は代が変わるごとに権威付けのためにあたらいい宮を建設するのが普通の考えなのではないでしょうか?
そもそも天皇になり都に入るのではなく、自分の住んでいた場所・気に入った場所を宮にしてしまうのです。
さらに当時は火事が多く、火事があるごとに縁起が悪いので簡単に引っ越したというのもあります。

150年どころではないです。
どこまでが歴史でどこまでが作り話かはっきりしませんが、天皇家の歴史が始まって以来ほんの数代ごとに遷都を重ねています。それこそ一人で何度も遷都する天皇も居ますし。
ある意味天皇家自体がもともと定住する文化ではなかったんですよ。
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 ある先住民の人と話をしていた時です。


 僕「あそこの何とかさんが死んだそうですよ」
 先「そうかい」
 僕「あそこの家が火事です」
 先 (予期していたかのように)「そうかい、母屋、それとも小屋?」
 僕「小屋です」
 先「そうかい」

 これですぐ頭に浮かんだのは、日本の昔の頻繁な遷都でした。先帝を殺した死霊の焼き払いが背後にあったのかも知れませんね。
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No.2のやつです。

続いて桓武天皇を見ていきましょう

<桓武天皇>

実はここから「平安初期」に入ります。桓武天皇では平城京から長岡京、そして平安京と移っていますね。一体どうしてそうなったのかを見ていきましょう。

さて、桓武天皇はこう考えていました。「う~ん・・・何か世間の人がみんな念仏唱えてんぞ~?なんで~?」。その理由は先ほどの聖武天皇などが影響しています。でも、桓武天皇は結構武力的な性格で、あまり仏教などにそこまで関心がありませんでした。肖像画でも結構そんな顔をしてますよ笑。さて、ここで桓武天皇は「もう仏教なんていやじゃ!仏教があるといろいろと面倒だもん!(反乱とか)」
さらに、彼は仏教があまりにも広まっているために、それ以上勢力が高まり、天皇の存在を脅かすのではないかと考えたのです。実際に、彼の前の天皇であった「称徳天皇」という人物が「道鏡」というお坊さんに、なんと「天皇」の座を譲ろうとしたくらいでした。それでは天皇の権威がいつか喪失しても可笑しくない。ということを考え、天皇権力を高めるために、平城京から仏教の色がない「長岡京」への遷都を計らったのです。
ところが、当然遷都に反対するやからもいます。なんで?それは以前からいた「平城京」には土地もたくさんあり、政治的立場も強い豪族たちが平城京を手放したくないと考えていたからです。でも、天皇には逆らうことはできません。そこで犯人は定かではないのですが、当時長岡京の造営を主導していた「藤原種継」という人物が暗殺されました。彼は桓武天皇の腹心だったので、怒った桓武天皇はその暗殺事件に関与していると疑われた「早良親王」やその他の豪族などを退けました。早良親王はそのまま死んでしまったのですが、そのあと桓武天皇の母や皇后の死、長岡京造営におけるさまざまなトラブルに見舞われました。(これを当時の人は早良親王の祟りではないかといっていました)
なかなか、長岡京が完成しない桓武天皇は困っていたのですが、そこである人物が勇敢にも「長岡京は止めて、新しく都をもう一度作ろう!」といった人物がいました。それが「和気清麻呂」という人物でした。桓武天皇はその建議を受け入れて、都を「平安京」に移したのです。

というようなのが、二人の天皇が遷都した理由です。長くなりましたが、以上で解説を終わりにします。
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古代の宮廷は権力闘争が激しくライバルを暗殺したり


自殺に追い込んだりしました。
その結果怨霊が多数生まれ陰陽師といった官職も生まれました。
阿部清明なんか有名です。
天変地異や疫病の蔓延は怨霊の仕業とされ遷都の一因となりました。
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