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旧約聖書の出エジプト記3章14節の訳についての質問です。
原文の英訳は普通は、< I AM WHO I AM>ですが、WHOと訳された元の言葉である「アシェル」は接続詞にも訳せます。
(問1)文語訳の「我は有て在る者なり。」は、関係代名詞の文の訳でしょうか?それとも接続詞の文の訳でしょうか?聖書を知らなくても英語が出来る方は見当がつくのではないかと期待します。
ちなみに、この口語訳は「わたしは有って有る者。」です。「有る」+「そして」=「有って」なら、「アシェル」を接続詞と解して訳したのではないでしょうか?
(問2)それでは関根正雄訳の「わたしはあらんとしてある者である。」はどうでしょうか?「あらん」というのは原文の存在動詞が英語のBe動詞とは違って未完了形だから、そのように訳されているのですが、問題は「として」をどう見るかなのです。いずれにせよ、関係代名詞の文を訳したらこのような文になるでしょうか?それとも「あらんとして」は、存在動詞+接続詞の訳と見るほうが適当だと思われますか?その場合、「ある者」は1人称を3人称に読み替えた訳となります。

A 回答 (6件)

「有って有る」は口語訳聖書の中でもとりわけ奇妙な、見慣れない表現と思われます。

Exodus 3:14 には直後にも「私は有るという方が~」とありますが

欽定訳
And God said unto Moses, I AM THAT I AM: and he said, Thus shalt thou say unto the children of Israel, I AM hath sent me unto you.

ギリシア語
καὶ εἶπεν ὁ θεὸς πρὸς μωυσῆν ἐγώ εἰμι ὁ ὤν καὶ εἶπεν οὕτως ἐρεῖς τοῖς υἱοῖς ισραηλ ὁ ὢν ἀπέσταλκέν με πρὸς ὑμᾶς

ヘブライ語…先の2カ所も含めて3カ所ともエフイェです。ただ、同じ形で「ある(存在している)」と「なる(未来形でなろうとしている)」がどう使い分けられるのかは分かりません。言語の中には「ある」と「なる」が同じ動詞のアスペクト(相)の違いで表現できるものがあり、未完了相(不完了体)で「ある・いる(存在する)」完了相(体)で「成る」となります(例:ロシア語)。完了体は形は現在形でも意味的には未来になり(完了というからには既に完了したかこれから完了するかしかないから。完了体動詞の現在形は未来であるから未だ完了していないというややこしいことになります)ますが、エフイェという一つの形がこの2つに使い分けられるのでしょうか。

ラテン語
Dixit Deus ad Moysen: “ Ego sum qui sum ”. Ait: “ Sic dices filiis Israel: Qui sum misit me ad vos ”.

ロシア語
Бог сказал Моисею: Я есмь Сущий. И сказал: так скажи сынам Израилевым: Сущий [Иегова] послал меня к вам.

フランス語
Dieu dit à Moïse: Je suis celui qui suis. Et il ajouta: C'est ainsi que tu répondras aux enfants d'Israël: Celui qui s'appelle 'je suis'm'a envoyé vers vous.

イタリア語
DIO disse a Mosè: «IO SONO COLUI CHE SONO». Poi disse: «Dirai così ai figli d'Israele: "L'IO SONO mi ha mandato da voi"».

ヘブライ語、英語、イタリア語では「私は有る」という文をそのまま名詞化し、他は分詞や関係節で書き換えているものの3つとも同じ「有る(存在している)」としか思えません。日本語訳のみが2つ目だけを「有って有る」としているのはどういう解釈によるのか正直分かりません(ちなみにドイツ語は3つとも未来です)。

聖書の日本語訳がどの言語版を底本にしたのか分かりませんが、ギリシア、ラテン語以降であれば「(現に)存在している」としかとれないわけで、これなら「有る」もう少し未完了性を強調したいならそれこそ「存在している」と訳すのが普通であり、一般的に動詞に付けられる「~ている」を付けるのは不自然で(「有っている」※方言には「有りよる」という形がありますが)、そこからあえて見慣れない「有って有る」を作ったのではないかとさえ思えます。
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この回答へのお礼

詳細にわたってありがとうございました。B・Aとさせて頂きます。

お礼日時:2011/04/11 17:43

『有らむとす』という動詞は、未完了の推量と違い、蓋し『意志』を意味しているのでしょう。

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この回答へのお礼

そういうことでしたか。たいへんためになりました。ありがとうございます。また御指導をお願い致します。

お礼日時:2011/04/11 17:44

予断にはなりますが、前回の投稿の追加で、ヒントにして頂ければ有り難い情報を添えさせて頂きたい、と勝手に思いまして、再度の投稿を致しました。



特殊な文法の事例を挙げさせて頂けるのなら、日本語の中からも、下記の有名な慣用表現が見付かりますね。

つまり『生きとし生けるもの』という語句です。
此の連文節の中の『とし』という箇所は、文法的には格助詞の『と』と副助詞の『し』とから成り立っております。
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前回の解釈の際の解釈を敢えて諦めて、別の基準で考えてみますと、次の様な説明もが可能になり得ましょう。



つまり、『有らむとす』という文節を一つの動詞の訳語と見做す判断は、言語の基本的な相違点の都合なので、其の方式への依存を避けられ得ないのかも知れません。
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この回答へのお礼

混み入った質問に丁寧にお答え頂き誠にありがとうございます。言語の奥深さをあらためて学びました。

お礼日時:2011/02/06 18:18

「有りて有る/有って有る」の「て」も、「あらんとして有る」の「として」も接続詞を訳したものではなく原文の動詞を訳したもののの一部で分けられないものではないでしょうか。

いくつかの訳を見てみると

ヘブライ語(表示できないのでローマ字化です)
aeie ashr aeie
これを英語に直訳すると I shall become who I am becoming となるようです(http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/H …)。ヘブライ語文法は分かりませんが(2つの aeie が同じなのかどうか、そもそも be と become に相当する表現がどうなのかも分かりませんが)、shall become も am becoming も少なくとも完了していないという点ではほぼ同じです(進行形が未来の意味を持つことはあります)。「あらんとしてある」の「としてある」は「としている」のことで、「ある」の進行相ではないでしょうか。ここの「ある」は不完了相の「存在する」ではなく完了相の「生じる」のように「ん」は未来の助動詞に思えます。
初めの aeie に相当する部分はこの「直訳」以外では大抵現在形になっていますが(質問文の和訳でも「なり・である」になっていますね)、これはヘブライ語の「なる」の未完了相が「ある」に相当するということでしょうか。

ギリシア語(十七人訳)
ἐγώ εἰμι ὁ ὤν
ὤν は現在分詞(=being)で冠詞を付けて名詞化しています。ashr aeie にあたる部分を節ではなく名詞で表現していることになります。ὤν「存在しているところの」を名詞化し「存在しているところの者」ということです。英語直訳では I am the being です。εἰμι はbe動詞の現在形です。

ラテン語(Vulgata)
ego sum qui sum (直訳 I am someone who I am. qui は先行詞を含む関係代名詞)
ラテン語にはbe動詞の分詞がないため関係節で表すしかありません。「なる・生じる」は fio になりますがbe動詞現在形の sum を使っています。

ロシア語
Я есмь Сущий. (直訳 I am Being)
сущий はbe動詞の形容詞用法の現在分詞ですが、冠詞がないためそのまま名詞に転用できます。

ドイツ語(ルター)
Ich werde sein, der ich sein werde. (直訳 I shall be (someone) who I shall be)
前後とも未来形になっています。

フランス語
Je suis celui qui suis.(直訳 I am someone who (I) am)
前後とも現在形です。


「有て在る・有って有る」はともに「ある(存在する)」の未完了相つまり being に相当するものを、「あらんとしてある」は「ある(生じる)」の進行相つまり未来を表そうとしたものと思えます。「ある」を進行相で表すことは(標準語では)あまりないため見慣れない表現になったということもあるでしょう。

この回答への補足

「有(っ)て」は、<「有る」+そして>ではなく「有る」を未完了相に訳した場合に生じたものであるという御指摘、視点の転換となりました。誠にありがとうございます。問題は日本語の文語で未完了相を訳す場合、どのような表現を用いるのが自然かということで、私は未然形を用いるのが自然ではないかと思うのですが、その未然形に「完了/存続」の意味において「て」というのがありますが、これでしょうか?「有る」⇒「有(り)て」。「ら」もあるので「有らば」と訳せますね。
元のヘブライ語の存在動詞「aeie」(エフイェ)は基本語幹パアルの1人称単数未完了形とされているので、その未完了を訳出しようとした結果でしょう。「エフイェ」の原形は「成る」とも訳される動詞「ハーヤー」です。「我は有らば在る者なり」ではおかしいので、「ら」以外の未然形の助動詞「て」を用いて「有て」としたのでしょうか。しかしこれは口語訳では成り立たない仮説ですね。口語なら未然形ではなく仮定形を使って「わたしはあればある者」とでもしないとおかしいわけで、「わたしは有って有る者」の「有って」は、日本語で未完了相を訳した形とは思えないのです。やはり「有る」+「そして」のように感じます。あるいは文語訳の「有て」を踏襲したのかも知れませんね。この点、どう思われますでしょうか?

補足日時:2011/02/06 18:54
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この回答へのお礼

間違えました。大いなる勘違い。文語の助動詞の未然形に「て」と「ら」があるとか意味不明なことを書いてしまいました。「有」未然形として訳す場合は「あらば」か「あらむ」(「あらん」)ですね。関根正雄訳は後者で、「として」はその関連での意訳で御指摘のとおり、分けられないものでしょう。しかしやはり口語訳の「有って有る」の「有って」は「有る」+「そして」としか思えないのです。未完了相を口語で訳すなら「有ろうとして」ならわかりますが「有って」というのはどうも・・・という感じです。いかがでしょうか?以上、補足の補足です。再度の御回答を頂けなければ、これをもって御礼とさせて頂き、他に回答がなければいづれベスト・アンサーとさせて頂きます。

お礼日時:2011/02/06 19:40

関係代名詞の限定用法が使われている訳ですので、日本語に直訳される際には、階層構造を置き換えられません。



従いまして、若し直訳ではなく、意訳を試みられるのでしたら、其の場合には、分詞構文の付帯状況と同じ様に、副詞節的に訳される事が蓋し望ましいでしょう。
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