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日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。
織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは
誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね?
なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。
信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか?

もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?

A 回答 (10件)

本能寺の変の段階で、織田家の家督は嫡男、信忠が継承しており、秀吉は信忠の遺児三法師をおだけの家督継承予定者に立て、信忠の弟信雄を後見人としています。


これで、「織田家」内は納得の行く形にした。
天下人としての信長の継承は、じわじわと既成事実化。

そもそも、だれが信長を天下人としたのか?
信長本人です。それ以外に天下人を名乗る道理も大義もありません。
足利義昭が将軍職を退任したのは、1588年で、その段階では九州征伐も終わっており、秀吉はすでに関白・太政大臣になっておりました。
本能寺の変の段階では、まだ足利義昭は将軍職にあったわけで、公式にはまだ武家の棟梁は義昭です。

また天下人という概念自体、後世の歴史家が、家康←秀吉←信長 つまり信長の基盤を秀吉がついで、その基盤を家康が継いだという定義をしているから戦国の三英傑とかでひとくくりにしていますが、天下とは、京都及びその付近であるという概念も当時ありましたので、京都及びその付近を実質的に支配したものが天下人ならば、三好長慶も天下人。三好長慶の息子がいるのになんで信長が天下人か?といえば、信長が強かったからであって、そこになんの道理も大義もありません。
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お礼日時:2012/03/18 13:59

>柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?



昔は仲間でした。というか、先輩でした。秀吉は一目置いてました。羽柴姓を名乗ったのは柴田勝家の柴をもらったのです。継承問題では信長の仇討をした秀吉がリードしました。そして三法師擁立作戦が見事当たりました。いつのまにか秀吉は実権を握ってしまいました。
こうなると格上の柴田勝家は面白くありません。従いませんでした。そこで秀吉は目の上のたんこぶ的存在となった勝家を攻め、滅ぼしました。秀吉は凄い人物でしたね。ただの百姓から草履取りになって武将になって天下を取ったんですから。
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お礼日時:2012/03/18 13:59

>信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし



>柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか

柴田が非難して反対し、信長の息子にてこ入れして抵抗したからです

少し書籍を読めば(小説でも漫画でも)判ることです、そっれに気付けないことの自覚を

なお 羽柴の柴は 柴田の柴だと さも物知りげにいう方が居ますが それが事実なら 羽柴は柴田の家来 と言うことになります
そうなると、主君を討ったことになります、光秀と同じです、江戸時代になって秀吉を悪く言える時代になってもそのようなことは言われておりません

時代の感覚を想像も出来ず、現代の感覚を持ち込むことの弊害と、その時代の感覚を打ち破った信長の秀吉のすごさに もっと注目すべきです
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お礼日時:2012/03/18 13:58

昔のことはその時代に住んでいたわけではないので情報に頼るしかありません。


木下藤吉郎が羽柴姓を名乗ったのは、
先輩である柴田勝家の柴と
同じく先輩である丹羽長秀の羽
を合わせたものと言われています。
主従関係とかそういうものではなく敬意を表したものと思われます。あやかりたかったのでしょう。
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お礼日時:2012/03/18 13:58

もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?





権力争いというのはそういうものです。

自民党から政権を奪取する前は、仲間ですが、政権をとってからは民主党内で争っています。
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お礼日時:2012/03/18 13:57

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼びました)「山崎の戦い」で光秀軍を撃破しました。

(3)信長の家臣の中で、すばやくただ一人で光秀を討った「第一の軍功功労者」として柴田勝家らに一目置かざるを得ない存在となりました。

(4)その後、6月27日に信長の後継者問題を討議すべく清州城(いわゆる清州会議)で、出席をしたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)。
その場で勝家は二男信雄が跡目相続をするべきだ、と主張しましたが、秀吉は、長男信忠(二条城で信長と一緒に死亡)の一人息子三法師丸が血筋としては最も正しい、と主張しました。丹羽長秀や池田恒興はそれに賛同をし、軍功功労者第一番という威圧感もあって秀吉は三法師丸の後見役として信孝を指名したことにより、勝家はニガニガしい思いをしながらも、出席者の意見に従うしかなかったのです。

(5)やがて柴田勝家は信長の妹お市の方を押し立てて100ケ日法要を妙心寺で行い、秀吉よりも地位が高いことを見せつけようとしましたが、秀吉も黙ってはおらず、信長と信忠の葬儀が行われていないことに目をつけ、10月15日、秀吉の養子となっていた信長の四男秀勝を喪主として大徳寺で盛大に葬儀を執り行いました。

(6)この頃より秀吉と勝家が一層不仲になったと言われています。

(7)秀吉は勝家への「ゴマすり」の意味も含めて、天下一の美女と言われていたお市の方を勝家に嫁がせましたが、勝家は秀吉の策略を見抜いていました。

(8)12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師丸を安土城に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師丸を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

(9)翌年の天正11年2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。

(10)4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

(11)4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

(12)こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師丸を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになり、やがては、関白となって天下統一への路を走ったのです。
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お礼日時:2012/03/18 13:57

>なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。



丹羽 長秀が秀吉を推した(正しいとした)からです。

勝家は三男の信孝を推挙して来たが筋道から言えば次男を推すのが常識だろう。
信孝の烏帽子親を務めていたから権力を握ろうとしているだけだ。

一方、秀吉は筋道を良く知っている。

この判断が大間違いだったのです。( 本能寺の変後参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD% …

秀吉は次男信雄を味方に付けさえすれば自然に三男が対立して来る事を知っていました。
三男、信孝と勝家が倒れます。


秀吉にもひとつだけ大誤算がありました。
それが小牧・長久手の戦いです。

秀吉に味方した信雄は尾張、伊賀、伊勢の領地100万石を有していました。
それが信濃まで領地を拡大していた家康と組んで秀吉に戦いを挑んだのです。

秀吉は大敗北を喫します。

そこで秀吉は奇策を巡らします。

伊賀と伊勢を手放せば何も無かった事にしてやる。
と、強気な秀吉に信雄は喜んで講和に応じてします。

家康は戦う理由を失ってしまい撤退します。

この時点でとにかく戦は終了しました。
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お礼日時:2012/03/18 13:56

名を賜ることの意味が全く理解できていない回答があります



あやかりたくて名をつけるなど、当時の常識ではありえません

主君の名の一字を賜ることがどのようなことかは少し調べればわかることです

名を賜ったら臣従です 柴田にあやかって柴をつけたと表明すれば臣従したことを宣言したことです
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この回答へのお礼

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お礼日時:2012/03/18 13:56

織田家の家督を継承することと、天下統一事業を継承することは別です。

織田信孝と織田信雄は確かに織田信長の実子ですが、既にそれぞれ神戸家、北畠家に養子に出されていて、もう別な家の人間なのです。後継者候補どころか、織田家のことに発言権があった訳でもない。二人が養子に出されていたということは織田家の家督を継ぐのは長男の織田信忠で事実上確定していたということです。それが織田信忠も本能寺の変の関係で亡くなったので話がややこしくなっただけで。

で清洲会議で織田信忠の遺子である三法師こと織田秀信が織田家の家督を継ぐことに決定したわけです。しかし中途のままの天下統一事業は何にも決まっていない。当たり前ですよね。織田秀信はまだ3歳です。

結果を知っている現代日本人は、天下人だの後継者だの好き勝手なことをいってますが、織田信長は天下人を目指したけど、実際はそうはなっていないのです。

織田家の家督相続の形は、毛利家と似ています。毛利家の毛利元就の長男である毛利隆元が急死して、その遺子である毛利輝元が毛利家の家督を継いだ訳です。そして既に他家の家督を継いでいた吉川元春と小早川隆景は、一大名として毛利輝元を支える役目に徹しました。

だから織田信孝と織田信雄もそうすれば良かったのです。二人が織田秀信を支えて天下統一事業を継続しようといえば、誰も反対はできませんし、豊臣秀吉が天下人になることもなかったかも知れません。
しかし、そうはならなかった訳です。信孝は秀吉に対して挙兵する始末で、信雄に自害に追い込まれる。

柴田勝家と豊臣秀吉の対立が大きくなり前に調停できなかった時点で、織田家はもはや主君でもないし、勝家と秀吉も家臣でもないのです。古今東西の歴史において、これは普遍の真理です。家臣同士の対立を防げなかった主君は必ずその地位を失っています。

そうなったら、もう勝家と秀吉は、一人の大名として独自の判断で行動していくしかないわけです。私たちは全部結果を知っているから、好き勝手な注文をつけられるけど、天下統一事業どころか勝家と秀吉もどうやって、その後を生き残っていくかで精一杯な筈です。誰にも未来のことなど分からない。

それは他の大名にしても同じことです。結果としてそうなっただけで当の秀吉は、信長の後継者を自称したわけでもないし、諸大名に号令できる立場になったわけでもありません。

私たちは、賤ヶ岳の戦いで秀吉側が勝利したことを知っています。しかし当事者の勝家も秀吉もそんなことは分かりません。だからこそ、戦って決着をつけようということになるわけです。だれも二人の対立を調停できる人間がいない。戦わずして頭を下げるという態度をどちらもとりませんでした。
信長が存命だったら、そうはならなかったでしょう。信長の鶴の一声で、兵を引け、で終わりです。

それこそが主君の最大の責務です。その責務を果たす能力と意思が無かったら、もう主従関係は解消なのです。封建制度の意味はそこにあるのです。誰だって好き好んで戦に挑むのではない。戦わずして決着がつけられるのなら、それに越したことはないのです。

なれた訳ではない。秀吉は諸大名の支持を得て、結果としてそうなったのです。秀吉は一歩一歩足元を固めていった。現代を基準にして考えるから歴史を理解できなくなるのだ。自分がその時代に人になったつもりで考えて欲しい。仲間なんて、そういう時代じゃない。バカバカしい。二人とも織田信長に仕えたというだけの関係です。織田秀信は織田家の家督を継いだ。しかし主君としての用をなさなかった。となれば、もう勝家と秀吉には何のつながりもなくて、それぞれ有力大名として覇を競うだけの関係になってしまうのです。それが賤ヶ岳の戦いです。
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お礼日時:2012/03/18 13:55

あやかりたくて名をつけるなど、当時の常識ではありえません


名を賜ったら臣従です 柴田にあやかって柴をつけたと表明すれば臣従したことを宣言したことです

などと さも物知りげに言う人がいますが、竹中重門の著した「豊鑑」には「信長の信頼を得ている柴田・丹羽の二人から一字ずつとって羽柴と名乗った」と書かれており、秀吉の羽柴姓の由来に触れた文献というのは今のところ他にはありません。

もちろんこれが秀吉自身が語った真相とは限らず、重門の勝手な推測の可能性もあります。しかし秀吉と同時代に生き秀吉に仕えた重門が、羽柴姓の由来をそのように解釈していたことだけは事実です。重門はそれを「常識としてあり得ない」とは思わなかったし、ましてや「柴田・丹羽から一字ずつもらうことで、秀吉はこの二人に臣従した」なんて夢にも思っていなかったでしょう。当時の時代人が奇異に思わなかったことを、400年後の自称歴史通が「常識としてあり得ない!」と叫んでも滑稽なだけですね。

そもそも、柴田と丹羽から一字ずつとったという話と、たとえば後年の秀吉が配下の大名に羽柴姓を与えたようなこととを、一緒くたに考えるのが根本的に間違ってますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2012/03/18 13:55

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