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ご存知関が原の戦いなのですが、疑問点かあります。
豊臣秀吉が亡くなったあと、家康が大老の身にありながら専横の限りをつくし。。。
ということで戦いが始まったと思うのですが、

いくら主がいなくなったとはいえ、大阪には淀殿と小さいながらも秀頼公がおり、関が原合戦当時、直轄地が240万石ほどあったと認識しております。
片桐且元などは家臣と家臣の戦いだからということでノータッチを貫くよう言っていたようですが、
単純に、豊臣家として「家康の暴走」を止められなかったのでしょうか?
また合戦当時の豊臣直轄の軍隊はどれほどだったのでしょうか?
詳しい方お願いします。

ついでに、関が原の合戦では小早川秀秋の裏切りがクローズアップされひどい極悪人扱いされていますが、どの家もお家大事であり、つぶさに見ていくとみんなあまり変わらなく卑怯のような気がします。(特に毛利)
この辺もついでに、ご意見いただければと思います。

A 回答 (10件)

小早川秀秋が「悪人」と評価されている理由ですが



1.戦国時代において裏切りは常套手段であったが、江戸時代に入ると秩序維持の為に「信義」が重んじられ、必然的に著名な「裏切り者」のイメージは悪化した。
2.早世したため「関ヶ原の裏切り」が最も名高い所行となった。
3.結果的に主家である毛利家を没落させてしまった。
4.小早川家が断絶したため、誰も秀秋を弁護しなかった。

こういった要因があると思われます。
最近の研究では秀秋は「最初か東軍につくつもりで、的確な判断により東軍の勝利に大いに貢献した」とする見方も出ており、もし秀秋が長生きして小早川家が大名として存続していれば、後世の評価は大きく変わった事でしょう。
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この回答へのお礼

残念ながら、間の悪い人だったのでしょう。
現代でもその人の器量以上に力を持つとろくなことがない。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/05 20:36

大阪城の秀頼公直属の部隊は・・・


御小姓衆・・・・・・7500人
御馬廻衆・・・・・・8300人
御弓・鉄砲衆・・・5900人
前備・後備・・・・・6700人
総計・・・・・・・・・2万8400人
これには豊臣恩顧の大名の兵力は含まれておらず、あくまで秀頼公直轄の兵力です。

家康の暴走を止められなかったのは、豊臣恩顧の大名達の内部の争いを家康にうまく利用され、豊臣恩顧の大名が一つにまとまらなかったのが原因です。
特に福島正則などの武断派と石田三成らの文治派の対立が致命的でした。

徳川家康の石高は255万石に対し・・・
豊臣秀頼の石高は220万石で、この他に金山、銀山を直轄地とし、他の大名の領地にある金山、銀山以外の鉱山からも運上(税)をとり、大きな貿易港も押さえていました。
そして、豊臣恩顧の大名がいたわけですが、秀吉一門の扱いを受けた五大老の一人、宇喜多秀家が57万石。
武断派の福島正則が20万石、黒田長政が18万石、加藤清正が25万石、加藤嘉明が10万石、細川忠興が17万石、浅野幸長が22万石、池田輝政が15万石、藤堂高虎が7万石、蜂須賀家政が18万石。
文治派の石田三成が19万石、小西行長が20万石、大谷吉継が5万石、増田長盛が20万石、前田玄以が5万石、長束正家が5万石。
この他にも秀吉の親戚筋である木下一門で10万石、青木一矩が20万石、小早川秀秋35万石などがあります。他にも秀吉に古くから仕えていた山内一豊らもいます。
こうした豊臣恩顧の大名だけで300万石を超えているわけで、秀頼の220万石と合わせれば500万石を軽く超え、徳川の2倍以上の石高があり、数字の上では押さえる事が可能の筈でした。
そしてこの他に秀吉の盟友前田家100万石もありました。
しかし、武断派と文治派の対立で豊臣恩顧の大名はまとまらず、前田利家も亡くなり、関が原で西軍で上記の豊臣恩顧の大名で最後まで戦ったのは石田三成の19万石、小西行長20万石、大谷吉継5万石、長束正家5万石、宇喜多秀家の57万石の106万石です。
豊臣恩顧の約三分の二の200万石は東軍についています。
全ては豊臣内部の分裂とそこに付け込んだ家康のうまさでしょう。
残念な事に秀吉の死後、豊臣を一つにまとめておく事のできる人物がいませんでした。
五大老の一人の宇喜多秀家は秀吉に目をかけられたとはいえ、福島正則などより約10歳も若く、お家の内部がごたごたしており、その手腕にも限界がありました。小早川秀秋の器量もそれほど高いとは思えず皆をまとめる事は無理でした。そして他の秀吉子飼いの大名は皆、石高がとても高いとはいえず、同じような石高の者も多く、誰にしても豊臣を一つにまとめる力量に欠けました。
秀頼公はわずか7歳。淀君にも諸大名を心底敬服させる求心力はありませんし、その力量もありませんでした。
そして徳川家康の力があまりに大きすぎました。
外様大名で徳川の次に石高の大きい大名は毛利と上杉で、どちらも120万石で徳川の半分の石高しかありません。
これでは外様の大名が徳川の顔色を伺うのも無理からぬ事です。
結局、豊臣を一つにまとめ徳川家康の器量に対抗できる人物が豊臣方にいなかったという事が問題だったのでしょう。
せめて秀頼公があと10歳歳をとっていれば、状況は変わったかもしれませんが・・・

小早川秀秋は関が原の戦いを決定付けた人で、その裏切りも分かりやすいから叩かれるのでしょうね。
皆、生き残るのに必至になったという事でしょうが、石高の低い大名ならその気持ちも分かります。何せ自分の力で戦局を動かすなど殆どできないでしょうから、生き延びるために勝つ側につくために右往左往して日和見したり、時間を稼ごうとするのは理解できます。ですが毛利をはじめかなりの石高を持つ大名が、戦局を変えるだけの力を持つ大名が日和見するのは、いくら生き残るためとはいえ情け無い限りだと思います。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。
大体すっきりしました。
豊臣家もこのときに態度をはっきりさせていれば、状況が変わったかもしれませんね。

お礼日時:2012/04/05 20:34

>豊臣自身で300万石ぐらい確保しとけばよかったのに。

。と思います

 実は、秀吉の甥(秀吉の姉の子)たる、秀次・秀勝・秀保の所領合計だけで300万石近く有ったはずです。
 ただ秀次以外は秀吉より先に早世しますし、秀次は秀吉自身が自害させています。

 それらの所領は、先述の3人の重臣や秀吉の傘下に入った者に分け与えられる事に成りますが、厄介なのは秀次の関係者です。

 難を逃れた家臣・与力および血縁関係などで縁の深かった者

   田中吉政
   中村一氏
   山内一豊
   藤堂高虎
   毛利輝元
   堀尾吉晴
   伊達政宗
   最上義光
   細川忠興
   浅野長政

 関ヶ原の戦いで、家康が勝利を得るキーパーソンになる人物が何人もいますね…。
 (関ヶ原の戦いは、秀次自害に対する報復と言う面が有ったのでは愚考しかねない…。)

 秀吉の政権が、秀吉個人のカリスマを元に運営されたのは、彼が最下層からの成り上がりであるが故に譜代の家臣がいない上に、親族まで早世と自身の命で自害させた為に、いつ裏切るか分らない者の協力を頼まなければならないのと、太閤に到るまでは後に家臣に成る者(旧織田家家臣)であっても、家臣でなく同盟関係(信長に対する家康のような関係)ですから、勝利した時に得た領土は、家臣に与える様な配分では済みません。(多く配分しなければならない。)

 また、太閤蔵入地も太閤検地などでの不備を理由に召し上げていますから、大名にすれば自分の物だった物が奪われた故に、取り返えしたいと言った不満が溜まりますし、それを秀吉亡き後に返してくれた家康に感謝と親近感を持つのも仕方ないかと…。

 なお、徳川政権は直轄地と旗本分で800万石近く有りますが、これは恐らく豊臣政権の失敗を参考にしたものでしょうが、実施できたのは徳川が親族も含めて安定した体制が確立できた上に、其れなりに優秀な後継者をえて、ある程度は順調に代替わりが出来た事(直轄地が増えていったのは[8代吉宗の時代で450万石を達成]歴代の将軍の重要任務に、大名の改易が有った為)に因るのではないでしょうか…。
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この回答へのお礼

300万石あっても分裂していては。。ですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2012/04/05 20:38

大阪の陣では淀殿が陣頭指揮をとって。

。。


No2でも書いたのですが、戦争経験のない淀殿が陣頭指揮を取っても意味はないのです。
この上司についていけば、勝てると踏まないとついて行きませんので。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%AF%BA% …
山崎城の築城。

イエズス会士の報告書では、京都周辺に城郭を築くなという取り決めがあったようですが、清洲会議の20日後にすでに着工している。
家康の大坂城二の丸入りのほうが、よっぽどソフト。

織田家の主観的な見方からすれば、「秀吉の暴走」です。


主というか、最終的な軍事力で決着できる人間がいなければ「豊臣家」なんていうものは張子の虎でしか有りません。

小早川秀秋が悪く言われるのは、単純に、すぐ死んで、小早川家がなくなったからでしょう。
死人に口なしですから
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豊臣恩顧の主力である福島らが


西軍の事実上の指揮をとった三成を憎みまくって家康についたから
だから毛利を大将にしたが効き目なし
関ヶ原の少し前には暗殺しようとしたほど

小早川秀秋は講談の優柔不断な様が見苦しすぎが不人気の理由かと
しかし、はじめから東軍につくつもりだったとする説もありますね

山の麓から頂上付近に鉄砲打っても聞こえんだろ、と思いますし
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この回答へのお礼

>小早川秀秋は講談の優柔不断な様が見苦しすぎが不人気の理由かと
そのとおりなのですが、
彼の場合どうも間が悪いというか、若すぎたというか。
他の大名家も合戦直前まで優柔不断だったとおもいますよ。

どうもです。

お礼日時:2012/03/31 20:31

>直轄地が240万石ほどあったと認識しております。



 太閤蔵入地の事を指しているのだと思いますが、確かこれって家康が秀吉死後に、朝鮮の役での功績などの名目で、各大名に分け与えていたと思いますが…。

 例えば、
  遠江浜松12万石の堀尾吉晴に越前府中5万石を加増。
  丹後宮津12万石の細川忠興に豊後杵築6万石を加増。
  美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7000石に加増移封。
  対馬府中1万石の宗義智に1万石を加増。

 残っていたものも、大名預地などとして、管理を他の大名などに任せていました…。
 (太閤蔵入地は所領と言うよりも、他の大名などの監視や掣肘が行える様に各大名の所領の中にピンポイントで置かれた物。まあ、金銀山や街道の要所等も有りましたが…。)

 豊臣氏が本当の意味で自由に使えた所領なんて、摂津・河内・和泉65万石(関ヶ原以降でも減らされずに残った物)くらいなのでは…。

>豊臣直轄の軍隊
 これを担うはずだった、加藤清正や福島正則らの秀吉恩顧の武将が家康についたのですが…。

 なお関ヶ原の切っ掛けとなる会津征伐も、秀頼の命を受け、軍資金と兵糧もらい、秀頼の名の下に集まった軍勢を率いている途中で、小山で福島正則や黒田長政らと共謀して会津討伐軍を三成討伐軍にすり返る何て事(小山評定)までやってます。
 (三成もまさか、会津討伐軍がそっくりそのまま家康の見方につくとは思ってなかったのでしょうし…。西軍についたのは田丸忠昌だけです…。)

 しかも、関ヶ原では徳川の主力陣は秀忠と一緒だった為に参加できず、実質秀頼の軍勢で三成を討つ事に成功しています。

 なお、家康の所領は与力大名分を含めれば250万石もあり、また他の大名(伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政)への婚姻政策も行っており、関ヶ原の直前の時点でさえ豊臣家がその横暴を止められない程の力を持っていました。
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この回答へのお礼

 豊臣氏が本当の意味で自由に使えた所領なんて、摂津・河内・和泉65万石(関ヶ原以降でも減らされずに残った物)くらいなのでは…。

>豊臣直轄の軍隊
 これを担うはずだった、加藤清正や福島正則らの秀吉恩顧の武将が家康についたのですが…。

すっきりしました。

これでは徳川250万石を制することは難しいですね。

豊臣自身で300万石ぐらい確保しとけばよかったのに。。
と思います

ありがとうございます。

お礼日時:2012/03/31 20:28

現代の会社に例えてみましょうか。



天才的な才能とカリスマ性で一代で一大コンツェルンを築いたカリスマ会長が死亡しました。グループの持ち株会社の社長は二代目である息子がやっていますがまだ若く、会長の後妻で息子の母親が実質的に仕切っています。
そして、そのグループで5本の指に入る実力を持っている専務が独自の動きをし始めました。銀行なんかとも二代目を通さずに話をするし、子会社の買収なんかも決済するようになります。その専務はグループ内でも直属優秀な部下を多く持つばかりでなく、グループ内でも今やカリスマ会長亡き今、慕う人物が多く出ています。

こう見ると、「割とよく聞く話だな」という気がするでしょう?

ここまで書いて気づいたのですが、今、民主党では小沢一郎氏とその小沢派の人たちが首相や党中央部のいうことを聞かないで勝手に行動しているでしょう?それと同じです。
それだけ家康は実力の持ち主だったということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
人望や組織についてはおっしゃるとおりなのですが、
大阪の陣では淀殿が陣頭指揮をとって。。。

NO1~3のかたのお礼が疑問の趣旨です。

豊臣の戦力+αでは家康を封じ込められなかったのかな?というのが疑問の趣旨です。
豊臣がこのときに本気で家康をたたこうとすれば叩けたのか?
戦力的にどうなのかというところです。

お礼日時:2012/03/31 14:17

関ヶ原の戦いの原因を「家康の専横」と記載しているその前提が既におかしい。


いちばんの問題は、無意味な朝鮮侵略によって疲弊した者達に、報酬なり保証なりを
与えられなかったことにあります。戦略的には無意味な軍事行動でしたから。

自分のところ、即ち「お家」が大切だから、秀吉死後の豊臣勢を主君として
仰げなかったのである。長きにわたる戦国時代の終焉として強固な中央集権体制を
欲していた者もいます。ぼやぼやしていたら、海外からの侵略で一掃されかね
なかったですから。いずれにしても、秀吉が死ぬ間際まで権力を握り、後継者に
よるシステムを構築できなかったから、後継である豊臣勢には主君としての器量が
なかったから、後継者勢力を擁した西軍が惨敗したのです。

信賞必罰、これが武門の基本です。

軍隊の規模に関してはWikiでも見てください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
しかしながらNo1の方のお礼のとおりの部分の疑問が残ります。
>強固な中央集権体制を欲していた者もいます。
このこともわかりますが、当時の豊臣直下の戦力では家康を封じ込められなかったのがというのが
疑問の趣旨なのです。

お礼日時:2012/03/31 14:11

秀頼公がおり



時代はさかのぼりますが、鎌倉時代の初期の頃、結城家の当主は「将軍の書類は嫌だ、頼朝の個人名の書類が欲しい」と駄々をこねます。
個人的な信頼感が重要です。組織として従っているわけでないので。

戦国期の北条家の研究では、
1 当主は早めに隠居にして嫡男に当主の座を引き渡す
2 当主として若い嫡男は「実戦で実績」を挙げないと、家来から本当の当主として認められない

ということだそうです。

上杉謙信が、兄貴から長尾家の当主になったのは、越後の国人層が「今の当主では、勝てませんから、弟さんがやってください」という要求からです。

名ばかりでは何もできないという実力の世界ですから。

前田利家が存命の時に、歯止めがかけられたのは、前田家が80万石程度の所領だということではなく、その戦歴です。
立花宗茂がいったん浪人になってから最終的には10万石以上の大名に復活できたのも、かれの戦歴です。

戦歴のないやつは信じられない、発言力がないというのが あの時代です
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この回答へのお礼

>戦歴のないやつは信じられない、発言力がないというのが あの時代です
これも一理ありますが、
No1のかたへ書いたお礼の部分が引っかかります。

解凍ありがとうございます。

お礼日時:2012/03/31 14:07

「お前が 言うな」



1600年 関ヶ原の戦い
1582年 本能寺の変

1582年の本能寺の変のどさくさで織田家から天下人に成り上がったのが、豊臣秀吉です。
関ヶ原まで18年。

関ヶ原の戦いで35歳以上くらいの武将は全員、秀吉の行ったことを見ていました。だから全員が口に出さずとも思っていたのが。
『わしの死後、幼い秀頼を頼みます』(秀吉)
「お前が 言うな」(全員)

天下は回り持ち

という考えです。こういった考えがあるので、家康は秀頼の息の根を止めることになります。

近国への戦闘では最大動員兵力が 100石で5人とかですので、240万石であれば、12万くらいでしょうか。

兵農分離 兵農分離 とか言っても、足軽レベルですと、臨時雇いとかがありますので、増減します。

黒田家では、息子の長政が主力を連れて出ていますが、親の黒田官兵衛は臨時雇いで9000ほどの兵力を作り上げています。
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この回答へのお礼

お前が言うなはごもっともですが、
大阪夏の陣、冬の陣と淀殿が陣頭指揮をとって徳川と戦をしております。
関が原のこの時点で、なんで押さえ込めなかったの?
という疑問があります。
まだ大阪の陣のころよりは求心力があったはず。

でも参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/03/31 14:05

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