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漢文の訓読するときに、

朽 木 不 可 彫 也 (朽ちた木は彫ることは出来ない)

このときに、木のところに送り仮名として「ハ」をつけないらしいのですが
つける場合もあるんでしょうか
というかそもそも、

書き下し文ではなく、現代語訳をかいていて、そっから
送り仮名をつけろという問題がよくでるんですが

その場合、現代語訳にかいてある助詞 助動詞、すべては書かないが
どんなものに、送り仮名をつけて
どんなものに、つけないんでしょうか。

あまりわかっていないんで、簡単に
詳しくお願いします

A 回答 (3件)

 こんばんは、夜分遅くに失礼します。

早々の折り返しをいただきながら返答が遅くなったことをお詫び申し上げます。
 あらためて質問を整理させていただきます。
(1)白文の文章の主語にあたる部分を書き下す場合、「~ハ」として「ハ」を付けない場合があるか。
(2)付ける場合と付けない場合ではどの様な区別の仕方があるのか。
との疑問ですが、前回は「担当の先生は高齢の方ですか、それとも若手の方ですか」との質問をさせていただきました。この質問の仕方は極端な事例を想定してのものです。
 実は(1)に関わる問題として、「読み下しには“これが正しい読み方”と断定できるだけの合理的な根拠」はない、といっても過言ではありません。逆に質問者様が文章の主語だからといって絶対的に「~ハ」でなければならない、と思い込んでいる(意識的ではなく無意識のうちにそうしてしまっている)ことと同じ問題です。
 つまり「読み方が一つしかない」と考えるならそのような形になってしまうのです。ご高齢の先生ならばご自身が学ばれた漢文教育の材料が『論語』や『孟子』などだった可能性も高く、その読み下し方も過去からの読み方をそのまま踏襲した形です。
 「子曰~」を「し いはく ~」と読む読み方だけが正しい読み方であるとの根拠は実際どこにもないのです。現代語訳するなら「(孔)子は~のようにいった」とされる読み下し文も実際には何通りかがある可能性もあります。それは漢籍が「古典」として日本に伝わった当時のことば(古語)で使用されていた格助詞にも「が・の・い」の3種類があることに理由があり、このうちのどれが使われていたかは定かではありません。そうした背景を理解している先生ならばベテランでも若手でも「許容範囲がある」との認識で「敢えて送りがなを付けない」との教え方をします。もしそれでも「送りがなを書け」との出題をした場合には「子 ノ 曰ク」も「子 ガ 曰ク」も共に正解となります。このため「朽木 不可彫 也」の場合「朽木(空白もしくはノ) 彫ルベカラザル ナリ」と読み、主格を示す格助詞である「ノ」はあっても「ハ」を送りがなとすることはありません。「ハ」は現代文での主格を示す格助詞です。
 漢文で書き下しに「ハ」を附す場合の事例としては日本漢文や古文書に見られる「主語+者」の形です。この場合は「者」を「ハ」と読みます。

 (2)「釈文」から「読み下し」を作る出題の意味と対応の仕方

こうした点を踏まえて、訳文に記されている言葉と読み下し文に記すべき言葉の関係をどの程度理解しているかを問う出題であり、よく工夫されていると思われます。漢文には特定の形式とそれに使用される言葉があります。反語などにみられる形式や部分否定と全文否定の違いは構文とそれに使われる語句によって示されます。そしてこれをパターン化して憶えましょう、との配慮がなされています。要は「いとをかし=とても趣がある」との表現を「とても趣があることをどの様な言葉で表現しているか」と質問しているだけの話です。
 ですから答え方として「助詞」「動詞」「助動詞」「形容詞」全てに送りがなを付けることが必要です。そうでなければ文章として成り立たないことも明らかです。
 もし「朽 木 不 可 彫 也」に送りがなを付け読み下し文にするなら、主語としての「朽木」とそれ以外の字句の関係はどうなるでしょうか。「不は可を否定する」「可は動詞としての彫を受ける」「彫=動詞」「也=文章全体を整える要素」つまり「できない」→「何が?」→「彫ることが」とのプロセスを示していると考えてみればお判りでしょう。英語を日本語に訳す時と同じ発想です。“There is a book on the table.”と言った場合、直訳すると「あるよ!(として相手の注意をひく)」→「何(が)?」→「一冊の本(が)」→「何処(に)?」→「机(の)上(に)」の順に単語が並んでいてそれぞれに日本語としての文意を自然な形で示すために「助詞」が付けられています。もし助詞がなければ、文章として「本ある机の上」などのメチャクチャな日本語になってしまいます。
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 要するに「白文」→「訳文」が示されていて、それに対応する「読み下し文」を作れ、ということですね?。


この設問には2つの設定がなされている可能性もあります。
一つは「出題者が白文を正確に読み下している場合」。もう一つは「出題者が白文を正確に読み下していない場合」として2つの正解が成り立ってしまう可能性です。こうした意味から出題意図として余り的確ともいえません。
 お尋ねの「巧 木 不 可 彫 也」も実際に「巧木ハ彫ルベカラザルナリ」と読むことも出来れば「巧木ノ彫ルベカラザルナリ」あるいは「巧木モ彫ルベカラザルナリ」と読むことも可能です。
 こうした事例の典型を示します。『令集解』に使われる『玉篇』の事例です。
「伴云、義解、緝者、毛詩、緝続也。国語、緝明也。爾雅、緝光也。野王案、緝摺也。説文、緝続也。方言、所以懸擢、謂之緝也。」
ごく普通に読み下せば「伴云く『令義解』の「緝」というは『毛詩』の緝は続なり。『国語』の緝は明なり。『爾雅』の緝は光なり。野王案ずるに、緝は摺なり。『説文』の緝は続なり。『方言』の懸擢する所以(ゆえ、もしくはゆえに)、之を緝と謂うなり。」となりますが、よく読んでみるとオカシナ点が見られます。ではどこがおかしいかと申しますと、
(1)冒頭の「伴」が「他の民間の文献(蛮書)」を示す可能性もあることから「伴に云(わ)く」と読み下すことが正しい。

(2)「『令義解』の」は既に「伴によれば」との前提が附されているのですから、ここも「『令義解』に」となります。

(3)従って以下の「『毛詩』の」「『国語』の」「『爾雅』の」「『説文』の」「『方言』の」も全て「『毛詩』に」「『国語』に」「『爾雅』に」「『説文』に」「『方言』に」となります。

(4)「野王案ずるに」の部分ですが、「野王の案ずるに」と読んでも問題はありません。

 文全体の意味として「伴の説明に依れば『緝』という文字の使用に関して『令集解』には(緝の文字の引用先および意味として)次の説明があるという。『毛詩』には続、『国語』には明、そして『爾雅』には光、となっている。こうした経緯から私達が理解するところでは、緝は摺である。辞書である『説文』や『方言』の説明するところでもある。したがって之(史書を編纂すること)を緝と謂うものである」となります。

 『律令』の中にある「職員令」に定められた「図書頭」の職掌を『令集解』という書物が説明している部分です。
少し本題から外れてしまいましたが、漢文の読み下し文で「もしも助詞を付けなかったとしたら」主語も目的語も不明となってしまいます。反語文としての「豈………乎」などは送り字や置き字としての助字に対する読みを附さなければ意味が通らない文章となってしまいます。少なくとも主語にあたる部分に助詞を付けないことは文意の理解を誤る原因ともなります。
 もし出題者の先生がよほど漢文に習熟しているか、逆に自信がないためにそれを隠そうとしているかの何れかでしょう。日本史学に携わる者としてはこうした漢文教育を施されては少々傍迷惑ともいえます。
 因みにその先生はご老体ですか?。それとも若手ですか?。
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この回答へのお礼

高齢のほうです!

お礼日時:2012/04/08 11:52

質問させてください。



質問者さんは、元の文と現代語訳を読んで
書き下し文にすることはできるんですか?
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