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こんにちは。

結局この二人に一族を絶滅させられた清盛です。
義経に引導を渡されその後は頼朝の追討により根絶やしです。

その前の戦(保元の乱?)の戦後処理でなぜこの二人を殺さなかったのか?
なぜ生かしておいたのか? 
その時期に清盛にはそう言う力が無かったのか?
でもその後でいくらでも出来たはず赤子の手を捻るがごとく。
頼朝のやり方と比較するとあまりにも寛容すぎてバカみたいです。

最高権力を握るほどの人なんだから女(常盤御前)の理由とも想えません。
それとも当時はそのぐらいが普通で頼朝がやり過ぎなのか?

では宜しくお願い致します

A 回答 (7件)

>清盛はなぜ頼朝、義経を殺さなかったのか?



     ↓
◇基本は、源氏を一掃したor主力は殺戮または服従しており、平家一門の覇権への自信が油断と冷徹に成りきれない仏心や因果応報を恐れる心に繋がった。
<実際に法身し入道にも成っている>

◇出家させる、遠島は、都を離れ一族郎党から隔離され領地も失う点から、死罪に準ずるor再起報復の難しい無力化措置であり、少年幼児の命を奪うまでの冷徹さがない温情心と合い俟った寛大な処置に成った。

◇そこに、個別理由として
頼朝:母代りのように育てられ世話に成った継母である、池禅尼が幼くして亡くした我が子に似てる&幼少の美少年に憐れを感じ清盛に除名を懇願し、清盛も願に応えた。

義経:源義朝の遺児を頼朝ほか死罪を免じた処置の流れがあり、さらに義経の生母(義朝の愛妾)である常盤御前の美貌に思いを寄せ(後に子供をもうける)、その常盤の懇請によって死罪を免じた。
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この回答へのお礼

この三つ(四つ)の理由から清盛の人間性を感じます。
ある意味弱さ、甘さ、普通の人と変わらない。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 14:48

平家が頼朝・義経兄弟に滅ぼされるのに、何で根絶やしにしなかったか?



と言うのは結局後世の人間だから考えられる事で、当事者に取ってその様な結果になる事など想像すら出来なかった。

「赤子の手を捻るがごとく」だったからこそ、危険性を感じなかった。

>頼朝のやり方と比較するとあまりにも寛容すぎてバカみたいです。
そりゃ自身の経験を踏まえた上での行動だからねぇ。

結局人は未来を予測することは出来ず、過去の経験と現在の状況に基づいてのみ行動するって証左ではないか。
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この回答へのお礼

頼朝には清盛と言うお手本があった、
だから二の舞は御免と言う気持ちが強く・・・、なるほど。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 14:51

そもそも死刑制度というものが、平安時代の約3百五十年間無かったと言うことを知らない日本人が多いので、常識が狂ってしまいます。



死刑制度が再開したのが保元の乱の時ですから、死罪にする者の子供や妻を同罪にすることなど考えられなかったと思われます。

さてこの戦いのとき、頼朝は13歳で戦争に参加していましたので処刑の対象でしたが、義経は2歳でしたから、事情はぜんぜん違います。

よって頼朝が助命されたことについてだけ考えることとします。

今の日本人はその後の歴史で作られた源平合戦の構図で見ることに慣れてしまっていますが、それは大衆が作り出した、ドラマに過ぎません。

源氏と平氏という勧善懲悪のドラマとしてこの戦争を見ることに慣れてしまっていますが、もっと複雑な歴史的背景を見るべきです。

それは武士の時代の幕開けと言われている、時代の移り変わりについてです。
鎌倉幕府というのは関東武士団が律令体制の近畿地方から独立するために作り上げた体制でした。

東国独立論といわれていますが、律令体制から独立したかった関東武士団が頼朝を担ぎ上げたものであって、逆に言えば頼朝の個人的復讐劇ではなかった、ということです。

今回の大河ドラマ「清盛」はこのような史観で進んでいますので、視聴率は低いようですが、是非見ていただきたいと思います。
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この回答へのお礼

確かに根絶やしはやり過ぎだと思います。(頼朝)

平家は朝廷に取り入る方法でのし上がった。
頼朝は違う方法でと。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 14:57

 他の方の回答にもありますが,平安時代の日本では長らく死刑が行われておらず,保元の乱で平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝や義経の祖父)が処刑されたこと自体が,当時の法慣習としてはかなり異例の措置であり,貴族層からも相当の反発があったようです。

もっとも,死刑が行われなかったというのは朝廷がやらなかったというだけで,武士団などによる処刑は平然と行われていましたが。
 清盛が,仮に頼朝や義経を始末するとすれば,両人の父・義朝は保元の乱当時清盛の味方だったので,それに続く平治の乱のときということになるでしょうが,幼年期に父親が処刑され,後に子供が成人して力を付けて親の仇を討つというのは,日本の歴史上は源頼朝や義経がまさにリーディングケースであり,清盛としてはそのような事態は想像もできなかったでしょうし,また謀反人の息子とはいえ幼い子供まで殺すというのは,武士の死刑自体にも世論の反発が強かった当時ではさすがに難しかったでしょう。
 もっとも,源平合戦の時代以降,日本では全国各地で武士同士の抗争が続き,成長した子供が親の仇を討つなどというのは珍しいことでもなくなりましたが,それでも子供まで平気で殺すという措置を取るには,あまりにも残虐だという非難を覚悟しなければなりませんでした。
 織田信長のように,残虐だと言われても一切気にしないような人物は,歴史上の人物の中でもかなり稀ですが,その残虐さで知られる織田信長でさえ,敵や謀反人の子供でもさしたる脅威にならないと判断した場合は殺していません。信長の弟・信勝は,二度も謀反を繰り返し最後には謀殺されましたが,その子・信澄は信長に育てられて成人し,明智光秀の娘を娶っています。
 戦国時代の価値観に慣れてしまうと,平清盛の措置は寛容すぎるとも感じられるかもしれませんが,平清盛については,逆に死刑を復活させてライバルの源氏を叩きすぎたため,後に源氏側の怒りを買って平氏の完全滅亡を招いたという見方も存在します。本来は,敵の一族は子供まで皆殺しというやり方自体が異常なのですよ。
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この回答へのお礼

結果として中途半端な粛清だったのかなと。
清盛個人としてはそれで良かったのかも知れない。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 15:21

頼朝については、こんな説も出されています。


・頼朝が後白河院に側近としていた関係から、後白河(姉の上西門院も)が近臣に温情をかけて、母待賢門院に仕えていた院近臣家出身の池禅尼(平家家長代行)を通じて働きかけた。
ちなみに当時、池禅尼の子頼盛は嫡流清盛に対抗しうる武力を持っていたようです。
平清盛も平治の乱直後はまだ政治を主導するほどの権限を得ていなかったようです。平治の乱は反信西派が信西派を滅ぼし、信西殺害後分裂した反信西派を帰京した清盛が(二条天皇を擁することで)鎮圧したという捉え方。

それと、平家の族滅については、頼朝は平氏の降伏によって安徳帝・時子・神器を確保することにより、後白河との戦後交渉を有利に進めようとしていたが、義経は安徳帝を危険視(三種の神器なしで擁立した後鳥羽帝の否定)する後白河に接近していたため、平氏追討を優先していたとされています。

詳細は、元木泰雄『平清盛と後白河院』(角川選書 2012年)を一読ください。
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この回答へのお礼

一族のそんな人から言われたら出来ませんね、清盛も。

頼朝もやり過ぎですが義経もやり過ぎのような。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 15:26

生かしておいても殺しても結果は同じことで、ひょっとしたら清盛はそれを読んでいたのかも知れない。


最終的に鎌倉幕府の実権を握ったのが、源氏を滅ぼした(実朝暗殺の黒幕?)平氏(北条氏)だから、特に頼朝である必然性はないし、仮に頼朝、義経兄弟を殺していても、平家は貴族化して武士としての本分を忘れて弱体化し、新興勢力(義仲? 甲斐源氏?)を核とした地方の反乱に手を焼いて都を追われることは遅かれ早かれ必然と思う。
史実では義経により急速に滅亡したが、義経がいなければ緩やかに滅亡に進むかも知れないが、最終的には地方豪族に利用されつつ滅亡はするであろう。
結局は清盛の場合、前例がないので武士政権という発想が出来なかったことが敗因で、頼朝は曲がりなりにも清盛という見本があったので、それをカスタマイズすることで政権を維持できたが、幕府というものの運営のノウハウがないために、幕府成立後は同様に貴族化し、武士の御輿としては放り出されて3代で絶えてしまった。
生かしても殺しても同じなら、軋轢を避けた方がよいという判断も考えられるし、どうなんでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですね、無駄な殺生避けられるのであれば避けたいですね。
清盛も晩年、こりゃいずれやられるな、って思ってたかも知れませんね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 15:32

平安時代に


嵯峨天皇が盗犯に対する死刑を停止する宣旨を公布しましたが、
死刑を完全に廃止した訳ではなく、平将門は晒し首になっています。

>その時期に清盛にはそう言う力が無かったのか?

平安末期には自力救済(自分で刑する)が普通になります。
すなわち、中央に相談無く敵の大将の首を撥ねるのが普通になります。

頼朝の流刑と冠位の剥奪だけでも刑は十分だと考えたのでしょう。
もちろん、復讐など考えていないと思います。
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この回答へのお礼

この両者を比較するに頼朝は清盛を見ていたわけで、
いいとこ取りが出来ますよね。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/16 15:34

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