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大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。
有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。

豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか?
また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?

A 回答 (13件中1~10件)

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。

せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。
 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本格的な大砲攻撃を想定して造られた城ではありません。
 織田信長も鉄甲船に大砲を積んで実戦に活用したりしていますので,秀吉が大砲の存在を知らなかったはずはありませんが,当時の大砲の威力からして,その攻撃に備えるために城の造りを抜本的に変える必要性までは感じなかったでしょう。
 小田原攻めに大砲を使わなかったのは,わざわざ大砲を持ち込むのが戦略的に有効でなかったからであり,徳川家康も大坂城の実質的な主人が淀の方でなければ,大砲は使わなかったかもしれません。なお,大坂夏の陣の約20年後に起こった島原の乱では,オランダの協力を得て大砲攻撃が行われたものの大した戦果は挙げておらず,結局は兵糧攻めと人海戦術でようやく一揆の拠点・原城を落としています。
 原城は,有馬氏によって築城され,一揆当時は廃城となっていた小城であり,そんな城を落とすのにも大砲が大した役に立たなかったということは,要するに当時の大砲では,城を物理的に破壊する役割はほとんど期待できなかったということになります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

でも、一発だけなんですか?
大坂城内にいた次女が大砲でバラバラになって死んだという話が残っているのですが、あたったのは
その一発ということでしょうか。

大河ドラマとかだと、けっこう当たっていますが・・(笑)

お礼日時:2012/07/05 16:04

そもそも、日本式の城郭はきわめて大砲に強い構造をしていて、特に対策をする必要性がないというのが正解かと思います。



城壁と違い、石垣は大砲で破壊不可能(石で覆われた山を砲撃してるようなものなので)、かつ、主要構造は半地下、または地下構造となっているので砲撃されてもたいした効果がありません。


朝鮮において明の砲撃が日本式城郭にたいして、ほとんど効果が無かったと言われています。
日本式城郭、いわゆる倭城が朝鮮においてひとつも陥落していないのはこの構造のためです。


当然大阪城に対しても軍事的にはたいした影響はないのですが、天主や櫓などの構造物は砲撃に弱いが、戦闘力が下がるわけではないです。

ちなみに大阪城は大きくて、徳川の陣地から天守閣まで、砲撃が殆どとどきませんでしたが、まぐれで1発届き、恐慌状態に陥った淀君が和睦したってだけですね。
このように婦女子を脅したり、嫌がらせ程度の効果はあったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 16:21

安土桃山時代末期の城郭は砲撃も考慮されて建造されています。


当時の日本の馬は欧米の馬に比べて体格で劣り、大きな大砲を運送する事が困難であった事から、漆喰の壁でもそれなりの防御力が期待できたのに加えて、いろいろな工夫が施されました。
たとえば姫路城の場合、天守など主要部の建築物は砲撃される地点(本丸に最も接近できる、現在の山野井町あたり)からは壁面が斜めになって防御力が向上するように建築され、更に大天守を三つの小天守で防備するように出来ています。
ただし大坂城の場合、水運の発展により大きな大砲を運送する事が可能になり、それが大坂城陥落の一因となりました。
秀吉が大坂を根拠地に選んだ理由の一つがその水運だったことを考えれば、歴史の皮肉と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 16:11

>大阪城は大砲の存在を考えて作られてますか?



1453年、世界一堅固と言われたコンスタンティノーブルの城壁がトルコ軍の大砲によって破壊されて以降、ヨーロッパの要塞はそれまでの高い石の城壁から砲弾の衝撃を吸収出来る低い土塁に変化していきます。
日本の城の場合、堀と石垣が防御の要ですが、これは敵兵の侵入を防ぐためのものであり長射程の射撃兵器に対して天守閣などの建築物の防御は考えられていません。

大阪城も基本的には従来通りの日本式の城ですので、砲撃に対して特に対策されていないと思います。
日本で砲撃に対する防衛を施された城は、五稜郭のような西洋の技術を取り入れて建設された城が出来るまで存在しなかったと思います。
ただし、天守閣などはただの飾りで要塞としての本質は堀と石垣にあると考えれば、16世紀当時の鋳造砲に石垣を崩すほどの威力はありませんでしたから、大砲への対策など考える必要が無かったとも言えます。天守閣など破壊されたところで要塞としての機能は失いませんから。

大阪冬の陣で大阪方が講和に応じたのは、淀君が大砲の威力に怯えたからであり、大阪城の防御能力が砲撃によって削られた訳ではないと思います。




>有効射程距離が4キロから6キロあったとか。

家康は高い櫓を建造して櫓の上に大砲を設置したと言います。
高所から最大仰角で射撃した場合の最大射程が4~6kmあったという事なんだと思います。
当時の大砲で砲弾が真っ直ぐに飛ぶ・・・すなわち直接照準が可能な距離は800m以下です。現代では砲は後方に配置されますが当時のヨーロッパでは砲は最前列に配置するのが普通でした。
有効射程という言葉の定義自体曖昧な部分があるのですが、重量のある砲弾の場合放物線を描いて落下しても十分な殺傷能力がありますから、最大射程=有効射程でもあながち間違いでも無いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

有効射程の話もわかりました。

お礼日時:2012/07/05 16:06

なんだか盛り上がってますねえ。

その大砲は、ブリキトースですね。なんと、幕末の天誅組の変で使われたそうです。

大坂の陣で使われた大砲のうち6門が今の奈良県にある高取藩に与えられ、そのまま「ブリキトース砲」あるいは「権現砲」という名前で保管されていました。それが文久3年に起きた天誅組の変で、天誅組が高取藩の高取城を攻めたため、高取藩の防衛陣地にお目見えしたそうです。150年前の大砲が出てきたんですからすごいというか、なんというか。
攻めかかる天誅組に対し、1門のブリキトース砲が火を吹き、その轟音に驚いた天誅組は大混乱を起こして潰走しました。この戦いにおける天誅組の損害は戦死者が1名(しかも潰走する味方兵に踏まれて死んだ)というのですから、まあ分かりやすくいえば「大砲の音にビビって潰走した」ということになります。
この顛末は司馬遼太郎の短編集「人斬り以蔵」の中にある「おお、大砲」という作品に描かれています。

まあかように当時の大砲というものはその発射音で相手に対して心理的に恐怖を与えるという意味合いも大きかったと思います。

私が富士山麓のスキー場に遊びに行ったとき、たまたま近くの自衛隊の演習場で大砲の砲撃訓練が行われていました。自衛隊の訓練ですから、時々発射音と爆発音が聞こえる程度でしたが、距離はもちろん遠かったのに近くに雷が落ちたような音が響き渡って、意外に怖かったですよ。戦場で兵士がいちばん恐怖というのが敵の砲撃なんだそうですが、それが分かったような気がしました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 16:05

ちょっと面白いサイトがあったので。


http://hya34.sakura.ne.jp/adatisakitama/zyuukaki …

なぜ秀吉は小田原攻めで大砲を用いなかったか。
実はあちこちに小田原方でも大砲を使った、鋳造のために鉄類の
供出をさせたというような文献がみられます。
つまりあることはあったのでしょう。
なにかで小田原がたが大砲の被害を受けた。というのも
読んだような気もしますが。。記憶が定かでない。

ただ、小田原攻めの際に大砲を使えば。というのは戦術眼的には
それはそれでよいのだけど、秀吉からみれば、
小田原攻めはすでに戦争ではなく、政治活動の一環だったことがわかります。
色町まで作って長期戦に備えさせた。これは位攻めが得意な
秀吉にあっても特出した演出であったでしょう。
http://15874488.at.webry.info/200904/article_5.h …
つまり、単純に敵をやっつける。のではなく、
自分の威光を小田原がたはおろか、味方や関東・東北の敵対的な諸将にまで
みせつけるための一大イベントとして位置付けていた。
ということにしないと、あの規模は説明がつきません。

で、他の方の回答にもあるように大筒はまだ圧倒的な威力を誇り
戦局を一変させるような兵器ではなかったのではないか。
もしくは派手好みの秀吉にさえ受け付けられないくらい
たいしたものではなかったのではないか。と思われます。

城の攻防戦は籠城した時点で、味方の救援がなければすでに
負け戦と言うのは当時でも常識だったでしょうから、
大阪城の防衛は豊臣配下の近畿の諸将によっても成り立っており、
川があった、堀があったというのは、あまり本質的な議論ではないと思います。

つまり、大阪城が対大砲防御として、全面に厚い鉄板を敷いていた
としても、その状態(大砲で打ちかけられる戦況)になるようでは
すでに負け戦であり、それは秀吉の想定するところではない。ということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 16:05

完成は1585年です


秀吉は築城の天才といわれた男で 大阪城はかつて石山本願寺があった場所です
ここは信長が十年かかっても落とせなかった難攻不落の地です
だから秀吉は本願寺跡地に大阪城を築城しました

ただ南側の玉造口というところだけは唯一の弱点でした 
なので大阪の陣で真田幸村は玉造口に真田丸という砦を築き
南部を強化したといいます

当時徳川方が使った大砲は セーカー砲やガルバリン砲という南蛮渡来のものです
国産大砲が (1)~(2)キロの射程だったのでかなりの性能といえます

家康は対明貿易をしていたので外国産の大砲は安く手に入ったはずです
ちなみに堺は豊臣の領地でしたが豊臣家は大砲を所有していません

大阪の陣では堀を埋められてしまいましたが
仮に堀を埋めていなくても大砲対策はしていなかったと思います
秀吉が大阪城を築城したとき 大砲は国内に流通していません はずです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
築城の年もありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 15:59

当時家康が買ったのが、カリバリン砲で、有効射程は1kmに満たないですが最大射程は4~6kmあります。


船に向かって狙って打ってあたる射程と、ただ仰角をめいいっぱいとってめいいっぱい弾丸を飛ばせる距離では違います。
弾丸重量18ポンド(8km)で、威力はたかが知れています。
それでは船から船にはあたりませんが、地上から動かぬ建物に向かってならひたすら打ち続ければいつかあたります。
これは大航海時代に広く艦船に普及した、当時としては画期的な射程を誇る砲です。
当時の工作精度は一様ではないため、同じカルバリン砲でも最大射程は砲によって違います。

wikiより
この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられており、また6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)[23]も含まれていると思われる。
^ 『真説鉄砲伝来』 宇田川武久 平凡社 2006年

ちなみに蛇足ですが日露戦争の二十八糎砲はこちらですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81% …
砲弾重量217kg、射程より威力が桁違いですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/05 15:58

> 有効射程距離が4キロから6キロあったとか



いやぁ凄い性能の大砲ですね
日露戦争で使った28cm砲が4500m、クルップ砲で6000mが有効射程なのにそれより300年前の丸弾砲がそんな性能とは…

ちなみに幕末の大砲で2000mですよ
戦国時代の大砲はよくて1000mです
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この回答へのお礼

NHKのヒストリアでは有効射程距離は「6キロ」と言ってました。

4キロから6キロとは何で見たんだったかなあ・・
ただ、ヒストリアの話より短めじゃんと思った記憶があります。


>ちなみに幕末の大砲で2000mですよ
戦国時代の大砲はよくて1000mです

これは間違いでしょうね。
2つのメディアで放送していた内容なので、信憑性が高いかと思います。
(幕末に「主に」使われた大砲が2000mというのは事実なのかもしれませんが)

お礼日時:2012/06/20 12:34

大坂城は二重三重に堀が掘られていますが、北側は淀川を挟んで城外と本丸天守閣が4kmの射程内のため、堀の有無は関係ありません。

また本丸天守閣は一部鉄板が張られており、城主を守る防御はされています。
そもそも大砲にびびり降伏したのは堀を埋められる前の冬の陣であり、その時点では堀は健在です。

またヨーロッパの都城と違い日本の城は堀の内側に壁があり壁が大砲で一か所穴があけばそれで防御線が破られるわけではないので、基本的には大砲に対する備えは初めからできていることになります。
士気の低下は問題ですが、城の防御自体は日本の城は当時の大砲ではびくともしません。

上記の通り大砲は結局淀の方を驚かせること以外戦略的にはたいして役にたたないので、小田原城相手に使うのは無駄でしょう。相手が淀の方だから大砲が役に立ったのです。
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