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以前、スパルタ失敗したと習ったのですが、条件さえそろえば成功してもおかしくない気がしますが、実際、どの様に考えても、失敗する様な政策なのでしょうか?

A 回答 (4件)

はじめまして



スパルタ史で最も優秀な軍人王であったアゲシラオス(2世)とマケドニアのフィリッポス、アレクサンドロス大王父子を主に例に取ってみます

アゲシラオス王はアレクサンドロスのペルシア遠征に先立つ約60年前に小アジアのギリシア都市を解放するため軍を起こしました
アゲシラオスは事前にアテネ(アテーナイ)やテーベ(テーバイ)等にも出兵を促しましたが拒絶され
スパルタ市民(スパルティアタイ)30名、ペリオイコイに格上げされた解放されたヘイロタイ2000人のラケダイモン人とペロポネソス同盟都市軍6000人のみで出撃しました

一方、マケドニアは反抗するギリシア都市を打ちのめしテーベを徹底的に破壊し従属させました

→スパルタはヘラス(古代ギリシア)の一員であり、例え対立していても都市の独立を遵守した
マケドニアは征服者としギリシア諸都市を制圧しアレクサンドロスを始めマケドニアの将校の多くはギリシア人を見下していた
ペルシア遠征で帝国の財宝庫のあったエクバタナを占領しギリシア人に戦利品を与えるととっとヘラス同盟を解散して
残ったギリシア人傭兵も遥か東方のアレクサンドリアに棄民同様に残置したのです

アゲシラオスは小アジアでペルシアの太守ティッサペルネス、パルナバソスらを完膚なきに打ち破り、ペルシア本土への侵攻も企図していました

→しかしながらスパルタの人口では補充がこれ以上きかない
元々スパルタの専業軍人たちは隷属したヘイロタイの反乱に対する防衛的な備えであり
スパルタ市民も人口が昔から殆ど増えなかった


アテネのコノンがパルナバソスと通じアテネ、テーベ等に反スパルタ蜂起を扇動させアゲシラオスは帰国を余儀なくされたが
制海権はペルシア・アテネ軍に取られていた為、テッサリア騎兵の攻撃を巧みな戦術で敵中突破して陸路で僅か1ヶ月で戻り
スパルタの敵を次々破った(コリントス戦争)
しかしアゲシラオスが指揮しないスパルタ軍は劣勢だった
それどころか本国のアンタルキダスがアゲシラオスが折角解放した小アジアのギリシア都市の支配権を条件にペルシアと講和してしまった

→スパルタは二王制であり、必ずしも双方の王の意図が一致していない場合があり、時には対立することもある

全てを書き込む事出来ませんがスパルタのデメリットな点を幾つか挙げてみました

長文失礼致しました
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それなりに「成功」した時もあったようですが、いろんな要因で市民数が激減し、膨大な借財を抱え、没落市民が増え、独自の制度が崩れてしまいました。


ご参考までに、スパルタのやさしいミニweb講座を…

参考URL:http://www.j-cast.com/feature/kwu/chapter12/
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一回は成功しているんです。

ペロポネソス戦争でアテネをやぶり、ギリシア世界、つまり当時の西欧文明の盟主となりました。

国民皆兵の少数精鋭軍事国家というのは、統治範囲が適当な大きさなら機能するのです。国民の数、つまり兵士イコール軍事力で押さえることができる範囲なら、軍イコール国民の利益、にかなう行動をとっていればいいからです。
二次大戦のスイスがそうでして、ナチスとも連合国とも通じながら、国民皆兵を敷きそのせいでナチスも連合国も軍事的には手をだせず、貧乏でしたがそれよりひどい戦争には巻き込まれませんでした。ナチスは「タンネンバウム作戦」の名でスイス侵攻プランをたてていましたし、連合国軍は意図的にスイス領内を「誤爆」していましたが、それでも戦争は軍事立国化でさけることができたのです。


さて、覇者になったスパルタですが、統治しなければならない範囲がひろがって、軍事力が分散します。
そして、覇者のところには富が流れ込むのは世の常ですが、スパルタの「スパルタとして望ましいライフ・スタイル」である質実剛健と、カネ、は相性がよくないわけですね。で、人間、カネ・物がきて景気がよくなれば、戦争も兵役もイヤになるし、貧富の差もできます。スパルタ的ライフ・スタイルが大きく損なわれることになりました。

軍事国家が、「腐敗した軍事国家」になったら、弱くなるのは目に見えています。アテネ陣営との戦争に勝てなくなります。マケドニアがギリシアに介入し、これでギリシャ諸ポリスが打撃をうけたあとで、共和制のローマが本格的に介入以上のことをしかけてきて、紀元前146年にギリシア全域がローマの属州となりました。
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  五万人足らずの征服者市民が、五倍以上の被征服者奴隷を支配するというスパルタ特有の体制でのみ


有効なもので、それも時勢の流れで、時代遅れとなりました。
 時代が実証しています





 紀元前395年、スパルタに対してアテナイ、アルゴス、テバイらが挑戦し(コリントス戦争)、両陣営は一進一退の攻防を繰り広げたが、ペルシア王アルタクセルクセス2世の仲介の元での大王の和約によって戦争は終わり、スパルタは海上での覇権をアテナイに引き渡した。その後、エパメイノンダスとペロピダスに率いられたテバイとの対立が激化し、紀元前371年のレウクトラの戦いでエパメイノンダスに率いられたテバイ軍にクレオンブロトス1世率いるスパルタ軍は破れ、スパルタはギリシアでの覇権を失った。紀元前4世紀中頃からピリッポス2世の元で強大化したマケドニア王国がギリシアでの影響力を強め、アテナイやテバイはそれに対抗していたが、スパルタはそれには加わらず、ついにマケドニア軍がカイロネイアの戦いでアテナイ・テバイ軍を撃破すると、マケドニアの主導でコリントス同盟が組織され、マケドニアのギリシアでの覇権が確立した。しかし、スパルタはこの同盟に加わらずに反マケドニアの態勢を貫き、紀元前331年にはアギス3世のもとでマケドニアに反乱を起こしたが鎮圧された(メガロポリスの戦い)。セッラシアの戦いやマンティネイアの戦い、ナビス戦争に各々敗北。この時期に名実共に独立国家としての地位を失った。紀元前146年にローマはアカイア同盟をコリントスの戦いで破ったのを機に、スパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込んだ。
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