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歴史化カテゴリーの松永久秀と明智秀満の違いから、新しい論点は発展したので、投稿します。戦国時代には軍師はいないという説があるようです。日本でなく中国に舞台を移します。日本で中国の軍師というと諸葛孔明が有名ですね。日本の戦国時代に「三国志」という書物は存在したのでしょうか?秀吉が竹中半兵衛を「三顧の礼」で迎えたという逸話は有名ですね。また、中国の兵法書の「孫子」は日本に輸入されていたのでしょうか?「孫子」を書いた呉王闔閭に遣えた孫武の作とされますが、孫臏(そんぴん)の作とも考えられていると本で読んだことがあります。少なくとも、大河ドラマを見る限るは、戦国時代の大名の子どもを勉学は「論語」の子曰くという勉強をしているシーンが思い浮かび、時代考証が正しければ、日本の戦国時代には「論語」はあったと考えられます。とすれば、「三国志」「孫子」などの書物もあり、国を治めるために、中国に倣って戦に軍師というものの存在が必要で作ろうと考えたのではないかと思われます。日本人だけでなく在日中国人がこの投稿を見ていたら回答してくれることは歓迎です。

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A 回答 (11件中1~10件)

軍師というのを、漢籍を元に、戦国時代の武将に知識の伝授を行う


というのであれば、京都五山の僧、関東の足利学校の学生がそれにあたります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …

他の方が挙げられている太原雪斎が京都五山の僧だったり
6代将軍義教選びで「くじびきでOK」とした 満済とか(この人は京都五山ではありませんが、高僧という知識層であるという意味では、同類かと)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B8%88

山本勘助が足利学校で学んだという伝説があるのも、「軍師は足利学校で学ぶんだ」という江戸時代初期の常識からつくられたものと思われます。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoon …
991年の段階での引用一覧
三国志もありますね

史記 漢書 三国志 晋書 とある
論語も無論リストにあります

前に戻ると、足利学校などでは、漢籍の教授をしていたそうだ


おまけ
日中では、戦乱の凄さが違う。人口があっという間に十分の一くらいになるのが中国で、書籍に関しても、中国では書籍リストに残っているが原本がないというのが、日本にはあったりするそうだ。
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この回答へのお礼

これだけ、まったく知らなかった回答をしていただきありがとうございます。論点がぶれそうなので、今日はこれくらいにします。また歴史が好きな方々と話しをするのを楽しみにしております。皆さんも興味ある楽しい話の論題の投稿をお願いいたします。

お礼日時:2012/09/08 16:19

すみません あの質問締め切っちゃいましたね


戦国時代における軍師とは戦場で大将の傍らにいて作戦をたてる軍略家のことととらえています
竹中半兵衛 黒田如水 山本勘助 太原雪斎 片倉小十郎 らが有名です
彼らは軍師でしょう

一方で軍師を使わずに忍や患者を使って策略を練ったのが毛利元就や真田幸村です
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この回答へのお礼

なるほど、しかし今回はベストアンサーを出したところです。azuki-7さんからの投稿からこれだけの話しが展開しました。また、歴史好きが寄り付きそうな話題を投稿してください。

お礼日時:2012/09/08 16:27

 戦国時代に、軍師と呼ばれるひとたちは、いました。


ところが、我々が戦国時代を思うとき、竹中半兵衛とか黒田官兵衛とか太原雪斎とか、名参謀的人を
これぞ、軍師と思うのですが、それらと、実際に軍師と呼ばれた人がしていたことは、少し異なります。
(広い意味で幕僚の仕事ですが)

 日本の中世の軍師は陰陽道の影響を受けた占星術、易などの占術を学び、合戦における縁起担ぎを取り計らう者であったと言われる。
仏滅とか六曜を見て、戦の日取りを進言したり、士気を高める民ため加持祈祷したり。
 それこそ、三国志演技や水滸伝の影響か、軍師は神通力があるということになったいました。
(実は仏滅以下の六曜は、いくさをするのに、良い日付を調べるため孔明が発明したんだそうな\(^^;)...
 大河ドラマ「信長」の織田家の軍師加納随天(フイクション描写多いけど)あたりが
戦国時代の人が軍師と呼んでいたイメージですね。


 江戸時代になって、軍学者さんが、山本勘助、宇佐美駿河守定行、太原雪斎、立花道雪などの伝説的な武将
を自分たちの軍学の始祖である戦国の軍師として宣伝したり、
軍記物講談読み本で大活躍したので、
現在の戦国の軍師のイメージができました。
 
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この回答へのお礼

初耳の興味ある回答ありがとうございます。陰陽子のような方角で戦国武将が占ったという話しは、節分の恵方巻きのいわれや、毛利元就が日にちの悪い日に出陣し、今日は戦がないという安心していた敵方を奇襲という話しは本当でしょうか?伝説は楽しいですね。

お礼日時:2012/09/08 15:56

日本書紀には神功皇后を「卑弥呼」と見なすが如き記述が見られます。


七世紀、藤原の宮時代には史記、三国志、魏志等の歴史書その他漢詩文学など、多くの文献が遣隋使、遣唐使などによって仏教法典と共に持ち帰られたようです。これらの正使以外にも、民間交易を通じて多くの文物が伝えられていたと言うのが、現代の歴史観のようです。
軍師という正式な位置づけの武人が召し抱えられていたかは疑問も残りますが、多くの戦国武将は進んで寺院を建立し、高僧を招いて学問の指導を受けていたと考えられます。
当時の僧侶は、国内最高の学者でもありました。治世のあり方から治山治水、農耕、土木技術、軍学なども中国の書籍から、僧侶を通じて学んでいたのが実態かと思われます。
囲碁や能楽、書道、和歌、漢文などの素養も、武人の必須の要件であったとも言われます。
軍師を必要とする以前に、軍人としての素養こそ戦国武将たる資格要件であり、その陰に博学の僧侶が居た。中国の文献は多数輸入され、その書写や訓点の作業は修行僧の主たる学業であったと思います。
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この回答へのお礼

発耳です。遣隋史時代から、日本にもたらされたかもしれない!しかし中国から日本に来た、中国人の鑑真和尚なども意外に持っていたかもしれません。日本の最古の大学は比叡山と考えてよろしいのでしょうか?西洋の中世の大学より古い。しかし、三国志では、軍師を必要としない文武両道の武将は曹操ですね。中国の正史「魏史」では評価されてますが、日本では悪役です。これからの日本のリーダーの資質とは?

お礼日時:2012/09/08 15:42

>武田の軍師とされる山本勘助は架空の人物で(名前のモデルとなる物はいたらしいですが)



というのは誤解を招きやすい表現ですね。正確には、山本勘助は実在の人物です。ただ、軍師とよばれるような存在だったかどうかは疑問、というのが現在の研究が示すところのようです。

柴木俊六「信玄の戦略―組織、合戦、領国経営」(中公新書、2006年)の74ページには
「さらに虚像として検討すべき問題として、信玄の軍師役として登場している山本勘助の存在がある。近年では実在した人物と認知されているが、一時期には「甲陽軍鑑」の創作した人物との評価があったくらいである。その勘助がこの合戦の作戦を信玄に進言した形になっているが、ほかの確実な資料上ではほとんどみられない人物である。しかし、実在したことは確かであり、弘治三年六月二十三日付けの北信の地侍である市河藤若に宛てた信玄書状に、口上の使者として「山本菅助」の名がみえているので、信玄の身近に仕えて、使い番を勤めるような立場であったことは確認されている。」
とあります。
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この回答へのお礼

面白そうな本の紹介ありがとうございます。会社の経営をされていらしゃるのでしょうか?私は、山本勘助は情報収集をする忍者のような人物という可能性も考えています。伝説から想像するに今川領からの放浪の旅で見聞を知り、人脈なども他国に作ったのではないでしょうか?武田信玄にはそういう片腕が必要で、忍者なので以外に偽名を使っていたかもしれません。マーケティング部長?

お礼日時:2012/09/08 15:16

>日本の戦国時代に「三国志」という書物は存在したのでしょうか?


古代の時点で伝来していました。
>秀吉が竹中半兵衛を「三顧の礼」で迎えたという逸話は有名ですね。
これは江戸時代の創作です。
>中国の兵法書の「孫子」は日本に輸入されていたのでしょうか?
国内で広く読まれていたようです。おそらく伝孫武著のものでしょう。
>、「三国志」「孫子」などの書物もあり、国を治めるために、中国に倣って戦に軍師というものの存在が必要で作ろうと考えたのではないかと思われます。
軍師という存在が記述されているのは「三国志演義」であって「三国志」ではありません。当時「三国志演義」が伝来していたかは不明ですので、戦国武将が軍師という存在を知っていたかどうかがそもそも怪しいのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。初めて聞く話です。奈良時代の平城京などの升目の都作りなど、日本は中国5千年(伝説の夏王朝は存在?)からの文化の輸入をしてました。しかし、広い大陸の中国での戦い(兵数の多さも半端でない)と日本の狭い山が中心の国土での戦では戦術も変わると思われ、かなり、日本の武将により、もとの「孫子」の兵法から独創的に改変されたんのでは?日本のお家芸か?

お礼日時:2012/09/08 15:02

軍師という明確な存在は日本の戦国時代には存在しなかったと記憶しております。


戦国時代にまつわるエピソードは、殆んどが江戸時代になってから結果論だらけの軍学により脚色、歪曲されたものであまり信憑性は無いようです。
武田の軍師とされる山本勘助は架空の人物で(名前のモデルとなる物はいたらしいですが)、軍師としての宇佐美定満もまた後の物語において対極として創作されたものらしいです。
孫子ですが、武田信玄の風林火山は孫子の一節です。当時からあったのは間違いないですね。
余談ですが、戦国最強といわれる武田氏は隣の北条、上杉、織田に比べて兵力、経済力、戦略眼において明らかに劣っていました。しかし、後に徳川に吸収され幕府の中枢に人材を供給したことから過剰に持ち上げられたことが考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。疾きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし。経営者の社長に求められそうな実行は難しい言葉ですが、この言葉は山本勘助と武田信玄が一緒に考えたのではなく、武田信玄が一人で考えたものですかね。武田信玄はワンマン社長?

お礼日時:2012/09/08 14:51

諸葛亮も丞相という大臣



戦国大名も何も総ては「地方独立行政組織」です。

何を勘違いしてるのかわかりませんが、近代のように「参謀」職が当時からあったわけではない。

孫武も行政官僚の一人にすぎない。

軍師と言われる人間は作戦具申の得意な武士(官僚)に過ぎない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なるほど行政官僚にすぎなというお考えですか。確かに、諸葛孔明もあんな、独創的な戦いの戦術を練る行政官僚ではなく、戦ではなく政治的な考えに長けた官僚だったという話を聞いた気がします。もう少し皆さんの意見を聞きたいので、この「行政官僚」に過ぎないという考えも取り入れましょう。

お礼日時:2012/09/08 08:58

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD% … には、以下のような記述があります。

『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。
天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。
天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。

ということなので、両者とも奈良時代には伝わっていたと言えます。

 なお、日本の軍師については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B8%AB にまとめられています。

日本 [編集]
太原雪斎 - 今川義元の軍師
山本勘助 - 武田信玄の軍師
宇佐美定満 - 上杉謙信の軍師
角隈石宗 - 大友宗麟の軍師
竹中重治 - 豊臣秀吉の軍師
黒田孝高 - 豊臣秀吉の軍師
島清興 - 石田三成の軍師
片倉景綱 - 伊達政宗の軍師
直江兼続 - 上杉景勝の軍師
川田義朗 - 島津義久の軍師
多目元忠 ‐ 北条氏康の軍師
鍋島直茂 - 龍造寺隆信の軍師
傑山雲勝 - 本庄繁長の軍師
沼田祐光 - 津軽為信の軍師
明石全登 - 宇喜多秀家の軍師
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。正確には「三国志」ではなく「三国誌演義」ですね。吉川英治の「三国志」はたまらなく面白く、学生時代、寝るのを忘れて読みましたが、劉備が中心に書かれているのは、吉川英治が日本人には劉備のような人物が心に響くとされ書かれたようです。「三国志演義」はさすがに読む時間がありません。

お礼日時:2012/09/08 08:49

>日本の戦国時代に「三国志」という書物は存在したのでしょうか?



『三国志』の日本伝来時期は、正確には判明していないようですね。

ただ、奈良時代の古い書物には、「登場人物」の名前や「諸葛亮の陣形を模した」などの記述が散見出来るそうですから、「全て」とは言えないまでも「部分的には伝来していた」と考える事は出来るようです。

「孫子」に関しては、ご参考までに。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.B8.E3.81.AE.E4.BC.9D.E6.9D.A5
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。川中島の戦いが武田信玄が鶴翼の陣、上杉謙信が車懸の陣で臨んだのが正しいとすれば、中国の書物が日本に伝わり、陣形を考えるのに、参考にされていたのでは、?「孫子」は読まれていた。「三国志」も?

お礼日時:2012/09/08 08:43

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