痔になりやすい生活習慣とは?

高すぎません?

娘を売る士族も大勢いた中
そりゃ恨み買って暗殺されるのも仕方ないと思ったんですが
文献によると大久保卿は資産も無く多額の借金が有ったとか

何に使ったんですか?

国の為に使うなら高給を取らずに国の予算を使う方が良いと思うのですが
そんな簡単な問題では無いのは解りますがどなたか教えてください

ヨロシク(゜0゜)(。_。)ペコッ

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A 回答 (3件)

大久保利通の暗殺関係なら、ウィキペディアをお読みください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE% …
当時、失業士族が不満を持っていたことは間違いないですが、明治政府の高官の報酬俸禄が高いことに文句があったわけではありません。もともと、幕藩時代でも士族でも、農民でも、商家でも、数桁違う収入や資産差があるのが当然で、そのようなことで恨みをもって暗殺するなどの傾向的な動きはありません。
人間は恋の恨み、昇進の恨み、借金の返済を求められた恨み、面子を潰されたと思い込んだ恨みでも殺人を犯す場合がありますから、何を恨んでも不思議ではないです。
しかし、大久保利通暗殺を、有司専制に文句があったためと考えるのは、どう見ても勘違いでしょう。職業軍人として士族が地位や活躍の場を確保出来なくなってしまった不満の爆発でしかないでしょう。
 
大久保利通の借金は公私混同のためのようですが、公に大久保利通が私のカネをつぎ込んでしまったということに不満を第三者がもつことはないでしょう。
中小企業経営者が自分のカネや資産を企業につぎ込んでしまうこともしばしば見かけることです。企業や役所のカネを私する人が100人いると、10人くらいは自分のカネを業務の費用に費やす人もいます。
 
一般的に、大きな企業では、トップ層~一番下には数段階あり、それぞれの段の中でも報酬所得に差があります。トップと一番下では10倍程度あるいはもっと大きな差があるのが普通です。スポーツや長者番付などでも、年間数億円の話題がでることもあります。大きな組織で高位のものがそれなりの報酬を得るのは、ほとんどの社会で一般的なことです。
 
人口が明治に3500万人(1家族3代で7人家族だと500万世帯)あるとして、高級官僚1万人で平均の50倍の報酬だとして、その上澄み分は総額では大した金額になりません。国民全体の税率にも大した影響がある状態にはなりません。
ちなみに日本の官民給与の格差は、明治初期31倍から戦前8倍くらいに下がっています。
これは製造業男子とオフィス公務員の差のような面もあるので、同業(似た仕事内容)では状態が違うでしょう。それにしても、公務員の給与は急速に下がって、戦前でも普通のオフィスサラリーマンに近い給与になっています。
http://www.mof.go.jp/public_relations/finance/f2 …
上のPDFの図表7に給与水準の各国比較(課長以下)があり、ドイツ、アメリカ、イギリスに比較して、課長レベルの給料の低さが目立ちます。フランスと同程度ですが、全体の傾向と
して、日本の公務員給与水準は、欧米よりいずれも低水準で、特に内部のランクでの差が少なくて、上位級ほど相対的に低水準となっているようです。

差が少なくて良いじゃないかという考えもあるでしょうが、公務員が地方や国のインフラや組織の整備、経済や教育などの枠組を作っていく思考検討調整の仕事をするのだということを考えた場合、かなり問題だと思います。
相当やっかいな頭脳労働をする人の給料や処遇が、中小民間企業などのトップよりも低い、大手企業の幹部の処遇には及ばないということになれば、優秀な人材は最初から民間企業に流れ、安定就職で競争が少ないが給料はそこそこの公務員を目指す優秀な人材はいなくなります。それって、碌でもない状態になると思うのが普通でしょう。後進国、低開発国ほどではなくても、高級官僚・高位の公務員には、運転手や使用人を自腹で雇え、別荘も持てるくらいの処遇はしようとすることが多いでしょう。
ただ、人間は個人個人ずいぶん違いますから、給料が少なくても一所懸命に仕事をする人もいます。高給を得ても贅沢やレジャーに見向きもしない人はいます。医者に高所得が可能な制度作っても、贅沢に一心不乱になる医者ばかりでなくて、よく体が持つものだと思えるほど仕事をする医者もいます。しかし、給料や報酬を下げてしまって、その国、その社会の制度が長くうまく続くかというと、そうはならないでしょう。
 
社会制度としては、(高給を渡さず、給料は抑えて国の予算を使う方が良い)ということはまずないです。
一部のキーパーソンには(高度の能力を持つ人がなり、私腹を考えず、全体のために懸命に頑張っていただきたい)と思うのであれば、そのキーパーソンには、下位の数十倍程度の処遇をだすことは必要でしょう。
「明治の官僚の給料」の回答画像3

この回答への補足

ご紹介に有るページは私も質問を建てる前に見ています^^;;

確かに当時貧富の差が当たり前だった事は解りますが
新政府の高官は農家の出だったり下級武士が多く含まれます
由緒正しき名家の士族から見れば明らかに成りあがり
真否の程は解りませんが島津公は大久保卿にあくまでわしの名代
主君より上の地位に着くのは謀反であろうと言ったとか
そう言った大名や譜代の士族は多く居たと思います

また私財を投げ打って公共事業を成し遂げた偉人が多く存在した事も解りますが いくらなんでも年収が今の金額にして億を超える人が多すぎると思われますもう少し現実的な金額にしてその分を公共事業に使った方が良いのでは?と感じてしまいます。

確かに諸外国の圧力など一刻の猶予もならない混沌の時代 議会を通すより個人の資産でやった方が早く良い事もあると思いますが それでは議会政治の意味が無い 

やはり高すぎたのではとどうしても感じてしまいます

補足日時:2012/10/07 17:18
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この回答へのお礼

ご丁寧で詳しいお答有り難う御座います<(_ _)>

お礼日時:2012/10/07 17:02

そう任官 明治時代の俸給については、下記資料がいいデータを提供しています。

勉強になりました。http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm

 なお、大久保利通や伊藤博文は華族であり、政治家でもあったので、官僚の範疇には入らないと思われます。また、高給であったことは確かですが、資料に示された通り岩崎家など財閥のトップに比べるとささやかなものでした。

 仮に奏任官以上の高等官を官僚とすれば、月俸は最低でも100円、広い屋敷と数人の奉公人を抱えるのが普通でした。教員の初任給が20円以下であったのに比べると、厚遇されていたといえます。しかし、人件費や地価が安かったので、現代の水準で比較することはできません。途上国に赴任した商社の社員だと考えた方が近いでしょう。

 さて、少数のエリートがリードする時代には、それなりの処遇が必要であったと考えられます。人材を集めて国のために役立たせる以上の予算の使い方とは具体的どういうことでしょうか。

この回答への補足

大久保卿は下級武士 伊藤は農民やっぱ士族の反感を買うのは否めない気が・・・

当然書生を大勢養いそれなりの出費が必要で有った事は容易に想像できます しかし年間今の金額にして数億を超える金が必要でしょうか?

そんな金が有るのなら国立の教育機関や公共工事に使った方が有意義だと思います

また岩崎弥太郎は土佐藩士の頃から藩の事業を行い 明治に成ってからも新政府の仕事で大儲けをした人です 当時の政府でも問題に度々成っています 三菱財閥に流れた金も 古今東西なんの変わりも無く繰り返される問題ですがもう少し運用の仕方が有ったように感じられてなりません

補足日時:2012/10/07 17:50
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この回答へのお礼

お答有り難うございます

お礼日時:2012/10/07 17:30

高くするのは、官僚のエリート意識を刺激


するためです。
ここにいうエリート意識というのは
「我々官僚は偉いのだから、身を捨ててでも
 国家、人民の為に尽くすのだ」
という意味です。

つまり、官僚は天皇の官吏として、下々の上に
ある存在である。
政治家などは選挙区の代表、つまり国民の一部の
代表に過ぎないが、我々官僚は天皇の下、日本
全部の国益を図る立場にある存在である、
という良い意味での
エリート意識醸成の為の手段です。

こういう意識があったので、日本はアジアでは
珍しく、汚職が少なかったのです。
汚職などは天皇に対する罪として絶対に許せない
という意識が強かったと言われています。
その反面、職権乱用罪が多かったのです。
日本以外の中国、韓国などのアジア諸国は
悪い意味でのエリート意識しかありませんでした。
それであのような汚職大国になってしまったのです。

民主化された戦後は、官僚は公僕となり、建前上は
国民に仕える身分となったため、汚職が増え、
職権乱用罪が減少しました。
汚職が増えたのはエリート意識が中韓のそれに
近づいた為です。

この回答への補足

(´ヘ`;) う~ん・・・

それも解るのですが それにしても高すぎません?

補足日時:2012/10/07 17:26
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この回答へのお礼

お答え有り難うございます

当時の武士は主君から貰った俸給は公の為に使う物という考えの方が多かったのは事実でしょうね確かに他の国に比べ汚職は少なかったと思います

勉学中に頬にとまった蚊をはたいたら 公の場の勉強中に痒いからと言って蚊をはたくと言う私事を行うとはけしからんと厳しくしつけられたって逸話は松陰でしたっけ?

お礼日時:2012/10/07 17:25

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Q明治政府の要人の俸給

 調べてもよく分からないのでウロ覚えで
質問します。

 薩長はゼニ儲けのために天下を獲ったのか、という
話もありますが、時の政府要人はかなり貰ってたと
聞きました。

 例えば総理大臣の年俸は現在の貨幣価値で4億円とか、
ここがウロ覚えなのですが、”ハコ”と言って一つの職務は
いくらという風に、西郷隆盛を例にとると、参議ではこれだけ、
陸軍大将ではこんだけ、○○ではなんぼ、××ではいくら・・・
と、その肩書き分をプラスして”ハコ”の数を増やして貰えるだけ
貰って月給1千万円になったそうです。

 西郷さんを例にしましたが、西郷さんは「子孫に美田を
残さず」という人ですから、どれか一つだけもらって、あとは
辞退したらしいですが。

 東日本大震災の復興費用にと、国会議員の歳費を減額
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政治家=カネでしょうか、嘆かわしい。

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潔白なカネなら辞める必要ないのにねぇ。

 一応歴史カテなので、明治の政府要人等の俸給の事情を
お教え下さい。(今の政治家のカネ事情を愚痴る方は
独り言ならいいんじゃないでしょうか)

 調べてもよく分からないのでウロ覚えで
質問します。

 薩長はゼニ儲けのために天下を獲ったのか、という
話もありますが、時の政府要人はかなり貰ってたと
聞きました。

 例えば総理大臣の年俸は現在の貨幣価値で4億円とか、
ここがウロ覚えなのですが、”ハコ”と言って一つの職務は
いくらという風に、西郷隆盛を例にとると、参議ではこれだけ、
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下記のサイトによると、明治7年の太政大臣の月給が800円です(当時はまだ総理大臣がいなかった)。
また、現在の物価は明治初頭の1万倍くらいらしいです。ただし、大工さんの日当で比べると3万倍かそれ以上とも言われます。当時の大工さんはどうやって生活していたのでしょうか。
「公僕の俸祿たてよこ(上)」のグラフ「図表13 明治以降の民間給与と公務員給与の較差の推移(製造業男子との比較)」は興味深いです。明治15年の勅任官の給与は、製造業男子の63倍にもなっています。また、公務員内部でも格差が甚だしいですね。道理で、明治大正の小説などを読むと、勅任官だの判任官だのという言葉によく出くわすわけです。ちなみに、主計局主計官というのは財務省の中でもエリートコースです。

明治の官制度・物価
http://www.irisiomaru.com/materials/meijiorg.htm
〔引用開始〕
兼任は、給料を重複して支給されていたようです。
〔中略〕
表で明治7年を10000円と置いたのは、このときに明治2年の値が、幕末から算定した現在換算価値の12000円に最も近くなるためであり、明確な基準があるわけではありません。
〔引用終り〕

明治人の俸給
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm
〔引用開始〕
官吏の俸給表の一部です。 明治8年9月の『官員録』から作成しました。
〔引用終り〕

国立国会図書館リサーチ・ナビ - 過去の貨幣価値を調べる(明治以降)
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php

公僕の俸祿たてよこ(上)(神田眞人・主計局主計官)
http://www.mof.go.jp/public_relations/finance/f2207e.pdf
〔引用開始〕
明治の当初は、国家公務員の給与については身分給的な性質が強く、一定の較差は当然という考え方が取られていたが、
〔引用終り〕

森鴎外『ヰタ・セクスアリス』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html
〔引用開始〕
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Q武士と公務員の違い、及び、武士の公務員化について。

江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。
したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。
しかしながら先祖代々一所懸命であるはずの武士が立派に無私の公務員として機能していました。無私(無家)というのは武士の感覚には馴染まないと思います。国家というように国を家に見立てたのでしょうか。そんな理屈に納得できますでしょうか。良くも悪くも公務に望むにあたって今日の公務員では考えられないような信条的障害もあったと思いますがその事例などありましたら教えて下さい。いわば今日ではふつうだが、元武家に、それは合点できないという類のものです。
徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。安直な結果論的説明で済ませられるほど簡単な出来事ではないと思います。アイデンティティーのために命を張ってきた武士がアイデンティティーを放棄しました。武家を廃するのですから武家としていわば究極的に無責任な生き方を選んだのです。
その豹変についての説明は真剣に成されるべきだと思いますので、自分の家の歴史を重んじる武家になったつもりでお答え下さい。
またその理解のために、(1)江戸時代の武士と、(2)明治初期の公務員と、(3)現代の公務員との違いについても歴史的変遷をまじえて、各時期の当事者の心理・信条がイメージできる形で教えて下さい。

よろしくお願いします。

江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。
したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。
しかしながら先祖代々一所懸命であるはずの武士が立派に無私の公務員として機能していました。無私(無家)というのは武士の感覚には馴染まないと思います。国家というように国を家に見立てたのでしょうか。そんな理屈に納得でき...続きを読む

Aベストアンサー

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側の諸藩が佐幕派の藩に進軍したりしており、多くの佐幕藩は新政府側に降伏しています。さらに新暦の明治二年1869年の6月27日に箱館戦争で榎本武揚らが降伏するまで、東北地方を中心に戊辰戦争は続くわけです。西日本を中心に降伏した藩は多かったわけですが、全国規模での内戦に新政府はともかくも勝利したわけで、その勢威は全国を圧していたと考えられます。また、版籍奉還・廃藩置県に至る過程では、維新に功績のあったものに対しては賞典禄を支給し、さらに大名・士族には石高・俸禄に変わり家禄を減額しつつも中央政府支給に改めて、俸禄制度(賞典禄・家禄を合わせて秩禄という)を維持しています。そのような優遇策のもと薩長土からの御親兵の武力を背景にクーデター的に廃藩置県を断行し、藩を廃止し、版籍奉還後に知藩事になっていた旧藩主を罷免し東京移住を命じ、旧藩士も藩の解体とともに失職することになるわけです。とても返上というような状況ではなかったと思います。しかし、華族となった大名とともに士族は失職はしても収入である秩禄はある状態ですので、この段階では大きな反乱には結びつきません。これは、前記したように幕末多くの藩で財政的に行き詰まり、さらに幕末・維新の動乱の戦費等の出費で各藩の財政は危機的状況に追い込まれ、廃藩置県以前に廃藩を申し出る藩主がでたり、財政危機の中、藩札をはじめ債務を政府が肩代わりすることから歓迎する藩も多くあったような状況がありました。そのように考えると封建制度は限界にあったのかもしれません。また、フランス革命などを見ても旧勢力が全面的に反革命に走り、内戦に至るほど革命政府に反することは稀です。戊辰戦争という旧勢力との内戦の勝利が実質的に廃藩置県を招来したのではないでしょうか。
なお、士族の反乱は、戊辰戦争に官軍として加わった士族の中に新政府の中でその主張が反映されず、武士の特権や俸禄が処分されることに対して不平を抱くことが多く、明治6年の征韓論はこのような勢力を背景としたものでした。征韓論で敗れた勢力はその後二つの流れを持ちますが、一つが板垣退助らの自由民権運動への流れ。二つ目が武力蜂起の流れです。明治7年の佐賀の乱は例外ですが、敬神党(神風連)の乱から西南戦争に至る士族の反乱・内戦は全て明治9年の廃刀令と秩禄処分後に勃発しており、それだけ俸禄の廃止は大きいことだったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E5%8F%8D%E4%B9%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
明治期の公務員についてですが、そもそもこの時期に公務員という用語が適切であるかは議論のあるところだとは思います。明治から戦前までは「天皇の官吏」、戦後は「公務員」とする方が違いがはっきりするように思います。官尊民卑などの言葉に代表されます。この件に関してはwikiの官僚制の中の辻清明の説が端的に言い表していると思います。
大日本帝国憲法(明治憲法)はその中で
第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
と規定しています。これは官制大権と呼ばれ、「天皇の官吏」の裏付けとなる条文ですが、憲法の成立以前から状況としては同じで、将軍の座に天皇が代わってすわり、支配・被支配の関係は変わりませんでした。将軍と臣下の関係の親疎が御目見・御目見以下で分けられるように、天皇と官吏の親疎も、親任官・勅任官・奏任官(以上が高等官)・判任官の区別が存在しました。
国民との関係も江戸期からの流れを引き継ぎ、為政者として上から目線でした。権力の最下部機関である巡査が「おい、こら」と国民に対したことにその一端が現れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%90%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98

以上、長くなり、期待通りの回答にはならなかったと思いますが、参考まで。

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側...続きを読む

Q明治20年代の100円の価値は 現代ではいくら?

昨夜、NHK で宮崎あおいちゃん主演の オペラ蝶々夫人の「蝶々さん」を

みてたのですが、100円で 娼妓に売られる、、という内容でしたが、

明治20年代の100円って 現在でのいくらくらいになるのでしょうか?

Aベストアンサー

たとえば『長崎県統計書 明治20・21年/長崎県』によれば、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807980/164
「精米(1石)…(明治19年)6円47銭1厘(明治20年)5円98銭3厘(明治21年)5円73銭1厘」、
一方『東京府統計書 明治21年/東京府』では、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/116
「精米(1石)…(明治19年)6円39銭(明治20年)5円37銭(明治21年)4円98銭」と
若干地域差があります…

1石=10斗=100升=1000合=約180.39リットル、1合=約0.15kg、
0.15kg×1000合=150kgに基づいて一応単純換算してみますと、
「明治20年・長崎精米価格」…5.983円÷150=0.03988≒約0.04円/1kg、
当時長崎では100円で購入出来る精米が、100円÷0.04=約2500kg、
これを現在の精米価格400~500円/1kgに当て嵌めてみますと、
400~500円×2500=1,000,000~1,250,000円相当。

同様に「明治20年・東京精米価格」…5.37円÷150=0.0358≒約0.036円/1kg、
当時東京では100円で購入出来る精米が、100円÷0.036=約2777kg、
これを現在の精米価格400~500円/1kgに当て嵌めてみますと、
400~500円×2777=1,110,800~1,388,500円相当となって

精米換算では既回答者の皆様と同じく、概ね百万円余りの勘定にはなりますが、
現在の百万円と同等の価値と捉えるには無理があるようにも思います。

別な観点で捉えると、たとえば明治23年の長崎市での賃銭(賃銀)では、
『長崎県統計書 明治22・23年/長崎県』<163~165/322>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807981/163
「農作年雇・女・一ヶ月給料/<明治23年>(上)2円50銭(中)2円00銭(下)1円75銭」
「農作日雇・女・一日賃銭/<明治23年>(上)8銭(中)7銭(下)5銭」
「機織年雇・女・一ヶ月給料<明治23年>(上)5円00銭(中)4円00銭(下)3円50銭」
「下女・一ヶ月給料/<明治23年>(上)1円50銭(中)1円00銭(下)70銭」などから、
明治23年当時の100円は、長崎市での場合、
農作年雇女性(中)の50ヵ月分給料相当、機織年雇女性(中)の25ヵ月分給料相当、
下女(中)の100ヵ月分給料相当の価値があったとも言えます。

上記を単純に現在に当て嵌めてみますと、
農作業1ヵ月2万円、機織1ヵ月4万円、三食部屋付下女1ヵ月1万円、
果たして現在このギャラで働く女性はいるでしょうか?
現在なら日当でもおかしくない金額ですよね^^

以上のとおり 社会・経済構造や価値観に相当ひらきのある時代同士の比較は
結構難しいようです。

たとえば『長崎県統計書 明治20・21年/長崎県』によれば、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807980/164
「精米(1石)…(明治19年)6円47銭1厘(明治20年)5円98銭3厘(明治21年)5円73銭1厘」、
一方『東京府統計書 明治21年/東京府』では、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/116
「精米(1石)…(明治19年)6円39銭(明治20年)5円37銭(明治21年)4円98銭」と
若干地域差があります…

1石=10斗=100升=1000合=約180.39リットル、1合=約0.15kg、
0.15kg×1000合=150kgに基づいて一応単...続きを読む

Q明治時代の服装について

明治時代の服装についてなのですが、私のイメージでは江戸時代までは男性も女性も和服(男性=袴、女性=着物)なのですが、明治時代に入ると西洋化も進んで、男性はズボン、女性は袴?みたいな感じでして。
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この場合、男性で袴を穿いていたり、女性で着物を着ているというものはなかったのでしょうか。
あと、男女の学生の服装も教えていただけると嬉しいです。
お願いします。

Aベストアンサー

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の洋服はいわばフォーマルであって、日常の衣服は着物だったようです。
女性の袴姿というのは、明治30年頃に、女学校から始まったそうです。着物でいすに座ると、どうしても裾が乱れます。裾を乱さないために袴を使う。つまり、この時代には女学校に行くような特権階級のお嬢様でも、日常は着物だったわけです。この時代の女性の洋服というのは、すなわちドレスのことだったんですね。

大正になって、庶民にも洋服を着る人が出てきます。モボとかモガとか言われる人たちですね。大正末期から昭和初期です。
もっとも、この時代でもまだまだ着物が主流です。特に女性は。今「アンティーク着物」と呼ばれている物は、大正から昭和の物ですから。
男性は、外では背広、家では着物、になっていたようです。
大正12年に関東大震災が起こり、東京では、これをきっかけに洋装化が進みます。というのも、この後、建てられたアパート類に、洋室が取り入れられはじめたためです。明治の女学生同様、着物で椅子は、裾さばきが面倒ですから、必然的に洋装化が進みます。
と言っても、まだまだ着物も残っていますけれど。

昭和初期も、まだまだ着物が主流ですが、戦争が度重なり、絹や木綿を確保することが難しくなっていきます。必然的に布が少なくて済む洋服へシフトしていきます。
もちろん、動きやすいというのもあったでしょう。

明治から昭和初期の服装を、イメージしたければ、マンガがお勧めです。もちろん、本当に研究されるなら、その元になった専門書にあたるべきですが。
「着物」とか「洋服」と言っても、その時代のスタイルが今の物とはかなり違います。あまり、ご存じでない方が具体的なイメージを持つには、文章だけでは難しいでしょう。
一番よく言われるのは、「サザエさん」昭和初期の庶民の服装です。20台前半のサザエさんや子どもたちは洋服、お母さんのフネさんは家でも外出でも着物、お父さんは家では着物で外出は洋服。
私がお勧めなのは、市川ジュン氏の「陽の末裔」「天の黒 地の紅 海の青」「新編懐古的洋食事情」ですね。特に最後の作品はイメージがしやすいです。

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む


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