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wikipediaで
”信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、”
などという記述を見かけてふと気になりました。
真田家は武田傘下の時代に新府城の普請奉行を行い、その後武田傘下での沼田侵攻、対徳川戦、対北条戦、関ヶ原での上田籠城と結構数数の大戦をしているように思います。
その割には窮乏の話は聞かず10年ちょいで大貯金、上田ってそんなに裕福な地なのでしょうか?
真田家の資金源ってなんなのでしょうか?

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A 回答 (6件)

家康の貨幣制度の統一前後では一両の価値が異なります。


前は「両」は金銀の重さをはかる単位で、室町幕府は一両を
4.5匁と定めました。(宝石のカラットのようなもの)
当時は同じ一両でも、金一両と銀一両では価値が違いました。
(各地で異なる時価すなわち交換レートにより)
当時財産を両で表示することはありませんでした。

これでは経済活動に支障をきたすと、江戸幕府を建てた家康は
全国的統一を計り、純金 4 匁(15 g)の価値を一両とし
銀、銅銭との交換レートも決めました。
これで貨幣財産の価値は○○両と確定できます。

家康の遺産200万両はこの方式によりそのまま
太閤の遺産110万両は金銀銅をこの方式で換算した数字です。

信之が上田藩9万5千石に入封したのは慶長6年(1601年)です。
13万石に加封され松代に入ったのが元和8年(1622年)です。
上田の21年間毎年3万8千石の収入で、計 80万石( 約80万両)
松代の36年間毎年5万2千石の収入で、計187万石(約187万両)
合計約270万両の収入で死後の遺産24万両は、8%にもなる
普通では考えられない高い数字です。

信之は収税の役人をふやし、検地と年貢の厳しい取り立てをした
とのことで、爪に火をともすような節約をして、黄金を貯めたのでしょう。

それにしても松代移封時の20万両の蓄財は過大のようですね。
20万という大雑把な数字から10~20万両(それも下に近い)と
考えた方が適当でしょう。   
遺産24万両からの数字でしょうか。
遺産を幕府に知られたのでしょう、跡継ぎはいろいろ賦役を命じられ
苦しい思いをします。

ところで江戸幕府の貨幣改鋳の件ですが、慶長6年(1601年)の
制定から100年近く改定がありませんでした。

経済の進展に対し、米本位の幕府財政は行き詰まり、のちの勘定
奉行萩原重秀の進言により、金銀貨の不足改善の名のもと、
元禄8年(1695年)金銀貨の粗悪改鋳が実施された。

例 慶長一両小判金 含金率85.7%  純金量15.1g
   元禄  〃         56.4%      10,4g

  見かけの大きさ、重さは大体同じだが価値は約2/3 になった。
  一両の値打ちも2/3に下がった。
その後も紆余曲折はあったがたびたび改鋳され、大きさ、重さも
小さくなっていった。
銅銭の問題がありますが省略します。
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この回答へのお礼

なるほど秀吉時代の黄金1両は江戸時代初期より価値が高く、銀1両ははるかに価値が低いわけですね。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/22 09:51

正確な換算ではないでしょうが、当時は一石≒一両だったらしいです。


領国が10万石程度の場合、武家集団の総取り分、生活費や築城、土木普請、軍備などに懸かる支出を考えると、年間1万石を余録として蓄積するのはかなり困難でしょう。

特に、織田政権での織田、豊臣政権での豊臣、徳川政権での徳川のような場合は、自分らの必要を大幅に上回る石高を収入とし、財の蓄積を楽にすることが出来たと思いますが、一般の大名、小名が領地石高の相当部分を蓄財に回せるようなことはなかったでしょう。特に戦国のように物騒な気風があるときには防衛や武器、軍の強化などに財源を多く使い、軍資金用に確保しておくものはある程度までにしておいたでしょう。
真田が厚遇を得ていても、経済的にゆとりがあったとしても、金銀での蓄財は巨額にはしなかったでしょうし、もともと経済的に大きなゆとりはなかったでしょう。
http://sanadasandai.gozaru.jp/sandai/nobuyuki/no …
 
領国の石高のどれだけを蓄積することが可能かを考えると、なんとなく想像出来ると思います。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/22 09:49

”信之の死後遺産は24万両あった”と


「新藩史事典 松代藩」に記載があるので、WIKIPEDIA
の記述は確かでしょう。

信之は徳川秀忠に睨まれているので、まさかの時頼りに
なるのは黄金と、妻とともに勤倹貯蓄に励んだものと
考えられます。

20万両とは大金に見えますが、江戸初期(慶長~元禄)
の貨幣鋳造量、金貨(小判と判金)約1500万両、
銀貨(丁銀と粒銀)約2000万両 から見ても不自然では
ありません。

謙信や秀吉の時代より、金銀の産出量が格段にふえ
価値が下がりました。

前の金銀は高純度品ですが、江戸期の金銀貨は混ぜもの
入りです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
私の認識では幕府の改鋳(改悪)は荻原重秀の元禄小判からと思っていたのですが、真田信之の移封のころからあったのでしょうか?
それとも慶長小判より天正小判のほうが品位が上なのでしょうか?

お礼日時:2013/07/12 11:45

石高じゃなくて 恩賞


ちゃんと現金で家康から褒美もらってますよ
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そりゃあなた 信之はかの本多平八郎の娘婿ですよ


徳川家 もしくは本多家から何かしらの援助があったと考えても不思議ではないでしょう
しかも関ヶ原で東軍について信之は恩賞を辞退する代わりに父と弟の助命に成功しています

しかしその後平八郎の口利きで相当の恩賞が家康から下賜されています
しかも九度山に流された幸村が内職で作り出した「真田紐」をわざわざ取り寄せ それを信州や江戸で売ってその利益もあったようです
つまり真田家がお金持ちでも不思議ではないのです
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この回答へのお礼

いやいや本多忠勝は10万石程度で真田家と同規模ですよ。
桑名と上田じゃ地理的にも遠いですし政治的な事はともかく経済的に援助する間柄じゃないでしょう。

信之は沼田領で3万石程度で関ヶ原の折参戦し、父の上田領えて10万石近くになっており、金で財貨をもらわなくてもちゃんと恩賞を得ています。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/12 09:27

20万両というのが過大です。

万延小判に代表される幕末のインフレ時代ではありません。

上杉謙信の残した黄金が2千枚≒2万両、

秀吉の遺産が大判1000枚(1万両)相当の大法馬金(分銅金)50数個≒50数万両。

まあ残した謙信や秀吉の残した財産は金ばかりでは無いにしても

田舎大名が10年そこらで溜め込める金額ではありません。

この回答への補足

うーん確かにいかにも話が過大っぽいですね。
ただ20万両は過大でもなんだかんだで真田昌幸・信之時代の真田家は経済的に強そうなんですよね。
なんででしょう?

補足日時:2013/07/12 09:21
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/12 09:21

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