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中学校の教師をしています。

以前に数回「日本の中学生は幸福である」という論題でディベートを実施しました。ディベートの目的は、

自分たちの生活の中にある「価値」に気づくこと
自分たちの生活の中にある「問題」に気づくこと

の二点です。

生徒たちはディベートの過程で、私が構想した学習の目的を果たしてくれました。
例えば、日常の中で「…何かが違う…。」「何かが欠落している」といった漠然とした不安や不満を感じていることについて言及してくれたり、普段意識することの少なかった自分たちの生活の中にある様々な価値についても考えてくれました。

「自分たちの生活をいろいろな視点から考える」という目的は達成できていると思うのですが、ディベートにおいて「幸福」という主観的抽象的な言葉を定義せずに使うことは邪道なのではないのか、という批判を受けました。

ディベートにおいて、主観的価値判断に関わる語句を使うのはまずいことなのでしょうか? 

A 回答 (3件)

ディベートとはなんでしょうか?


ディベートをする目的ではなく、ディベートそれ自体が持っている目的、すなわち機能とはなにか、ということです。

私の考えでは、ディベートとは、まさに、さまざまな要因が絡みつく命題であり、単純にAかBかいえない問題を整理して、要因ごとに、どれを優先して結論付けていくか、こういう手法で問題解決の一助となす、ということかと考えています。

よって、幸福のような抽象的な語句であっても、わざわざ定義づけて使用する必要はありません。
なぜなら、それはディベートをする当事者(両者)がそれぞれ自分の論法に合うように定義づけてから行えばいいのですから。

ただ、両者の定義がまるで次元の違うものである場合、この命題でどちらが優れているかを決定付けるのはたいへんでしょうね。

でも、「幸福」の定義も含めてディベートの中身を評価するなら、あらかじめ定義付けていなくてもいい、ということもいえます。

以下、蛇足。
私自身は、幸福とは「なる」ものではなく、「感じるもの」だと思っています。
この考え方のいいところは、人によって違う環境、能力であっても、だれもが「幸福」を実感できる可能性がある点です(^_^)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

このディベートでは、
自分たちの主張の根拠を述べたり、相手側に質問したり、相手側の質問に答えたりといった過程で、
徐々に「幸福とは何か」という視点に立たざるを得ないでわけで、
つまり、
討議によって言葉が定義されていくのですが、
言葉はその性質上文脈の中で使われてこそ意味が確定する、
と私は思っています。
♯2さんの回答は心強いです。

お礼日時:2004/04/05 18:58

 私は問題ありだと思います。

ディベートは、話し合いではないからです。

 ディベートは日本的な「話し合い」とは異なり、相互に対立する二つの立場で論理を述べ合い、その勝敗を審判するものです。

 ですから、肯定側と否定側の価値判断は必ず背反するように論題を決める必要があります。(普通は、「~は、…すべきだ」という形になります。)

 そこで、幸福という言葉の主観性・抽象性が問題になります。これでは議論がかみ合わなくなってしまうのではないでしょうか。

参考URL:http://nade.jp/school/rondai_settei.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「教えてgoo」の見出しでは、便宜的に疑問形にしましたが、実際の論題は「日本の中学生は幸福である」にしています。肯定側・否定側は、ジャンケンで決めています。

例えば、の話です。
肯定側が「私たちは、物質的に充足しています。ストリートチルドレンは、学校で学ぶ機会さえ奪われています。私たちは幸福です」と主張したとします。
否定側が「私たちは、毎日の生活の中で得体の知れない息苦しさを感じています。受験や対人関係のストレスなど…。私たちは幸福とは言えません」と主張したとします。
この立論の段階では、正に幸福観が異なっているわけで、かみ合っていないと言えばかみ合っていないかもしれません。

しかし、次にそれぞれが質問をします。
このとき、相手側に質問をするには、いったん相手側「幸福観」に立って考えた上で質問せざるを得ないのです。それ以外に質問のしようがありません。

これは、かみ合っていない状況なのでしょうか?

また、肯定か否定かという立場は任意に与えられて行っているので、どういう論拠に基づいたとしても、普通に使う意味での「主観」とは異なると思うのですが…。

私は間違っているのでしょうか?

お礼日時:2004/04/05 19:22

私は問題ないな~と思ったのですが。


用は、実際に行われたものが「話し合い」なのか否かです。確か私の記憶が正しければ、10年前、小学生の頃にはもう「ディベート」という名のもとに「話し合い」が国語の時間に開かれていました。内容は、ほとんど同じようなものでした。結果もです。

みなさんがやられたのは「話し合い」だと思います。
いろいろな立場から意見を述べる、結論は出しにくい。それを「ディベート」なんていう外来語に託すから意味が曖昧になる。「話し合い」なら主観的だろうが抽象的だろうが、まったく関係ないでしょう。意見を述べるのです。
批判された方は「ディベート」という言葉を重く取りすぎたのではないでしょうか。または「判決調の明確な結論」をとるもの、だと考えられたのかもしれません。

医学部入試でも「話し合い」が課されました。やっぱり主観的なものに任されるテーマが出たため、明確な結論は出ませんでした。他人の意見を聞き、自分の意見をそれに答える形で述べただけでした。

中学生の生徒さんたちは立派だと思います。
大学入試に来てまで、自分の意見をまともに言えない人が多すぎます。これはやっぱり早くからの人前で意見を述べるという慣れが必要なんだなと感じた瞬間でしたね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「時間に追われて…」とか「受験のことで親から小言を言われて…」などと普段思っている子どもたちにとっては、自分が当たり前だと思っていることにも素晴らしい価値があることには気づきにくいということがあります。
逆に、普段毎日の生活に特に不満を持っていない子どもたちは、私たちの生活にはこんな問題もあるんだという批評意識が育っていないということもあります。
通常の「話し合い」形式ですと、自分の意見を人前で言うことに抵抗があったり、自分が普段感じていることにのみ気持ちが向いていってしまいがちです。

そこで、「必ず話さなければいけない状況」と「自分の実感とは反対の視点からも考えなければいけない状況」を作るために、手段として「ディベート」を用いました。

ディベートですので、生徒個々の意見とは無関係に「肯定側」と「否定側」を決めています。

お礼日時:2004/04/05 18:46

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