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戦国時代に、江戸時代の村役人、地方三役の一つ、庄屋・名主・肝煎と同じような役割を果たした身分はありますか。
できればその名称を教えていただきたいです。
根拠となる資料などの名称、URLの添付などあればありがたいです。

A 回答 (3件)

NO1です


二度目のお礼のなかで、特に東北地方とご指定されておられますが、ご案内の通り東北地方は、平泉の藤原氏以降、他の諸地方にみられるような大名に相当する政治勢力が長い間存在しておりませんでしたから、越後、関東以西の諸国のような体系だった徴税という行為があったのかどうか寡聞にして知りません。
おそらく西国で発達した鎌倉、室町政権の知見だけでは難しいかと思います。
特に室町政権は全国統治ということには、一切興味をもっておりませんでしたので、歴史的な発達段階に跛行性があるかと思います。
南部氏の史料を当たられるのが宜しいのではないのでしょうか。
お役に立てず申し訳ございません。
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この回答へのお礼

こちらこそ、拙い質問に懇切丁寧に答えて下さりありがとうございます。
仰られた南部氏の史料をあたってみようと思います。
度々お手数をおかけしました。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/05 15:51

No1です


わざわざお礼を記入して頂きありがとうございました。

尚、お礼に詳細な御主旨を頂戴しましたが
>江戸時代の大名は名主(・肝煎・庄屋)を仲介役に百姓から年貢を取り立てていたと知り、では、戦国時代では、誰が大名と百姓の間を仲介して年貢を取り立てていたのか、と疑問に思ってこのような質問をさせていただきました

真に失礼ですが、ここで言われておられる仲介役というのはどのようなイメージであられるのかが良く解りかねます。

武家というのはあくまでも軍事組織で民政には一切関与しません。
現在の、軍隊と民間会社の関係と同じとお考え頂ければ宜しいかと思います。
いわゆる政商と呼ばれている民間会社を仲介者とお考えでしょうか。

江戸時代も農村の自治組織の代表者である、名主(庄屋)に対して必要な米の総納入量を指示していただけで、その際の武家側の窓口担当者が代官と称される人です。
名主はあくまでも農民です。大名が国替えになっても名主を含む農民はそのまま残りました。

総納入量を一軒一軒の農家に配分していたのは、この自治組織です。
代官は軍事組織の兵站部の役割に相当していた役職で、必要あれば戦闘に参加していました。

この米を現金化していたのが、江戸時代には札差、鎌倉室町時代にはこの集団を米座、と称していました。
鎌倉室町時代はまだ武家や朝廷を含む社会制度が確定していなかったために極めてルーズな形で運用されていました。
江戸時代に入り社会制度が確定しました。
後は事務手続きの簡略化で、米の現物を一々武家が移動させなかっただけです。
必要な米の量と現金を決済代金として納入させていただけです。(米の移動と現金の納入は商人がやっていました)
現金と米の比率を指示していた窓口が勘定方といわれる役職です。
米を生産していなかった商人に対しては別途現金による納入を求めましたが、これも商人の代表者(町名主)に指示するだけでした。
いわゆるローマのような徴税使というようなものは存在しませんでした。
時代劇のように、役人が百姓の家や商家に乗り込むなどという事はありませんでした。

戦国時代も戦闘中には半ば強奪に近い形で下級の兵卒が必要物資を村落から集めましたが、平時にはこのようなことはありませんでした。
判り易いのが、信長と堺商人との遣り取りです。
信長が戦費として矢銭というものをまとめて堺商人の代表者に強要しました。
信長の家臣が堺の一軒一軒の商家から徴収した訳ではありません。

以上のような状態ですが、仰られる仲介役を代表者と考えても宜しいでしょうか。あるいは代官でしょうか。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
ご説明で疑問点もはっきりしてきたのですが、
私の質問したかったのはご説明のなかにある村の代表者という意味です。
特に戦国時代の東北地方について質問させていただきました。
たびたびお手数おかけいたしますが、お教えいただければ幸いです。

お礼日時:2013/10/05 14:14

江戸時代の村落のような形態は室町時代に始まっています。


村落の自衛のための自治組織がこの時に発達しました。
この自治組織の機能を戦国時代から江戸時代にかけて支配階級が統治機構として組み込んでいきました。

概要は下記のサイトを参照してください。

庄屋、名主などの名称の概略は

名主 とは - コトバンク - Kotobank
kotobank.jp/word/名主

室町時代の村落については

惣村 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/惣村

蛇足
この自治組織ではリーダーや役職を決める際に入れ札というある種の選挙制度を持っていました。
明治以降日本がスムーズに選挙制度を受け入れたのも、この制度が江戸時代まで受け継がれていたことによります。
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この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございます。
実は申し訳ないことに、この質問に、言葉が足りないところがあると気づきまして、遅いとは思いますが、質問の補足をさせていただきたいと思います。

江戸時代の大名は名主(・肝煎・庄屋)を仲介役に百姓から年貢を取り立てていたと知り、では、戦国時代では、誰が大名と百姓の間を仲介して年貢を取り立てていたのか、と疑問に思ってこのような質問をさせていただきました。
この戦国時代の仲介者は名主、肝煎、庄屋という名称では呼ばれていなかった(?)ようなので、どういう名称で呼ばれていたのか、どういう身分であったのかと、気になりました。

こちらでも調べてみて、米座がその役割を担っていたのではないか、ということがおぼろげにわかったのですが、確証はありません。
そして質問をさらに補足すると、主に東北の大名と百姓の仲介役をしていた者の名称を知りたいと思っています。

言葉が足らなかったことで、貴重なお時間を割かせてしまい申し訳ありませんでした。
内容が複雑化してしまいましたが、再びご回答をいただければ幸いです。

お礼日時:2013/10/05 12:05

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