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建設土木業界や、消防団、港湾海運業界、反社会勢力など、昔日本には「組」と言う組織が多く存在し、それが近代国家として法整備されるにつれて、徐々に無くなったような印象を受けますが、当初、「組」とはどのような存在だったのでしょうか?

A 回答 (10件)

No.8です


わざわざお礼を記入頂き有難うございます。
お礼の中にご質問とご意見がありましたので、説明させていただきます。
>江戸時代に、株という利権概念と商業習慣がありそれが今も株としてのこっている。ならば、組もそのまま残っても良かったと思います。「組法」、「株式組」として、今までの習慣、利権概念の踏襲した方が自然な社会の発展に繋がったのではないでしょうか?

まず、江戸時代の町人文化とくに商家の経営上の習慣に多少誤解があるのではないかと推察します。
江戸時代には、商家には終身雇用制度という制度も考え方もありません
江戸時代の商家の運営方法に丁稚奉公から番頭へという教育制度が存在していたことや、武家の外見上の制度習慣とが混同されて誤解を生んでいます。
終身雇用制度という制度や考え方が生まれて発展したのは、第二次世界大戦後です。
戦後の復興期に労働力の確保を目指したのと、雇用の確保と創出を企業の社会的責任とした政策によるものです。

武家も商家も内実は実力主義です。
端的な例が「養子」という習慣です。
商家はのれんを武家は家名を残すために、継承者に適任者がいなければ「養子」という形で組織外の人間を招き入れて継承しました。
生え抜きであるか、血族であるかはあくまでも二次的なものでした。
現在でいう所有と経営の分離が徹底していました。
これを蔑ろにした商家も武家も断絶しています。
いちいちその場になって後継者を選ぶのが面倒ですので、子供のころから徹底的に教育をしていただけです。
この教育方法が丁稚奉公という教育方法であっただけです。
現在でも100年200年続いている老舗の会社や商店の主人は過去の経緯を見れば血縁関係は途絶しています。
儒教思想が徹底している中国や韓国では、このようなことはありまえせん。
現在の韓国の財閥と呼ばれる組織も形式は日本や欧米と同じ株式会社ですが、実態は同族経営です。
最高責任者は常に血族の一員から選ばれます。

ご質問の趣旨は、組織内で人を育て上げて一体感を持った組織運営にすべきではないのか、社員を設備機器と同列に扱う文化は如何なものか、ということではないのでしょうか。
「組」と「株式会社」という組織形態の違いに話を持ち込むといささかズレてしまいす。
更に江戸時代まで持ち出しますと混乱に拍車をかけてしまいます。

>民主の自然発生的な決りなり習慣が「組」に内包されており、その組が、商業習慣や株式と結びついたのなら、それこそ、本当の日本古来の資本主義で、その後の日本の経済構造に根強い発展の基礎と原動力を育んだのではないか?と考えます。
室町時代に自然発生した自治組織の運営は「入れ札」すなわち選挙が基本でした。江戸時代もこの制度は継承されました。
日本が明治以降あっさり近代化を成し遂げたのも、国民が選挙で代表を選ぶ、という制度に習熟していたのが大きな要因です。
現在でも、選挙制度に馴染みの薄い国民を抱えた新興国では選挙のたびに混乱を引き起こしています。
日本では、選挙結果に不満だと言って武力騒動を起こしたことは歴史上も現在もありません。

資本の理論よりも人を大切に、というご趣旨は大いに賛同します。
日本古来の和の精神が米英の資本の理論を超える日が近い将来くると期待しています。
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私の知る「組」の最初は、戦国~江戸時代の軍制にある。


数百~千数百人の集団・組織を「備」と言い、
その中の兵種別の数十人の小集団を「組」と言った。
具体的には、仮に、4万石程度の武将は、
500人ほどの「備」を2つ持ち、
その中に、数十人の「鉄砲組」「槍組」「小荷駄組」があった。
ただし、「組」は同義語として「勢」「衆」「隊」などあり、「組」という言葉に限定されていない。
鉄砲組だけでなく、鉄砲衆とも表現されたわけだ。
つまり、現代語では、「集団」「部隊」という意味でしかなく、
タヌキ氏の言うとおり、大した意味はないと思う。
「組」という言葉が減ったのは、単に語感が
(1)現代の感覚ではかっこよくない
(2)暴力団と間違われても困る
だけだと思う。

☆唯一、学校では6年3組というふうに廃れることなく続いている。これも、6年3学級だと、6年に3つの学級がある、という別の意味になるから、「組」が残っただけだろう。それに、暴力団と間違われる心配は無いし。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
会社と言う響きもカッコいいとは思えませんが・・・。

暴力団と組は組が先で暴力団が後だと思うのですが・・・。
暴力団が初めに組を名乗り始めたのなら、その後、一般市民が「組」を使うと、「暴力団に間違われる」と言う理屈はわかりますが・・・。

組と言うことばに大した意味は無いのは会社と言う言葉も同様と思います。当時、法整備もなかったわけですし、厳密に用語を定義すると言う感覚もなかったのかもしれません。会社、財団、法人、企業、グループ、系列など良く似た単語は今でもあります。

要は、組がなぜすたれたのか?
地域で家族が幾つかまとまった立地と絡んだチームを組と呼び、さらには、自警団や消防団、商業ギルドに発展していった過程で、なぜ、血を入替えるような、会社と言う概念を投入したのか?
それで、良かったのか?と言うところが疑問です。

お礼日時:2014/05/22 06:20

>昔日本には「組」と言う組織が多く存在し、・・・当初、「組」とはどのような存在だったのでしょうか?


回答者の方々への補足やお礼を読ませて頂きました。
ご質問の主旨を勝手に幾つかに区分して説明させていただきます。
自治組織を指す意味での「組」という言葉で古いのは京都に作られた町組です。
1536年の天文法華の乱の記述の中にも見られます。

逆に「組」という概念を自治組織として考えると、現在の村落の形態が始った中世にまで遡ります。
このころは、座とか寄合と呼ばれていました。

組織の中での「組」という呼称は戦国時代に軍団を兵力ごとに分けた小集団を「足軽組」「鉄砲組」などと呼んで区分していました。
これが、江戸時代に入って武家の軍事的職能集団の正式名として「組」が使われるようになりました。
江戸時代には町民の職能集団を組織化したものを「組」と呼ぶようになりました。
火消の集団を管轄地域ごとに分けていろはで名付けて「い組」「め組」だのと呼ばれました。
職人の仕事の中で土木や建築業などでは、棟梁を中心とした一つの集団を「組」と呼びました。
この名残が現在でもゼネコンの社名に残っています。

明治以降に江戸時代の「組」が「会社」となったのではありません。
江戸時代に職業の利権を意味する言葉として「株」と呼ばれるものがありました。
何か大規模に事業を始めたい場合には、この利権の保証書である「株」を取得する必要がありました。
江戸時代には出資者は本人一人というのが普通でした。
明治になり。欧米の会社組織を真似て複数の出資者によって一つの事業を行うように変えていきました。
江戸時代の「株」は所有者は一人でしたが、明治時代にはこの「株」を分割して複数の人が所有するようになりました。
あとは、現在まで続く株式会社制度となっていきました。
幕末から明治にかけての間、「会社」という概念や運用形態が未発達だった時期に裕福な町人がいろいろな新しい事業に出資しました。
この一人の出資者の元に形成された事業組織の集合体を出資者の屋号を付けて読んだのが後に財閥となるグループです。
三井組、住友組、三菱組などとよばれました。
やがて会社法などが整備されるとグループを表す「組」という言葉は自然消滅していきました。

お礼や補足に書かれておられるボランティア団体や同好会、村おこし、町おこしの集まりなどについては、江戸時代以降の「組」の概念よりは、室町時代に発達した自治組織の考え方のほうがより適合しているのではないのでしょうか。
室町時代に発達した自治組織というのは、基本的に国家権力による庇護が期待できない状況下で、集団の人命や財産を共同で守るというのが根本的な考え方です。

江戸時代には武家が領内を直接統治していたよう誤解されていますが、実態は室町時代から続く自治組織が統治していました。
大名や幕府というのは、この自治組織の長を通じて間接的に統治していただけです。
TVの時代劇のような悪代官と伊勢屋のような連中はいませんでした。
代官というのは、いまで言えば地区に派遣された末端の公務員です。
ただし、官僚として無能な代官は沢山いました。
一方で、江戸時代には政治や経済とは無関係な「講」と呼ばれる組織がありました。
現在の親睦団体や同好会のような集まりです。

以上ですが、ご質問の主旨に沿えたかどうか良く分かりません、補足をお願いします。
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この回答へのお礼

詳しい、ご説明ありがとうございました。

江戸時代に、株という利権概念と商業習慣がありそれが今も株としてのこっている。
ならば、組もそのまま残っても良かったと思います。
「組法」、「株式組」として、今までの習慣、利権概念の踏襲した方が自然な社会の発展に繋がったのではないでしょうか?

江戸時代以前には、「国家権力の庇護が期待できない状況下で、集団の人命や財産を共同で守る」と言うのは、国家権力が影響できないまさに、民主の自然発生的な決りなり習慣が「組」に内包されており、その組が、商業習慣や株式と結びついたのなら、それこそ、本当の日本古来の資本主義で、その後の日本の経済構造に根強い発展の基礎と原動力を育んだのではないか?と考えます。

お礼日時:2014/05/21 22:46

司馬遼太郎の言う若衆が組の元祖じゃないかな。



 余談
日本の島国根性の強い国民です。
独創的な人間を廃除して、和を乱さない者、村長に従う者、が残ったのです。
その中で
村の豊かさの指標は、村外から嫁が来ること、です。
そのために、村祭りの盛大さとか、村の特産品の良さとか、が重要で、
嫁いで幸せに暮らせるかどうか、が村の選択基準です。
そうやって、
”和を乱さない”遺伝子が多くなって、
海の幸、山の幸、運輸の利、などの利益追及組織を生んだのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

組を会社にしても、結局、日本人の島国根性は変わっていませんし、会社内でも和を乱さない、社長に従うなどの風習は残っています。

逆に、会社になったことで、組にあった若衆の勢いはなくなっているように思います。
9時5時で帰ってアフターファイブを楽しむとか・・・。

地域のため、社会のためと言う血気盛んに何かに打ち込んだ若衆の勢い、祭りで心から楽しむ若者。団結して夜遅くまで楽しく家族総出で準備する風景の姿が、学校や、会社の運動会ではなかなかみかけられません・・・。どこか、世間づきあい、うわべだけ・・・と言う歪なものを感じます。

むしろ、「海の幸、山の幸、運輸の利、などの利益追及組織を生んだのでしょう」と言うのが事実ならそれこそ自然発生した資本主義革命で、革命を起さなくても資本主義化に成功しえたすばらしい現象ではないでしょうか?

お礼日時:2014/05/21 22:30

#2です。

補足です。

>>もっと言うのなら、「会社法」ではなく「組法」、「株式会社○○」ではなく、「株式組○○」、「財団法人○○」ではなく「財団組○○」でも良かったのではないでしょうか?

    この答えは、質問者ご自身が次に優れた回答をお出しになっていると思います。

>>近代法治国家ではなかった時代で、法の後ろ盾がある現在の「会社」や「機関」、「財団」などとは異なるようですが、「組」とは多くの種類の組織を指していたので、法整備する際に別の呼称が必要であっがということなんでしょうか?

    おっしゃる通りだと思います。

    チョンマゲ頭を叩いてみれば因循姑息の音がする、ザンギリアタマを叩いてみれば文明開化の音がする。と、髪形を変え、腰の物を廃刀し、昔の組は今の会社、昔の駕篭は今の陸蒸気、と変わったのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

しかし、まるで、全身の血を入替えるような大胆な改革ですが、それが本当に良かったんでしょうか?
当時、十分な議論や研究がなされて判断されたことだったんでしょうか?

お礼日時:2014/05/21 22:20

会社は福沢諭吉の造語ですので、明治時代の前には存在しない。


※法人という言葉も和製漢語であるので、福沢あたりが造語した可能性が高い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%A3%BD% …


http://ci.nii.ac.jp/naid/110004722513/
「会社」に関しての考察。
※ 翻訳語に関する書籍で、会社造語福沢説を読んだ記憶があるが、上記の考察ではそれを否定している。

渋沢ではないかとしている。

造語者だれかは置いといて、幕末から明治初期にかけて、西洋式の組織への命名として○○会社というのが定着したと思われる。

法の後ろ盾というよりは、有限責任という西洋の会社組織と無限責任であった「組」とでは組織のあり方として違うだろうというので、会社と名づけたものと思われる。

幕末から明治初期で、三井は 三井組であり、三井のライバルは小野組や島田組
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95% …

第一国立銀行・日本銀行[編集]
1871年(明治4年)6月、三井八郎右衛門は「新貨幣御発行為替座御用」を命ぜられた。その業務は金銀の地金を受け取って引き換えに新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局へ送ることであった。小野組、島田組を差し置いて政府の命を受けた三井組は(以下略)

経済制度史から考えると、組は無限責任、会社は有限責任となるのではいかと。
http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/200 …

三井家は明治に入り、それまでの呉服業・両替業から官金取扱業務に主要な業務を移し、三井組を設立したが、その三井組が 1876 年に三井銀行に改組された。三井銀行は無名会社という組織形態であり、いわば無限責任の株式会社であったが、三井家とともに三井銀行の従業員も出資していた。

P13より引用


という名辞ですべての社会組織を分析することは不可能かと思う。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でも、組が無限責任だったと言うのは、そうなんでしょうか?

近代の法律を引用する際に、組を有限責任化すると言う改革の方法もあったと思います。
有限責任 三井組でいいと思いますが・・・。

組としての慣わしを全て否定して会社とする必要があったのでしょうか?
組には土着の、地域の人々が受け入れやすい、長年培ってきた習慣や決りが含まれていたと思うんです。

それと融合させる形で、組を昇格或いは進化させる方法も有ったと思うんです・・・。

お礼日時:2014/05/21 22:16

五人組を作ったのは秀吉です。


農家の管理に使っていました。

組というものはその前からあったようです。

今でも町内会の下の組織は組です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうなんですね。

お礼日時:2014/05/21 22:10

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B% …

当時から 組 だったのかは不明だが、タスクフォース的に立ち上がったらしい。

名称ではなく国家と個人の中間の組織としては「中間集団」なり「中間団体」として社会学あたりが扱っている。

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/books/tod …

このへんに総論があるのかなぁ。ちょっと読んでないから分からない

この回答への補足

しかし、国家が、近代国家として法整備を行い、自由競争市場原理の導入を行い、「市民が」が誕生し、自由と自主権を徐々に認め始める過程で、なぜ、「組」は徐々に姿を消していったのでしょうか?

まるで、役目を終えたか、役割を見失ったかのように・・・。
しかし、明治以降の急速な近代化において、本当に、日本の「組」は不要だったのでしょうか?

阪神大震災、東日本大震災以降、言われる日本人が忘れかけていた「絆」や「強い結束」は、むしろ「組」の中に存在するように思います。

今のWEB時代の青少年の「繋がっていたい」願望やなども、「市民」の自主権を認めると同時に、両立できた「組」が有ったのではないでしょうか?

補足日時:2014/03/15 15:42
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
近代法治国家以前、また、近代経済主義社会以前で、市場競争の無い社会での職業分化、分業機能を担った機能組織を「組」と表現したようなかんじですね。

市場競争や経済原理の無い時代の職業機能分化となると、王朝(幕府)などからの指示通りに任務を遂行することが前提であり、法規システム上で自主的に活動する「会社」や「法人」とは異なる性質だったんでしょうか?

お礼日時:2014/03/15 15:25

1。

職能集団
    武家時代になって幕府が作った先手組(さきてぐみ)、鉄砲組、弓組、徒士組(かちぐみ)など。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA% …
    http://kotobank.jp/word/%E5%85%88%E6%89%8B%E7%B5 …
    http://kotobank.jp/word/%E5%BE%92%E5%A3%AB%E7%B5 …

2。地域集団
    下記のように「五人組」(下級武士)「十人組」(庶民)は、安土桃山から江戸初期に欠けて近隣の十戸を単位とした自治組織のことで、キリシタンの監視、などが目的だったようです。
    http://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E4%BA%BA%E7%B5 …
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BA%BA% …

    戦時中は、隣組(となりぐみ)という集団があり、地方自治体からの通達は「回覧板」という手段でおこなわれていました。今の「市報」とか「○○だより」(○○が地方自治体の名前)のようなものです。

    このような組織が、現在まで形を変えて続いているのではないでしょうか。

この回答への補足

もっと言うのなら、「会社法」ではなく「組法」、「株式会社○○」ではなく、「株式組○○」、「財団法人○○」ではなく「財団組○○」でも良かったのではないでしょうか?

補足日時:2014/03/15 15:57
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この回答へのお礼

なるほど、日本では昔、「局」とか、「部」を「組」と表現したようなかんじですね。
近代法治国家ではなかった時代で、法の後ろ盾がある現在の「会社」や「機関」、「財団」などとは異なるようですが、「組」とは多くの種類の組織を指していたので、法整備する際に別の呼称が必要であっがということなんでしょうか?

お礼日時:2014/03/15 15:11

江戸時代に5人組というのがありましたね。


発祥かどうかはわかりませんが。
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