アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として勢力を保持して
いた。徳川家康のような、その力を誰もが認めるような存在で
はまだなかったと思います。また家康のような力を持ってい
ても、関ヶ原では西軍側にも拮抗した軍勢が集まっています。

このような状況で、義経が反旗をひるがえした後、義経に味方
する軍勢はほとんど集まらず、最後は後白河からも見放され、
あっという間に転落してしまいました。

私としては、なぜ義経がかくも短期間でヒーローからあまりにも
みじめな最後をとげることにnってしまったのかがどうしても分か
りませんし、そこの ところをうまく説明した、解説本も知りません。

1. 義経に人徳がなかったのでしょうか(人徳でいえばむしろ頼朝の
方が冷徹であったといわれています)
2. 周囲の大半の勢力は冷静に頼朝と義経の力量を計算して頼朝を
選んだのでしょうか(しかし戦でいえば義経の評判が高かった
わけだし、強い方に加勢する心理が働いてもおかしくなかったのでは)
3. 源平の合戦が続いて、世間に厭戦気分が強く、また日本を二分する
ような戦を誰も望まなかったので、既に地盤を固めている頼朝を支持
したのでしょうか

それとも、他に何か理由があるのでしょうか?

よろしくお願いいたします

A 回答 (7件)

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。

当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち主が決める。けど時代の流れでもって藤原氏が強かったり院が強かったりで誰に相続されるかが安定せず、またその主に気に入られた三男が継ぐことになったり、と安定しないわけです。

こんな不安定な制度は誰でも嫌なもの。公平な相続お裁きをしてくれる機関が欲しく、そのボスには高貴な血筋の人間を据えて説得力を増したい。そんなわけで清和源氏ブランドのボス・源頼朝に白羽の矢が立ち、鎌倉開府となったわけです。



さてこの裁定機関が二つあったらどうでしょう?二つとはもちろんご質問の頼朝と義経です。例えばあの土地について頼朝は長男が継げと言い、義経は次男が継げと言い…武士達にとっては裁定機関は一つでよく、彼ら目線で支離滅裂になっては困るのです。源氏の長者は一人でよく、二人も要らんのです。

また頼朝は源義仲や平氏追討は義経らに丸投げし、自分は関東に残っています。頼朝は別に関東で酒池肉林のドンチャン騒ぎで遊んでいたわけではなく、裁定機関の準備を進めるわけです。源義仲や平氏が滅んだ頃には準備がかなり進んでいたでしょう。周りの武士たちにしてみれば、これで俺達の裁定機関ができるぞって時期に、頼朝の指示を聞かない義経くん。彼は頼朝=裁定機関=武士達の指示を聞かないわけです。

武士たちにとって邪魔ですよね?義経くん。

頼朝と義経各個人の人徳や力量比較は(どちらかというと)武士達にはどうでもよく、例え頼朝の弟と言えど裁定機関の指示に従ってもらわなければ困るんです。折角、平和な世の中に向かっているというのに、いわばKYな義経くん…困りますよね?

戦場での奇想天外な発想…というより、誰が見ても無理そうな課題を発想力で解決する能力は、頼朝よりも…というより日本史上最高の武将でしょう義経は。中でも騎馬による奇襲など戦闘指揮官としては義経の才能は、世界に誇ってもいいくらい。

ですがそんなものは武士たちの土地相続問題には要らない才能。武士達の希望は公平なお裁き、公平な論功行賞。それらに戦闘指揮官の才能は不要です。もっと言えば冷徹にどちらが正しいか判断してくれる人や機関の方が必要なのです。

ご質問には記載はありませんが、範頼も義経に似たような雰囲気を醸しています。紆余曲折の末、源実朝を最後に清和源氏の嫡流は滅んでいます。にもかかわらず、裁定機関の鎌倉幕府はその後も続いています。武士たちにとって源氏が大事だったのではなく、裁定機関が公平に活動してくれればそれで良かったのです。



と長文で申し訳ありませんが、回答としては次のようになります。

4. KYな義経くんは鎌倉幕府=武士達の指示に従わなかったから、もしくは要らない子だったから。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

詳細のご解説ありがとうございます。
いわゆる、一所懸命というやつですね。当時の武士にとっては土地こそ命=それを裁定してくれる人である頼朝支持に流れた、というのはよくわかりました。義経はそのトレンドを理解できなかった=KYというのも分かりました。

お礼日時:2015/06/27 13:38

歴史を勉強しましょう。


大きな流れとして、藤原氏に代表される貴族から新興の武士層に政権の担い手が移っていった時代の話です。
新興の武士層の支持を受けたのが頼朝であって、義経ではありません。
頼朝と武士層は御恩と奉公の関係で密着を強めていきましたが、義経はおちぶれていく貴族世界にしか働きかけをしなかった。
    • good
    • 1

結局、どっちにの味方をしたら、得になるだろう


か、という判断だと思います。

義経のバックにいるのは、後白河法皇です。
方や頼朝は武士の利益の代表です。

後白河法皇は所詮は公家です。
後醍醐天皇もそうであったように、彼らは公家の利益を
第一に考え、武士の利益を図ることは、あまり念頭に
ありません。

それで、頼朝の味方をした方が、俺たちの利益になる
と武士達が判断したのだと思います。
    • good
    • 4

面白いご質問ですね。



北条氏は、このとき、関東の御家人の一族に過ぎませんでしたが、大きな野望を持っていたんでしょう。伊豆の流人であった頼朝を姻戚にしますね。そのあとの北条家の動きを見ると、有力な御家人を片っ端から滅ぼし、親戚である源氏の血筋も滅ぼし、執権の位を手に入れます。藤原氏と同じように、天皇の位は狙わないけれど、幕府の将軍の下で、実権を握ってゆきます。

後白河法皇に気に入られ、一事が万事、京都よりの義経は、北条氏にとっては、戦いに勝ってしまえば、まったくの邪魔者だったでしょう。義経と似たような境遇の、温厚であったと伝えられる範頼も、同じように、ほとんど言いがかりのような謀反の門で、幽閉されて殺されてしまいます。その後の頼家~実朝の悲劇を見るにつけ、叔父である範頼や義経が健在であれば、赤ん坊の手をひねるように次々と暗殺されてゆくことはなかったように思われます。

政界を見たときに、本当に何が起きているのか、同時代の人々が判断するのは難しいのですが、歴史の向こう側として俯瞰したときに、時代の大きな意思、というか、この場合は、北条氏の意思ですが、実権をにぎろうと躍起になった、陰謀の企み手の、手段を選ばぬやり方が垣間見えてくるように思うのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご解説ありがとうございます。学校の日本史では、源平合戦>義経大活躍>義経悲劇の討ち死に>イイクニツクロウ鎌倉幕府、ぐらいしか教わりませんでした。なぜ頼朝は鎌倉幕府を開けたのか、なぜ北条氏は実権を握れたのか、この年になって深読みすると面白いですね。

お礼日時:2015/06/27 13:44

徳川の二代将軍を決める時、次男の結城秀康は武将として優れていましたが、それが逆に不安材料になって、平凡というか普通レベルの秀忠を指名したといいます。



義経は、武将として強いだけでなく、オリジナルの戦略を何度も使ってます。
義経は、強すぎるだけでなく行動が予想出来ないから危険という印象から、避けられたのもあるかもしれません。
    • good
    • 0

人の意見を聞かず


独断専行を繰り返し
自分だけサッサと恩賞を貰った

そんな人間には誰もついていかない
    • good
    • 2

源氏の頭領という肩書きは強い。

    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございます。
しかし、最近では源義朝の正室の死後、常盤は正室となっているので
義経も源氏の頭領となる資格があった、という見方が有力となって
います(従って、頼朝は義経の存在を恐れていた)

お礼日時:2015/06/26 20:57

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!