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タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)

3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。

4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。

質問者からの補足コメント

  • #13お礼欄の続き。

    >(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
    妥当でしょう。】

    ☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
    とはあるのですか。ないのですか? 

    ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
    いいですか?
    そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
    神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
    しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
    人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
    そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
    こんなこと今さら言わないと通じないんですか?

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/12 23:04
  • #15お礼欄のつづき

    念のため修正しておきましょう。
    ×
    要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、

    要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:18
  • #30お礼欄からの続きです。

    >ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
    えておられるのか、気になったのです。

    先を見通したご指摘ですね。
    いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
    また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
    その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
    かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
    中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
    その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
    次の補足欄へ。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:34
  • (上補足欄からの続き)
    ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
    端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
    ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
    アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
    今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
    語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。

      補足日時:2016/01/15 16:43
  • >★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
     《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    を想定してこそ得られるものだからです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
    来る。というわけになるようですね。

    まず、端的にお答えすると全く逆です。
    私の表現不足だったのだと思いますが、
    《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    「人智を超えた存在としての神」
    を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
    少し切り口を変えて表現してみると、
    アッラーは、
    「人智を超えたものの象徴」としての神
    なのか、
    アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
    なのか。
    こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 18:11
  • (タイトル命題は)
    >何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。

    4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
    まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
    そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
    【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
    と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
    そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
    大体、こういった論理展開です。
    神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
    次の補足欄へ

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/16 22:52
  • 上欄の続きです。

    >宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)

    それが理想ではないかと思います。
    アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
    従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
    どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
    何かヒントをください。
    ただ、おっしゃるように、
    >人間の個別性

    あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
    そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
    いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
    今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。

      補足日時:2016/01/16 23:02
  • お答えいただきありがとうございました。
    納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
    >他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。

    わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
    貴重なご意見でした。

    腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
    見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/18 17:35
  • >自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。

    これは、その通りです。

    >私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。

    そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。

    >これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。

    おっしゃるとおりかもしれませんね。

    No.59の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 00:01
  • >・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。

    極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
    ・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
    です。
    人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
    ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
    何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。

    No.60の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 17:37

A 回答 (99件中11~20件)

ハコブルさん、気になって覗いてみました。

これは難しそうですね。私は悪気があっていっているわけじゃないのです。だからハコブルさんが見事に論破したら、それを喜んで認めますが、どうもそうではないんです。全体的な話をしても、あれこれと別のところに四散してしまうようですから、一つの点に集中しておいた方が良さそうです。

>(宇宙について)この場合、「じゃあ、どんな力か証明してみろ」というのは、言い掛かりとしか、私には思われません。

 いや、ただの論理なのですけれどもね。証明できないとすると、それは仮説として扱わないとなりません。それは誰もが皆、そうしているではありませんか。例えばポアンカレ予想。良い予想を立てていても、事実とはしていません。ホーキングも同じでしょう。ホワイトホールも、超ヒモ理論も、全て仮説です。これを事実だと考えて、思想を組み立てはじめたら、それこそおかしなことになります。

 さらに考えてみましょう。惑星間の引力を事例になさっているが、それは惑星間の問題です。森羅万象の全てには及びません。いや、及ぶかどうかが分からないというのが、正しい表現でしょうか。ましてや自他の境界を消失させるようなことに力を及ぼすわけではありません。結局、ハコブルさんが事実だと言いたいのなら、自他の境界を消失させる宇宙の力学それ自体をずばり言わないといけないわけです。それができたら事実だということになりますね。できなければ仮説です。

 言葉遊びとかじゃなくて、単純なことだと思うんですけれどもね。その後の議論はここが決まってから考えるのが良さそうです。

 しかし私は一方で思うんですが、事実にこだわる必要がないのじゃないかと思います。仮説として個人がささやかに信じている程度でいいではありませんか。私は論理としては納得できませんが、(私の論点で恐縮ですが)ある種の死生観としては、共感する部分がありました。

なお仮説ということになれば、ブラジュロンヌさんの非知も、重要な手掛かりだと思いますよ。形而上学で結構よくある話です。意味不明として最初から切って捨てているようだけれども、それは宝の持ち腐れかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認める

か否か。
これが論点であることを、まず確認しておきます。
否定する立場でご投稿をいただいているわけですが、#86で整理していただいた内容について論破する形をとるのが、ご理解への近道となりそうです。
念のための確認ですが#86の、
☆1.人智の及ぶ何かによって~
は、
☆1.人智の及ばぬ何かによって~
のタイプミスですよね?
☆人間の認識には限界があるものを人智を超えた存在と規定なさり、それを宇宙と呼んでいらっしゃる。(#85)
とおっしゃっておられるので、そのように考えて良いのでしょう。
その上で、
☆1.人智の及ばぬ何かによって自らが生かされているのだという確信がある⇒(主観的な真理)。(#86)
について以下で論破することにします。

「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」のは、「主観的な真理」ではなく「客観的な真理」です。
なぜなら、この命題( A )を否定するためには、「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」という反証が必要になるからです。
ここで重要なのは(そして、おそらく、ここを勘違いなさっておられるのだと思いますが)、この懸案に関しては、
「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」
または、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」
という2とおりの選択肢しか存在していない、という点です。
( AA )が証明できなければ、( A )は「客観的な真理」と言わざるを得ない、ということ。
たとえば、
「彼は優勝力士だ( a )」
を否定するためには、
「彼は優勝力士ではない( aa )」
を証明する他に、
「彼は優勝力士かどうかわからない( aaa ) 」
という選択肢が存在しています。
しかし、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされているかどうかわからない( AAA )」
という選択肢は存在しないのです。
なぜなら、

「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合となるからです。

「人智」がネックになっているのだと思います。
字数制限でとりあえず。

お礼日時:2016/01/24 19:13

カフェ・道の駅です。



《人智のおよばぬもの》についてのおぎないです。

重力なり何なりのチカラは 人間がそれをハタラキの仕方について知って或る程度
操作したりすることは出来ます。宇宙船を飛ばすことも出来ます。

その認識をおこなうことができて 未知がやがて既知となる領域は まだまだ広い
と思われます。

では 《宇宙の摂理》とは 何なのでしょう?

《真理》とは いったい何のことでしょう?

《絶対性》とは どこの何を捉えて言っているのでしょう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>重力なり何なりのチカラは 人間がそれをハタラキの仕方について知って或る程度操作したりすることは出来ます。

へえ~。
重力を知っているとは素晴らしいですね。
ではお伺いしますが、重力は、どういった経緯で存在しているんですか?

>その認識をおこなうことができて 未知がやがて既知となる領域は まだまだ広い
と思われます。

では 《宇宙の摂理》とは 何なのでしょう?

「では」を使って前項と後項を結んでいる意味が全くわかりませんねえ。
「それにしても」ならわかりますがね。
>未知がやがて既知となる領域は まだまだ広い

が、なにゆえ、
>《宇宙の摂理》とは 何なのでしょう?
>《真理》とは いったい何のことでしょう?
>《絶対性》とは どこの何を捉えて言っているのでしょう?

という疑問につながるんですかねえ。
いや、ほんと不思議。

そもそも、これは、どの箇所に対するコメントなんですか?

お礼日時:2016/01/23 21:25

道の駅カフェです。



《人智のおよばぬもの》については 次のように分類されるはずです。

1. いまはまだ及ばないがいづれ及ぶであろうと推察されるもの:未知

2. 及ばないと証明できたもの:不可知

3. 一般に人知が及ばないのだが その及ばなさがどうであるかについて
分からないもの。つまり そのことが分かるか分からないかが 人知には分
からないナゾ:非知

☆ 《非知》は 人間の認識〔能力〕にとって未知のものの中から人間が勝
手に想定するかたちで取り出したものだとも言えます。

言いかえるとで まづ未知に分類されていて しかもよく問い求めるとそれ
は永遠に未知にとどまると(つまりは永遠に認識し得ないと)証明し得たも
の(つまり不可知)であるものは別として 残ったものの中から 非知の定
義によって取り出したことになります。

想定としての定義をしたあとでは 非知は 経験事象(つまり既知と未知と
の可知やそうではない不可知)とは一線を画していると初めから区別されて
いる恰好になるはずです。

非知は こうして 絶対や無限といった言葉≒概念で捉えられたナゾをさら
に説明していることになると思われます。

《神》では 定義がまちまちですから この非知を用いると 哲学としての
問い求めは 一段とすすむこと間違いなしでしょう。




摂理は この非知なる神が想定され共有されたところで――むろん想定した
ということが どこまでも前提になっていますが―― その神(普遍神)と
われとの関係が 人間の側の時間的・可変的な存在性に対しても つねに成
り立っていることを言おうとした見方なのだと捉えます。

もし 非知でありながら その神のチカラが経験世界にも仮りになおおよぶ
とさらに想定するのならばそれは 《天網恢恢疎にして漏らさず》といった
程度の意味合いで 一般には受け取られるような見方ではないか。その程度
ではないか。とは考えます。

神学では 主観的な真実として もっときちんとした定義が 摂理にはあた
えられているようです。――これは そのような主観が 無下に否定されな
いとすれば それは 《非知》という想定=定義の中身にあります。

《分かるか分からないかが分からないナゾ》ということは ひょっとして分
かる場合もあるかも知れないと帰結されるからです。

ただし 《分かった》としても――摂理の内容が 経験的な出来事として明
らかになったんだぁと神学が言ったとしても―― その妥当性は その本人
の主観までです。ほかの人の主観にはおよびません。《非知》だからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 《非知》は 人間の認識〔能力〕にとって未知のものの中から人間が勝
手に想定するかたちで取り出したものだとも言えます。

「取り出す」必要、ありますかねえ。
3. 一般に人知が及ばないのだが その及ばなさがどうであるかについて
分からないもの。:非知
とは、
1. いまはまだ及ばないがいづれ及ぶであろうと推察されるもの:未知
になぞらえて、
3’. いまはまだ及ばないが(確率は低いものの)いづれ及ぶであろうと推察されるもの:非知
と言い換えが可能でしょう。
申し上げているところの骨子は、

非知は単なる未知との確率の差異にすぎないだろう

ということ。
少し補足するなら、次のようになりますかね。
・未知(1)と言っても、及ばない段階においては非知(3)と同義にならざるを得ない。
いずれ及ぶのだ、と主張するかもしれないが、そもそも単なる「推察」であるのだから保証はされていない。つまり、未知であっても及ばないことが前提とならざるを得ない。
また、ご自身でも、
>《分かるか分からないかが分からないナゾ》ということは ひょっとして分
かる場合もあるかも知れないと帰結されるからです。

とおっしゃっている。
まさに、非知とは、
1. いまはまだ及ばないがいづれ及ぶであろうと推察されるもの:未知
の低確率分野を指しているにすぎない、と言っていることになりませんかね。
要するに、非知の必要性は特に無いように思う、ということなのですが、これは、あくまで私の見解。
>☆《神》では 定義がまちまちですから この非知を用いると 哲学としての
問い求めは 一段とすすむこと間違いなしでしょう。

というご見解に賛同される方もいるかもしれませんし、それは個人の自由。
ただ、根拠はすでに上で述べましたが 非知≒未知 であるなら、質問文の
★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認める

ということを否定する根拠にはなり得ていないですよね。
そもそも、ここ(★)から、どういった不都合が生じるのかが極めて曖昧なわけですが、非知でなければ説明不可能な懸案が発生した際には、ぜひご指摘いただければ。

余談
(つまりは永遠に認識し得ないと)推察したもの(つまり不可知)
じゃないかという気がします。
どうでもいいですが。

お礼日時:2016/01/23 22:37

ここでハコブルさんの論理を整理させてください。

括弧内は私から見えていることです。

1.人智の及ぶ何かによって自らが生かされているのだという確信がある(主観的な真理)。
2.(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在している(推論か憶測を客観的な真理として語る)。
3.それは事実である(十分な検討をしないまま断定。つまり真ではない)。
4.そうした力が存在していることは絶対的な事実といわざるを得ない(3を反復。強弁と言うべきもの)。

 1は客観的な真理ではないが、起点として許容の範囲内です。しかし通常の論理ならば、これを仔細に説明しないとならないはずです。どういう経験をしたか、とか、どういう人が同じ考えを持っているか、とか。これは主観から始まる話だから、経験的な事象であって、どうしてもそれを語ってもらう必要はあります。次のステップで他人とそれを共有していることを示し、次第に一般化していくような論の手続きを踏んでもらう必要があります。それが無いのです。

 2はこれがないまま、唐突に宇宙という言葉が出て来るのです。ある種の推論として許容もできますが、1が略記しかされていないので、全く分からないのです。つまり2に到るには、1を仔細に示したあと、そこから鍵概念として何かを抽出し(宇宙でも何でもいいですが)、それをここで規定しないとならないはずです。何でもいいですという曖昧な話ではないです。

 3以降は、「事実ではなくて仮定ですよ」としかいえないのです。

 さしあたり望まれることは、1から2の間を埋めると言うことになるでしょうか。どうでしょうか。ご関心がなければ、そうおっしゃっていただいて、ここでやめるのも一つかと思うのでした。

なお申し訳ないのですが、少し私用で、月曜か火曜までお返事できないかもしれません。御許しください。しかしお話に感謝しております。ハコブルさんは何だかハードボイルドな感じですね。この点、私が楽をさせてもらっているとお礼申し上げます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

#85の続きから入ります。
>だからこれは比喩で話がすり替わっていると指摘せざるをえないのです。

そうですかねえ・・。
「人が認識できない」ほど「人の力を遥かに超えた強大な存在」という意味であることは、通じていると思っていたのですが・・。
まあ、こちらの表現不足だったのかもしれませんので、そうであればお詫びいたします。
それはさておき、
>「人の力を遥かに超えた強大な存在」という比喩ですと、ハコブルさんのおっしゃる通りです。

というのは、
★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
という箇所に同意していただけたということで、よろしいでしょうか。

であればですが、今回の、
>2.(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在している(推論か憶測を客観的な真理として語る)。

という記述は取り下げる、従って、#86の論証全体も取り下げる、ということになると思いますが、いかがでしょうか。
表現不足によるであろう誤解を招いた点についてお詫びを申し上げた上で、このように問わせていただきます。
つまり、 iacta-alea-estさんは、次のようにおっしゃっていることになると思いますが、それでよろしいですよね、ということです。
まずはの取っ掛かりとして確認させてください。
--------------------------------------
仮に、宇宙(の摂理)が「人の力を遥かに超えた強大な存在」という比喩であるなら、
(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在している(A)
と言える。
つまり、この(A)は、
>客観的な真理として

語られているのであり、
>推論か憶測

ではない。
--------------------------------------
何かとお忙しい中、お付き合いをいただき感謝いたしております。
全く急ぎませんので、ご都合のよろしいときに応答していただければ幸いに存じます。

お礼日時:2016/01/23 19:16

ありがとうございます。

直接本題に入る方が良いかと思いました。

1.> 人智が及ばないのにどうして存在していると言えるのか?>>一理ありそうですが、これは極めて簡単です。人智の及ぶ何かによって自らが生かされているのだという確信があるのであれば別ですが、そうでなければ、(人智の及ばぬ)宇宙が存在していると捉えるのが、むしろ論理的帰結でしょう。

 難しいお答えの仕方をなさりますね。ハコブルさんは本当にエレガントです(悪い意味ではないです)。普通ならばここで「そうなんですかー」と言って終わるところです。しかし論理的破綻を示せとおっしゃる。ここは、ちゃんとやらないとならないのでしょうね。これは話がすり替わっているとお伝えさせてください。人間の認識には限界があるものを人智を超えた存在と規定なさり、それを宇宙と呼んでいらっしゃる。こうしたことをどのようにして把握したのかと問うているのです。ハコブルさんのおっしゃっているのは、要するに、人智を超えた存在を全く否定し切ることはできない、という意味ではないですか。ハコブルさんのおっしゃる最初の話は主観的真理として認められます。しかしそこから導かれた文章は、もう何段階も進んだ話です。飛躍していると指摘致します。

2.> フロイト的な段階と対応するのか。>>懐疑的自我とも申し上げましたが、超自我に至る以前の自我のように考えていただいても良いかもしれません。

 確認させてください。自我→超自我ですね。その二つの間の矢印がそれだとおっしゃっているのですか? しかしフロイトはそういうことを言っていたのですか? 定義を自分の都合のいいように曲げていませんか?

>したがって人の脳内に認識が成立した時点で、それは「人智を超えた」存在などではない。>>ここが食い違いの最大要因かもしれませんね。何かわからないが力を及ぼしているもの」というものは認識可能でしょう。存在はしているが、「何かわからない」のだから人智を超えている。

 「人智を超えている」という言葉を字義通りとるかどうかという問題が発生しているように思いました。「人が認識できない」という意味ではなく、「人の力を遥かに超えた強大な存在」という比喩ですと、ハコブルさんのおっしゃる通りです。例えば天才は知覚できますが、一般人を超えているという意味で、「人智を超えている」と表現されます。しかし前まで認識論の話をしていたのではなかったでしょうか。だからこれは比喩で話がすり替わっていると指摘せざるをえないのです。

>宇宙ではなく、別の何かである可能性はないのか。>>ごもっともですが、「宇宙」に納得できなければ、その表現に拘る必要はありません。1にも関連しますが、あくまで(人智の及ばぬ)大きな摂理、と捉えてください。

 敢えて申しますが、それは承服しかねます。そのものをきちんと定義していただきたいです。なぜならハコブルさんの書き方は漠然と何かがあるという書き方ではなく、そのものが認識できるという書き方だからです。ご自分のロジックに忠実になるのなら、曖昧に表現にこだわる必要は無いと言えない場面であると思います。

>絶対とはどの範囲において絶対なのか。>>これも1でお分かりいただけたと(期待を込めて)思うのですが、そうした力が存在していることは絶対的な事実といわざるを得ないでしょう。

 トートロジーです。「事実」ではありません。仮説です。

(粗暴なところで終わりましたが、続きます)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>人間の認識には限界があるものを人智を超えた存在と規定なさり、それを宇宙と呼んでいらっしゃる。こうしたことをどのようにして把握したのかと問うているのです。

簡潔に表現します。
たとえば、天体には数多の惑星が浮かんでおり、相互に万有引力によってバランスを保ちつつ自転・公転をしています。
こうしたバランスが人為的なものでないことは明白な事実であり、その意味で「人智を超えた力」が作用していることもまた認めざるを得ないのではないでしょうか?
この場合、「じゃあ、どんな力か証明してみろ」というのは、言い掛かりとしか、私には思われません。
このような場面で、「人智を超えた力」が仮説であるとするのは、単なる言葉遊び、あるいは詭弁でしょう。
以上のような理由により、
>飛躍している

というご指摘は、全く的外れであると申し上げておきます。
ここは、極めて肝心な論点だろうと思いますので、さらにご批判をいただくことで深めていければ、と考えます。

2.
>しかしフロイトはそういうことを言っていたのですか?

それは聞いたことがありません。ただ、私はフロイトの「盲信者」ではありませんので、フロイトと「全て」同じことを言う必要もないでしょう。
> 定義を自分の都合のいいように曲げていませんか?

それは認めます。しかし、矛盾はしていないでしょう。
自我の主体に超自我が芽生えるとき、そこには自我と超自我のせめぎ合いが生じざるを得ません。
この段階を指すと捉えていただければ、自然にご理解いただけるはずです。

> 「人智を超えている」という言葉を字義通りとるかどうかという問題が発生しているように思いました。

【人間の知恵。人間の知能。】という意味で使ったつもりです。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …

#86お礼欄へ続きます。

お礼日時:2016/01/23 18:36

ティータイムです。



ですから 《人智を超えた神》は 《非知》という認識のあり方に
なる。

と言い続けているのですけれど。

先回りして ひとつの材料になると思いました。
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ハコブルさん、おつかれさま。



>マナーの問題と言っても良いかもしれません。

 要するにブラジュロンヌさんとはマナーの問題でもうお話は成立しえないということですね。私は字面でしか見ていないので、これ以上は分かりません。長いお二人の関係があるのだと思いますから、それは承っておくのみです。

>☆これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。
★おっしゃるとおりかもしれませんね。
☆ ではもっと説明してください。

矛盾してるような気がしますけどね。^^;

 白い星☆が私なんです。つまり分かるようなものではないと指摘し、ハコブルさんが同意した。私はもっと説明してほしいとお願いしたのです。何か矛盾していますか? まさか私が「分かるようなものではないからもう説明しないでいいよ」と言ったと受け取ったのですか? ハコブルさん、たぶんご自分の説明の質に厳しくなるべきですよ。これには、文末の問いの列挙を参照してください。

>つまり、ご自身と似たような考えだから、その論理が理解しやすいというだけのことにすぎないのであって、そうしたご自覚は必要でしょう。

 うーん。ここらへは押し問答ですね。散々書いていることなんですが、私は「ご自身=サイコロの考え」を言っているのではなく、社会一般の普通の考えだと思うんですけれどもね。もう既に法律の仕組みなど説明しました。マックス・ヴェーバーの話も出ています。私自身の考えは全然別のものです。申し訳ないけれども、私は神とか信仰とかにほとんど興味がなくて、距離を置いているというより、虚心坦懐、ニュートラルです。もし仏教の論理でハコブルさんが考える準備があるということなら、それはそれで承って話を進めることができると思っています。しかし宇宙の絶対性とか摂理の話は、つかみどころがないので、土俵にのりようがないのです。一番下の問いの列挙を参照してください。

>しかし、肝心の懸案事項に関する返事は一切無しで、補足的にちらっと述べたことだけについて延々と「拡張」してくるなら、ここにコミニュケーションが成立しないのは当然でしょうね。

 これは資本主義の話の論脈が分からないということのようですが、それでいいですか。もう一回説明しますね。ハコブルさんがどこで暮らしている方かは分かりませんが、たぶん資本主義の圏内だろうと推測するのです。そこでは自他の区別が物事の基本になっているのです。しかしハコブルさんは別のお考えを提示している。すると資本主義に対峙する意志や意味があっていっているのか?と聞くのは、理に適っていると思うのです。ただそれだけのことです。

>☆論理的破綻をつく必要があるんじゃありませんかね?

 簡単に言えば、大前提を立証していないので、その後の議論は砂上の楼閣になるのです。でも立証は難しいと思いますし、できなくても仕方ないでしょう。やってみますか。

>★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。

1 (人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に
 人智が及ばないのにどうして存在していると言えるのか?
 人智を超えているのだから、認識できないはずである。
 そうすると、認識主体は誰なのか?人ではないことになる。
 認識できないと書いてあるのに、なぜ事実と前提されているのか?
 なぜその不明なものを「宇宙」と呼称するのか?
 「全て一切が分からない」と表現するのが正確ではないか。
 なお宇宙の定義に、上は該当しない。
  ・物理的宇宙は人智で認識できる。
  ・哲学的宇宙は秩序ある統一体だが、一つの仮定で、事実ではない。
 上記の疑問から、この分章の意味は理解できない。

2 上記で想定される認識主体としての「人類としての我」
 そうした自我の存在はどのようにして確認できるのか。
 いつ、どのような契機で、他の「我」と称しているものと分岐するのか。
 フロイト的な段階と対応するのか。
 その自我を有している人の統計的な調査は行ったのか。
 芸術家・文学者などの作品を通して、諸例は上げられるのか。
 しかしそもそも人の思考全般を「人智」と呼ぶのではないか。
 人智とは「人の知能」を意味する。
 したがって人の脳内に認識が成立した時点で、それは「人智を超えた」存在などではない。
 また「人類としての我」なるものの認識対象が、「宇宙」だとなぜ言えるのか。
 宇宙ではなく、別の何かである可能性はないのか。
 宇宙に該当すると立証する必要がある。
 上記の疑問から、「人類としての我」は答えとして整合性がつかない。

3 絶対性を認める
 絶対とはどの範囲において絶対なのか。
 その範囲において有効であることはどのように確認できるのか。
 その認識は誰に共有されているのか。具体的な例示を求める。
 これが立証できない限り、ただの「仮定」である。

 何となくなんですが、ハコブルさんは哲学的宇宙が一つの仮定として論じられているに過ぎないのに、それを事実と「誤認」して議論を出発しているのではないかという気がするのですが、どうですか? 仮定として論じるやり方と、事実として論じるやり方は全く違うんですけれどもね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> マナーの問題でもうお話は成立しえないということですね。

あくまで、ご指摘の♯69の投稿に関して申し上げているだけです。

>何か矛盾していますか?

「これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。あなたは、もっとじっくり考えなくては・・」
という意味に受け取ってしまったようです。
受け取れないこともないわけですが、恣意的な解釈であったと認めるべきでしょう。
失礼しました。

>社会一般の普通の考えだと思うんですけれどもね。

「一般」とおっしゃいますが、キリスト教的資本主義社会以外の社会は眼中にない状態で論議を進めるべきだ、というスタンスなのですか?

>☆ これは資本主義の話の論脈が分からないということのようですが、

いえ、#57お礼欄で補足的に述べた事柄に関することですが、瑣末なことなので、あまり気になさらくても問題ありません。

>すると資本主義に対峙する意志や意味があっていっているのか?

「対峙する」というのではなく、共産主義国家にも(もしかして私だったかもしれない)国民はいる、ということに思いを致す、といったことになるでしょうか。

1.
> (人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に 人智が及ばないのにどうして存在していると言えるのか?

一理ありそうですが、これは極めて簡単です。
人智の及ぶ何かによって自らが生かされているのだという確信があるのであれば別ですが、そうでなければ、(人智の及ばぬ)宇宙が存在していると捉えるのが、むしろ論理的帰結でしょう。

2.
> フロイト的な段階と対応するのか。

懐疑的自我とも申し上げましたが、超自我に至る以前の自我のように考えていただいても良いかもしれません。

> したがって人の脳内に認識が成立した時点で、それは「人智を超えた」存在などではない。

ここが食い違いの最大要因かもしれませんね。
「何かわからないが力を及ぼしているもの」というものは認識可能でしょう。
存在はしているが、「何かわからない」のだから人智を超えている。

補足欄が満杯のため、以下、#81お礼欄へと続きます。

お礼日時:2016/01/22 22:35

思い入れ・肩入れ しすぎですよ。



でも お説にしたがいます。
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>これによって 利口の壁を破ることが出来るであろうと考えました。



 利口の壁とは次のようなことですか?――バカの壁って言うのは、元東大教授という特権的に頭のいい人が、バカには何を話してもしょうがないという上から目線の話と考えている。これには反対である。しかしコミュニケーションにおいて壁はある。ブラジュロンヌさんは敢えてそれを下から見て、「利口の壁」と呼んでいる。ハコブルさんのお話は、壁を破る契機となると考えている。

 こういう理解でよろしければ、私もそうだと思います。

>《彼》も この自己表現の主体になれます。

 こういうことはあるでしょうね。私がイマジネーションを働かすと次のような感じです――親が子で自己表現しているとか、先生が優秀な生徒に理想を投影するとか、あるいは地元から出た優秀な政治家や芸術家を地元の人が誇りに思うとか。両者の意識は断絶しており、実際はコミュニケーションが取れないのかもしれません。しかし何かの好ましい共同体の意識が形成されているわけです。
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この回答へのお礼

#83お礼欄からの続きです。

>宇宙ではなく、別の何かである可能性はないのか。

ごもっともですが、「宇宙」に納得できなければ、その表現に拘る必要はありません。1にも関連しますが、あくまで(人智の及ばぬ)大きな摂理、と捉えてください。

>絶対性を認める
 絶対とはどの範囲において絶対なのか。
 その範囲において有効であることはどのように確認できるのか。

これも1でお分かりいただけたと(期待を込めて)思うのですが、そうした力が存在していることは絶対的な事実といわざるを得ないでしょう。

とりあえず、今回は最重要点だけに絞って返答しました。
今回の返答で用は足りるような気もするのですが、必要なら一行づつ全てお答えすることもできます。
補足欄が満杯なので、ご回答を適当に2つに分けて返答欄を増やしていただけるとありがたいです。
もう少し詳しく返答させていただきたい箇所も無いことはないのです。
なかなか興味深いご見解という気がしております。

お礼日時:2016/01/22 22:37

★ 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】


☆ この命題は 《我》が自己表現しています。けれども――単なる《この我》でも
けっきょくは同じことだと思いますが念には念を入れて―― もし《人類としての
この我》なる主体が自己表現しているとすれば

そうだとすれば

《彼》も この自己表現の主体になれます。そうでなければ――《人類としての》と
いう条件づけは―― おかしくなる。

つまり この命題とその表現にかんする限り 《彼》も《我》も どちらにも・誰で
もが成り得る。誰でもが《我》に成り得る。という意味です。

だから 彼と我とは 同等であると主張する命題である。と帰結されます。



これによって 利口の壁を破ることが出来るであろうと考えました。
こういうことは その趣旨から言って 議論の余地なく当たり前だと思っていたわけ
です。わたしは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>だから 彼と我とは 同等であると主張する命題である。と帰結されます。

何を言ってるんですか?
そうでないとは言ってませんよね?
彼が「我」と言えば、その時の彼が「我」になるのは当然でしょう。

>こういうことは その趣旨から言って 議論の余地なく当たり前だと思っていたわけ
です。わたしは。

なるほど。
最初から、素直にそう言えばいいじゃないですか。
あとは、#77で記していることと同じになるでしょうから繰り返しませんが。

お礼日時:2016/01/22 18:00
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