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コペルニクスの地動説がいつ日本に入ってきたのかは知りませんが、少なくともそれ以前の平安時代や鎌倉時代の日本人は毎日太陽が東から上り西に沈むという現象をどう捉えていたのでしょうか。その『科学的』にその理屈を考えようとしたことは無いのでしょうか? 平安時代、鎌倉時代と最初に書きましたが江戸時代あたりの日本人はこれについてはどう思っていたのでしょうか?

A 回答 (3件)

太陽が動いている、と思っていたでしょうね。

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資料がないので科学的は決してあったかどうかはわかりません。


マヤの遺跡(暦時計)のようなものが発見されたのならば空想は膨らむでしょう。
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6世紀ごろに中国から暦法た伝わっており、7世紀の初頭には日食の予測がされた記録が残っています。


 律令制国家が成立すると「陰陽寮」という部署が設立され、その中で転変の観測を担当する天文博士・暦を管理する歴博士・時刻を管理する遅刻博士といった役職が置かれました。
 したがって、奈良時代から平安時代にかけて、天文は学問としては難しくてほとんどの人には理解できないけど、一部の専門家には科学的に理解されているような状態でした。
 しかし、暦法を中心とする天文学は特殊技能として安倍氏や賀茂氏といった特定の家系でのみ継承され独占状態が続いたため、中国との交流が途絶えると日本の天文学は科学から呪術(天文道・暦道・陰陽道)へと変容していきます。
 以後、知識を独占していたはずの安倍氏・賀茂氏の中からすら天文に関する科学的知識は失われていき、天文学や暦法は占術・呪術同然で科学とは言えないような状態が江戸時代まで続きます。
 このころでは一般人はもちろん、専門家ですら「(理屈はわからないが)この周期でこういう現象が起こる」とぼんやり理解している程度の状態になります。
 江戸時代に入ってから日本での観測結果と中国の暦法をもとに天文を数学的に解明する試みがなされ、その結果として初めて日本独自の暦法(貞享暦)が作られます(1685年)。
 これをきっかけに暦の管理が朝廷から幕府に移管され、天文に関する知識は公家の独占から解放されます。
 江戸時代中期以降、天文方に就く人材確保の必要からも西洋からの天文学の導入が積極的に行われるようになり、それをきっかけに天文を数学的に解明する書籍の出版が本格化していき、在野の専門家(天文学者等)も一気に増加。結果的に一般人の間にも天文学の知識が次第に広まっていくことになります。
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