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木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、

10世紀以降、お隣の朝鮮半島でも印刷技術が大いに発展し、13世紀にはきわめて本格的な仏教経典が製作されています。

6,500巻に及ぶ「高麗版大蔵経」をつくったときの版木の枚数は、実に8万枚を超えていたほどです。
http://www.jfpi.or.jp/printpia/part2_03-03.html

質問ですが、朝鮮半島で、『一般大衆に』活版印刷技術や活版印刷物が普及するようになったのは何年くらいからか、わかりますか?

「木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 女性は兎も角、一般大衆男性用が文盲というのは嘘でしょう。
    国立国会図館digital collectionで見られる「朝鮮国勢調査報告. 昭和5年 全鮮編 第1卷 結果表」の93ページ(↓)から、朝鮮人の年齢階層別の読み書き能力の持ち主の比率を計算すると以下の通りです。
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448143/70
    数字は、左から年齢階層、仮名とハングルの両方が読み書きできる、ハングルのみ、読み書きできず、の順です。(仮名のみは四捨五入すると全階層で0%になるので省略)



    40-59 2% 25% 73%

    60以上 0% 20% 80%
    日本支配下の教育の恩恵を受けていない世代のハングル識字率が20%(女性の識字率がほぼゼロ%なので朝鮮人男性の識字率に限定すると約40%)ですから、ある程度識字率はあったはずです。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/24 08:14
  • 東京大学の研究論文reportはその国立国会図書館のdataを基にして作成されていますね。
    http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/218 …
    まあ、妥当な内容だと思います。
    で、この東京大学研究論文reportを基にして下記のblogでは日本の朝鮮統治時代の教育を失敗であったと批判をしています。
    http://d.hatena.ne.jp/scopedog/touch/20121101/13 …

    「木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、」の補足画像2
    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/24 19:47

A 回答 (3件)

あえて苦言を呈しますが、活版印刷と木版印刷は異なった印刷技術です。


前提として提示された「高麗版大蔵経」は木版印刷なので、
木版印刷があったから活版も発展したというのは早計です。
確かに、朝鮮における活版印刷の歴史はグーテンベルクの聖書より古く、
現存する金属活字印刷物で最古のものも朝鮮製とされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%8C%87 …
(注:金属活字ではなく木製や膠泥活字ならば宋にもありました)
「高麗版大蔵経」の場合、国難に対しての国家事業ですが、
技術を他に生かすことは少なく、印刷技術は全く発展しませんでした。

そういう意味で、回答としては、
活版印刷が本格的に行われたのは欧米技術が導入された18世紀末頃、
両班などの貴族階級や裕福な層ならば購入可能でしたが、
広く一般大衆というなら日本の統治下で生活が安定してから
ということになります。



日本と比較するなら、日本は木版印刷が盛んで、
19世紀までなら欧米の活版印刷より日中の木版印刷が盛んでした。
江戸時代を見ても、日本には本屋や貸本屋があり、
庶民には錦絵や「東海道中膝栗毛」や「南総里見八犬伝」など
流行した本などの印刷物がありました。
「江戸買物独案内」によると、42の書物問屋(読本などの書籍)と
18の地本問屋(草紙などの印刷物)があり、このうち書物問屋の
上総屋は大体年間1から2冊の出版をしていたそうです。
例えば、「南総里見八犬伝」では年間発行が500部程度で
当時のベストセラーです。

李氏朝鮮の官版は金属鋳字で1冊あたり100刷程度です。
このうち8割は内賜本として下賜されるもので、
臣下にはこの上ない名誉なものでした。
ただしこれは中央政府のお話で、地方は木版印刷です。
木版印刷は作るのが大変ですが版木が残るので何度でも刷れ、
木版が残れば版木からでも年代測定が可能です。
しかし、金属活字は耐久性がありますが、毎回組み替えるので、
(壬午や甲申など)干支で年号を表記することが多い朝鮮では
年代の特定がしにくいことが多いようです。
16世紀頃に官立書肆の建白がありましたが、そのまま立ち消え。
18世紀頃に官立書肆ができましたが、機能を発揮せずに廃止。
民間に至っては購読者層が少なすぎてほとんど機能していません。
18世紀末頃から一部で出版と書店での販売がありましたが、
この時の購読層は裕福な両班と中人(医学・天文・数学の専門家)で
人口比率で見ると数%程度です。

ちなみに、朝鮮における印刷物入手方法で一般的なのが
版元の紙を送って印刷してもらう方法です。
当時の紀行文を読めばわかるように、朝鮮では植林の概念がなく
多くがはげ山で、紙の原料となる木は多くありません。
余談ですが、宋時代の中国は竹紙が主流で、コウゾで作る韓紙
(高麗紙)はむしろ高級品であり、外貨を稼ぐ輸出品でした。
ただし、技術的な問題で2枚以上を合わせて1枚にしたため
強度は強くても筆書きに適さず、「熱河日記」(朴趾源)にも
 高麗紙は絵を描くのに適当でなく、搗練しない物は
 毛羽が多く立ち、打った物はあまりにも堅く尚筆が
 滑りやすいので墨を吸わない。紙は墨をよく吸い
 筆跡の様態をよく表せる物を貴重な物とするが、
 丈夫で破れない物はまだそこには至っていない物である。
とされています。
朝鮮では紙は貴重品です。



町に書店があったといっても、人口構成の約7割が農民の朝鮮で、
地主や舎音の横暴に苦しむ一般小作人が本を買う余裕はなく、
日本の江戸時代のような貸本制度もありませんので、
一般大衆が読むことはほとんどありません。
「書店があったから一般人も購入していた」
「実際に書籍が印刷された事実があるから一般にも普及していた」
「ハングルが読めるから本も読んでいたはず」
とはとても言えない状況でした。
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日韓併合は何年でしょうか。

支配階級は当然、漢字OKです。

資料は1930年時点。教育のたまものにより、向上しています。

それでも平均20~30%の識字率ですね。(ある程度?ww )日帝が来る前でははたして・・・

同じような資料を上げます。世代別に見やすくなっております。

http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/218 …

質問の主題に、マジレスすると、1920年代に大衆小説いわゆる 六銭小説 がかなり出回りましたが、それにしても近代西洋式印刷によるものです。
この回答への補足あり
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『一般大衆 』は、日韓併合時点で、ほとんど文盲です。



よって、日帝のハングル教育以後。日本の新聞等が先駆けでしょう。
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