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江戸時代には大きな城下町だったのに、廃城になってからは 一気に寂れて、それでも お堀や土塁も残っていて、 今では 人口1~2万人の小さな田舎町になったところを探しています。

A 回答 (1件)

栃木県の黒羽城はどうでしょうか?

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

黒羽城は大田原市にありますね。そして、小田原市には 町の中心には 大田原城もありましたが、規模としては 黒羽城の方が大きかったようですね。

お礼日時:2017/07/02 11:30

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Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
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Q畳は日本の文化って大嘘ですよね? 戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

畳は日本の文化って大嘘ですよね?

戦国大名の豪邸でも床は板で大将が座る高座として畳が使われていた。

日本の和室が出来て和室全部に畳を敷くようになったのは昭和ですよね?

Aベストアンサー

存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
「御床畳」(ゴショウノタタミ)という木でできた台の上に置かれたものが、
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安土桃山時代の茶室は畳でしたよ。
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畳を作って生業とする「畳職人」「畳屋」という職業としての畳職人が
確立していき、庶民の家にも使用されるようになったようです。

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江戸時代の下級武士のことです。
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現在の我々には、羨ましいことです。
ところで、なぜこのように勤務日が少なかったのでしょうか?
(私は、戦闘要員を確保しておくため、少ない仕事に沢山の下級武士を当てておいた、のかな、と思っていますが)

Aベストアンサー

大名には、格式があって、石高に応じて大名行列の規模などが決まっていること、大名としての見栄などで、必要以上の家来を抱えていました。また雇用される権利も子に相続されますから、なかなか減らせません。仕事量に対し、武士が多すぎました。
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西洋では、海賊は「パイレーツ・オブ・カリビアン」「カリブの海賊」などエンターテイメントの題材になっており、日本の漫画である「ワンピース」も、日本的というより西洋的な海賊を描いているといえます。

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Aベストアンサー

カリブの海賊だけが特別で、その他はただの
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カリブの海賊は、一時期、英国海軍の下請け
みたいなことをやっていたからです。

つまり、体制側の海賊です。

当時のカリブ海は、イギリス領土でしたが
スペインの攻撃があり、イギリス海軍だけでは
手薄だったので、海賊に特別免許を与え
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つまり、その時は正義の味方だったのです。

その他の海賊はただの犯罪者ですから
英雄視するわけにはいかなかったのでしょう。

ちなみに、倭寇は元寇の報復だ、という
有力な説があります。

Qなぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

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姫路城は黒田家に譲ったから

Q時代劇などで

切腹した直後に、介添え人に首を斬られますよね。

多分、首をすぱっと1回で切り落とすんだと思うのですが、
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Aベストアンサー

行けると思います。

津本陽、という剣道4段の作家が、肉付きの
ブタの腰骨で実験したところ、ほとんど抵抗を
感じないで斬れた、と言っています。

刃筋が揃れば、斬れるんだと思います。

首切りの場合は、骨と骨の間に、刃を滑り込ませる
必要があると、言われていますが、ブタの腰骨が
斬れるのですから、刃筋が揃えば、クビも斬れる
んじゃないでしょうか。

それで介錯は腕に覚えのある武士がやっていましたが、
平和が続くと、そんな武士も少なくなりました。
遺族の恨みも買うこともあり、それで外注するように
なります。

山田淺右衛門などはその代表です。

Q多賀城について

多賀城跡に観光に行きました。
驚いたことに、広大な敷地は起伏がそこそこある丘?山?にあったようです。
今まで、平城京跡や大宰府跡に行きましたが、これらは平地に造られていました。
多賀城は、なぜあのような起伏があるところに造ったのでしょうか?

多賀城を訪れてちょっとした疑問を感じたのですが、分かりやすく説明してくださる方が居たら嬉しいです。

Aベストアンサー

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのた...続きを読む

Q幕末、イギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか

幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに過ぎないと言う人がいますが、それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?

それとも、日本を植民地にすることは不可能か、可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。

Aベストアンサー

幕末の生麦事件・薩英戦争の後、日本侵攻の可否についてイギリス議会で議論があったとのことです。その際に確認されたことは、日本人はすでに植民地化された他のアジア民族とはことなり戦闘経験が豊富であること、恥をすすぐためには命を厭わぬ性質があること、最新型ではないとはいえ十分な火器を装備していることなどにより、本土侵攻には空前の規模の陸軍戦力を要するということだったそうです。そもそも薩英戦争では英国海軍の死傷者のほうが圧倒的に多かったわけですし、こんな国に本土侵攻なんてしたらゲリラ戦で泥沼化して大損害必至と。
 当時世界1級の海軍力と海運力を持つ英国でさえ本土侵攻が無理と判断したわけですから、植民地化は難しいと判断したんでしょうね。

Q日本には奴隷制はなかった?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中核
④朝鮮・・・僧侶、胥吏、女官、妓生、医女、男寺党、奴婢、白丁

ヨーロッパやアメリカの説明はありませんが、奴隷はいたので、奴隷=被差別民・賎民と考えていいですか?

ときどき『日本には奴隷制はなかった』という人がいますが、五色の賎、穢多・非人は奴隷とはいえないでしょうか?

また、奴隷と被差別民・賎民のちがいって何でしょうか?

ウィキペディアで被差別民を調べると、次のようなのがでてきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%B0%91
①インドのカースト制における不可触民
②カーストシステムそのものから排除された形で共同体を形成する部族民
③日本の被差別部落民
④イスラームのズィンミー等がある。

また賎民は次のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%B0%91
①日本・・・五色の賎、穢多・非人
②インド・・・アウト・カースト
③中国・・・奴婢や生口等の奴隷が労働力の中...続きを読む

Aベストアンサー

日本にも奴隷はいたし制度としてあった時期もありました。
ただ、奴隷制がメインではありませんでした。

なんでこんな話になっているかというと、その一つにマルクス主義とそれへの反論があります。
マルクス主義の歴史学では、古代は奴隷制、中世は農奴制とされています。
ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマで奴隷がメインだったと当てはめるのはいいとして、日本がどうだったかというのは考慮されていませんでした。
かつては日本でもマルクス主義を導入した研究があって、古代に奴隷制の要素もあるとして無理にマルクス主義に当てはめようとしていました。
その後、実証主義になり奴婢などの奴隷がいたとしても奴隷制がメインというのはおかしいのではないかという考えが増えて行きました。

ですので、「マルクス主義のいう奴隷制は日本にはなかった」という意味で言っていると思います。
ただし、結論だけをみて「日本には一切の奴隷はいなかった」のように間違った捉え方をしてしまっている人もいます。
古代の奴婢や中世の人身売買では奴隷でしょうから。


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