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幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに過ぎないと言う人がいますが、それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?

それとも、日本を植民地にすることは不可能か、可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • その当時の最強国家はイギリスだったはずです。
    アメリカはまだ発展途上でしたし、ロシアもイギリスより下でしょう。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/04 18:59
  • 日本に来たイギリス人を、攘夷に狂った武士が殺して回ったらイギリスも本気にならざるを得なかったと思いますけど。

    現実は、幕府や各藩がイギリスを刺激しないよう努めており、イギリス人を殺害したのは生麦事件の際の薩摩藩ぐらいしかなかったのですが。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/05 18:48
  • イギリスが日本を植民地にするのは不可能ではないが、極めて困難という回答でよろしいでしょうか。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/05 20:40

A 回答 (5件)

幕末の生麦事件・薩英戦争の後、日本侵攻の可否についてイギリス議会で議論があったとのことです。

その際に確認されたことは、日本人はすでに植民地化された他のアジア民族とはことなり戦闘経験が豊富であること、恥をすすぐためには命を厭わぬ性質があること、最新型ではないとはいえ十分な火器を装備していることなどにより、本土侵攻には空前の規模の陸軍戦力を要するということだったそうです。そもそも薩英戦争では英国海軍の死傷者のほうが圧倒的に多かったわけですし、こんな国に本土侵攻なんてしたらゲリラ戦で泥沼化して大損害必至と。
 当時世界1級の海軍力と海運力を持つ英国でさえ本土侵攻が無理と判断したわけですから、植民地化は難しいと判断したんでしょうね。
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第二次世界大戦でアメリカが沖縄を落とすまでどれだけの犠牲を払ったかを考えれば・・・それに当時の商人たちは莫大な資金を持ってましたし非常に有能でした。

日本を植民地化して得られる利益とマーケット化して得られる利益を比べれば・・・

イギリスが本気を出して日本を攻撃していたら・・・という疑問そのものがナンセンスです。
この回答への補足あり
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幕末、日本が植民地にされなかったのは運がよかったからに


過ぎないと言う人がいますが、
   ↑
運とは思えません。
例えば、君主国であったタイも植民地には
されておりません。
偶然とか運とかでは説明が困難です。




それでは当時の最強国であるイギリスが本気を出したら
日本を植民地にすることは出来たのでしょうか?
   ↑
出来たと思います。




それとも、日本を植民地にすることは不可能か、
可能だったとしても極めて困難だったのでしょうか。
   ↑
植民地にする目的は、儲ける為です。
いじめるためではありません。

植民地にする経費と、比較して儲けが多ければ
植民地化します。
経費が掛かりすぎて赤字になるような場合であれば
貿易で儲けようとします。

日本の場合は、植民地にしても、儲からないと
算段したのだと思われます。

1,資源が少ない。

2,武士が支配していた。
 当時の英国人などは、武士のテロを非常に怖れていました。
 植民地化したら、全国に百万もいるローニンが、
 テロに走って収集がつかなくなる。
 テロを防ぐためには、本国から大量の軍隊を送らねば
 ならない。
 そう分析していた書見が残っています。
 
 だから植民地化しないで、貿易で儲けたほうが
 合理的である。

 そう判断したのだと思われます。


3,徳川政府を転覆させれば植民地化が容易で
 あるが、日本には天皇がいて、徳川政府の
 受け皿として機能する。
 これでは、植民地化は難しい。
この回答への補足あり
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かなり難しかったでしょう。


理由は「国(幕府)のガバナンスが隅々まで行き渡っていたから」です。

日本人にはあまり知られていませんが、幕末の時期、日本は北海道の領有権を巡って、ロシアとかなり激しい戦闘もしています。

日本語では「文化露寇」ともいいますが、一般的にはフヴォストフ事件として知られていると思います。
この名前になっているニコライ・フヴォストフは軍人で、上官のニコライ・レザノフの命令で北海道の幕府の拠点を何度か攻撃しています。
 ニコライ・レザノフは最初、長崎で通商を求めたのに、幕府が拒否したため実力行使にでたものですが、ニコライ・フヴォストフのやり方はかなり強引で、のちにフヴォストフは皇帝の命によって処刑されています。

当時のロシアはそれなりに良い武器を持っていて、大砲も銃も日本側に比べれば段違いでした。

しかし、日本側も2度目の襲撃からは、浜に陣幕をはって後ろにどのくらいの兵力があるかを隠し、上陸してくるロシア兵を銃で撃退する、という方法をとりました。

ロシア側としても陣幕の向こうにいる兵力が分からないので、突撃もできない(突撃は兵力バランスが見えないと全滅しかない)し、結局海からほとんど上陸することができなかったのです。

日本は「幕府が命令すれば、藩が速やかに軍隊を招集して全国どこへでも駆け付ける」状態でした。参勤交代は、家康が各藩の財政を圧迫するために行ったわけですが、それが結果として、全国の道路を整備し、各藩の軍事行動の訓練になっていたわけです。

ですから、イギリスがどこかに上陸したとしても、人数で絶対的に勝てないわけです。
ましてや当時の日本人は武士だけでなく、庶民も刀をもっていましたからね(一般に、刀は武士だけと思われていますが、2本差せるのが武士の特権というだけで、民間人も「護身用」に1本差しはできました)

人数で上回るだけでなく、全国津々浦々まですぐに軍隊が組織できるのであれば、かなりの艦隊を送らないと海岸線はともかく、内地まで侵入できないわけです。また、当時は城もたくさんありましたから、城攻めなんてしたら、どれだけ軍人が居ても足りないでしょう。

また、日本は軍隊だけでなく行政的にも付け入るスキがありませんでした。中国がなぜアヘン戦争になってしまったかというと、地方の官僚が賄賂ですぐに転んだからです。

一地方の官僚を手なずければそこを基地にもできますし、中国人の中には、金品や条件によってイギリスなどに協力する人物もそれなりに居たでしょう。

日本の藩はそう言うことはなかったし、庶民もそう言う人はほとんどいなかったのです。薩摩藩だってイギリスと戦争をしたからこそ「これらの文明を取り入れないと日本が無くなるかもしれない」ということで、貿易をしたわけです。

幕藩体制の時代では、一つの藩がイギリスに従ったとしても、その隣の藩が抵抗し、そこに幕府が援軍を送ってくればどうしようもなかったでしょう。

これらを含めて「ガバナンスが有効に機能していた」と言えるわけです。
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当時、イギリスは最強国ではなかった



陸に上がれば、戦闘能力は日本のほうが上ですので、従わせることはできません
この回答への補足あり
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