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人間は死んだら無になるのに何故生きるんですか?

A 回答 (97件中31~40件)

残された人の心に生きるのです。

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「無意味に生きる事は正しい」これは名言ですよね?



なぜなら、この言葉によって自殺者を減らす事が出来るからです。自殺者を減らす言葉が名言でないはずがありませんよね?

自殺者が絶えませんが、自殺する理由は「生きていても意味が無い」「無意味な人生を生きていたくない」「人生は無意味だ」といった事です。

ですから「無意味に生きる事は正しい」を名言に登録すれば自殺者を減らす事が出来ます。
無意味に生きる事は正しいのですから、無意味だからと言って死ぬ必要は無くなるからです。

そもそも「人生には生きる意味が必要だ」という考えが間違いなのです。
それでは人生に生きる意味を見出せない者は自殺するしか無くなってしまいます。そうではなく「人生に生きる意味は必要ない。
何の意味も無く、只、生きる事、それ自体が正しい」としなければ成りません。

なぜなら、そうする事で自殺者を減らす事が出来るからです。


私の言葉は「今日、生きる事に疑問を持って居る」人たちへの「励ましの言葉」なのです。

「昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい」のです。


「無意味に生きる事」の意味。


無用の用 老子

器を作るときには粘土をこねて作る。
その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。

戸や窓をくりぬいて家は出来ている。
その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。

だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、
「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。


我々が、自分の人生に意味を見出し得るとするならば、それは自分の人生に意味が無いからである。

もし、自分の人生に最初から、生まれた時から、意味が詰まっていたとしたら、どうだろうか?

それは物が一杯に詰まった器である。それはもはや器としての用を成さない。

それを器として使いたいのであれば、中に入っている何かを全て捨て去るしかあるまい。

従って、人生に意味が無い事は素晴らしい事なのである。それは何も入っていない空の器なのだから。


私は「昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい」と主張していますが、それは「生きる事は正しい」を前提にしています。

さて、生きる事は正しいとして、今日生きている事に疑いは有りません。前提「生きる事は正しい」ですから「今日生きる事も正しい」と成ります。

我々が今日生きているのは、昨日生きていたからです。今日生きている事が正しいなら、その原因を作り出した、昨日生きた事も正しいと成ります。

現在、この世に生きている者で、昨日生きなかった者は一人も居ません。
従って、「昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい」に当てはまらない者は、現在、この世に生きている者で、一人も居ません。

何故、無意味に生きる事は正しいのか?

昨日の昨日の根拠は?と言えば、昨日の昨日の昨日に成ります。つまり永遠の過去、無限の過去に答えが有る事に成ります。

無限とは何でしょうか?我々は無限に到達する事ができるでしょうか?

無限に到達できなくとも、否、到達できないからこそ「無限の果てに根拠は無いとは言えない」とは言えるでしょう。
なぜなら無限の果てを見て、確かめて来たわけではないからです。


そもそも「人生には生きる意味が必要だ」という考えが間違いなのです。
それでは人生に生きる意味を見出せない者は自殺するしか無くなってしまいます。
そうではなく「人生に生きる意味は必要ない。
何の意味も無く、只、生きる事、それ自体が正しい」としなければ成りません。
なぜなら、そうする事で自殺者を減らす事が出来るからです。


「人生に意味を見出して生き甲斐にしている」人は幸せです。そういう人は自殺しません。
従って、私の言葉には意味も価値も無いと言って、通り過ぎれば良いでしょう。しかし、人生に意味を見出して生き甲斐にしている人ばかりでは有りません。

人生に意味を見だせない人も居るのです。そういう人が自殺するのです。私の言葉は、そういう人の為の言葉です。


それは「感謝の心」です。あなたや私が、今こうして生きていられるのは、昨日が有ったからです。
その感謝の心が、「お返しをしたい」という気持ちを起こさせます。つまり、昨日の自分から受けた「恩」を明日の自分に返そうと言う事です。
なぜなら過去に返す事はできないからです。恩返しは正しい事ですよね?これが「生きる事が正しい」理由です。


原点に立ち返れば、今、自殺しようとしている人に対して「あなたは、ただ生きているだけで良いのです」と言いたいが為に行っている事です。

「無意味に生きる事は正しい」まず最初に、この命題を正しいと認めて下さい。
この命題を正しいと認めて、初めて無意味に生きる事に、意味と価値が生まれるからです。何故なら「正しい事」には意味が有り価値が有るからです。


無意味に生きる事は正しい。


昨日やった事が正しいなら、今日も同じことをやれ。

昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい。

昨日と同じように、今日も生きよ。

昨日やった事が正しいなら、今日やる事も正しい。

昨日やった正しい事を、今日もやれ。


人間は同じことを繰り返す事が成長に繋がるのです。例えば同じ時間に起き、同じ時間に学校に行き、同じように勉強して、これを繰り返す事が成長に繋がるのです。

人間は日々、同じ事をやっている事に疑問を持つものです。私は、そういう人たちを励ます為に、この言葉を書いたのです。
「あなたは今のまま、同じ毎日を繰り返して良いのだよ」と。

朝、小学校の校門を前を通ると、毎朝、警備の人が立っています。人間の世の中は、こういう毎日同じ事を繰り返す人によって支えられているのです。
毎日、同じ事を繰り返す事は、立派な事であり、馬鹿にするべきでは有りません。



私が恐れるのは「同じ事の繰り返しの人生には意味がない。生きて行く意味がない」と思ってしまう人が出て来る事です。

私の言葉は、そういう人たちへの励ましの言葉です。「あなたが昨日生きた事は正しかった。だから今日生きる事も正しい。
昨日生きたように、今日も生きなさい」と言っているのです。



昨日やった事が正しいなら、今日やる事も正しい。昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい。
こんな事を何故、私が言うのか、説明すれば、昨日生きた事が正しいなら、同様に、昨日の昨日、つまり一昨日生きた事も正しいであろうし、
その前の日も、さらにその前の日も、生きて来た事は正しいであろう。と言っているわけです。

結局のところ、過去を否定する事は、今まで自分自身の命をつないでくれたご先祖様を否定する事に成ります。自分自身を否定する事に成ります。

地球が生まれ、そして地球に生命が誕生して現在の私が有るわけです。現在まで生命をつないでくれた過去の全ての生命を肯定するなら、過去を否定する事は出来ません。

そう考えると「昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい」というのは自然な事ではないでしょうか?


それは「感謝の心」です。あなたや私が、今こうして生きていられるのは、昨日が有ったからです。
その感謝の心が、「お返しをしたい」という気持ちを起こさせます。つまり、昨日の自分から受けた「恩」を明日の自分に返そうと言う事です。
なぜなら過去に返す事はできないからです。恩返しは正しい事ですよね?これが「生きる事が正しい」理由です。


昨日やった事が正しいなら、今日やる事も正しい。昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい。
こんな事を何故、私が言うのか、説明すれば、昨日生きた事が正しいなら、同様に、昨日の昨日、つまり一昨日生きた事も正しいであろうし、
その前の日も、さらにその前の日も、生きて来た事は正しいであろう。と言っているわけです。

結局のところ、過去を否定する事は、今まで自分自身の命をつないでくれたご先祖様を否定する事に成ります。自分自身を否定する事に成ります。

地球が生まれ、そして地球に生命が誕生して現在の私が有るわけです。現在まで生命をつないでくれた過去の全ての生命を肯定するなら、過去を否定する事は出来ません。

そう考えると「昨日生きた事が正しいなら、今日生きる事も正しい」というのは自然な事ではないでしょうか?


私が恐れるのは「同じ事の繰り返しの人生には意味がない。生きて行く意味がない」と思ってしまう人が出て来る事です。

私の言葉は、そういう人たちへの励ましの言葉です。「あなたが昨日生きた事は正しかった。だから今日生きる事も正しい。
昨日生きたように、今日も生きなさい」と言っているのです。


確かに地球、あるいは宇宙が存在する事は正しいという証明が有るのか?と言えば、そんな証明は無いでしょう。しかし人類が存在する事、地球が存在する事、
宇宙が存在する事を、誰が間違っていると言えるでしょうか?

自分自身が存在するのは過去が有ったからですから、過去のご先祖様を含めて、過去に感謝するのは正しいことのように思われます。
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なぜ生まれたかも知らず、生きている理由も知らず、死んだらどうなるのかも知らない。


無になると云われても、本当に無になるのかどうかも分からない。
どう転んでも、今は生きている。
生きるのに理由が必要なんですか?
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生まれてくることを自分でコントロールできるんですか?


迷惑をかけず、痛い目に遭わずに確実に死ねる方法が簡単に得られるんですか?
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難しい宗教論は止しておきます。

結論として、生命は生きている限りすべてが苦痛です。でも死ねば即座に生まれ変わります。途端に苦痛が始まります。それが消えるために修行をします。修行をするには、生きていなければなりません。だから生きて苦しむ必要があるのです。仏教では、悟りの最高峰、阿羅漢に達すれば、死んだとき、完全に消え失せます。絶対に生まれ変わりません。生まれないのだから苦痛から離れられます。苦痛を感じる自分すら存在しないのです。死ぬというよりも、消滅です。難しい修行で、何百回も、何前回も生まれ変わって、修行を続けねばなりません。死んだときには、自分が修行をしていたのも忘れます。忘れていながらも不断に修行を続けます。目標の阿羅漢に達すれば最大の幸せです。しかし幸せを感じる自分は存在しなくなっています。同じ意味で、苦痛を感じる自分も存在しなくなります。地上に存在していた痕跡も残りません。
これは小乗仏教という分類で、日本では蔑まれています。でもお釈迦様が残した言葉を可能な限り忠実に残しているのです。
大乗仏教は、小乗仏教の登場人物の名前を使った小説です。SF小説のようなものでしょうか。小乗仏教と違って、これは読み物として面白いです。だから広がりました。どんどんと新しいテーマで小説が書かれていきました。誰もが面白い方に飛びつき、堅苦しい小乗仏教から離れます。
今でもインドの一部やスリランカ、南アジア当たりでは小乗仏教が本格的な国が多いです。でもお釈迦様の教えから少し外れてしまっています。
中国にも小乗仏教が入り、信仰している人がいます。少数派です。
日本には入ってきませんでした。明治からは、少し入ってきて、新興宗教で主体としているところもあるようですが、基本的に日本は大乗仏教です。根本から間違っています。仏教でないものを仏教と信じています。
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自殺は親兄弟祖父母が悲しむし、悪だからじゃ無い!?

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私は無宗教者ですが、輪廻転生は信じています。


なので、死んでも無になるとは思っていません。

過去世から今世に至る、経験、体験、喜怒哀楽、感動、後悔、反省、進歩、成長……etc
それらの積み重ねが、徐々に自分の魂磨きになって、来世の生につながっていくのだと思っています。

そして魂の汚れが全て削げ落ち、無色透明のクリアな状態になった時、初めて、人間としての修行から全て卒業できて、八百万の神さまの仲間入りが出来るのだと、そんな空想をしています。(^^)

結論を言うと、人間は成長したり、魂の汚れをクリアにするためにこの世に生まれ、綺麗になり切るまでは何度も何度も生まれ直しをするものなのではないかと、私は、ですが、感じています。
多分そんな事(学習や成長)が本能では大好きな生き物なのだと思いますよ。( ◠‿◠ )
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>>人間は死んだら無になるのに


果たしてそうでしょうか。

図書館にいけば、たくさんの過去の人たちにも出会えますよ。
だれかの記憶に携わることになったのなら、かならずしも無とはいえないかもしれません。
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人生が素晴らしいものだからです。

努力すればするほど光ってくる。
生でも死でも、無にしたがるのは、結局は何もしないからですよ。
自分が努力も何もしないから、すべてを無にしたがるのです。
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人間として生まれたからではないかと思います


無常って言葉があるように、世の中にあるもので変わらないものって無いんですよ、きっとね
人間の死が無になるっていうのは、その人の死を覚えてくれていた人がいないから、つまり忘れられたorその人たちも亡くなったからだと個人的に考えます
でも、その人の人間としての生き様ってものは、きっと形として無くても遺伝として受け継がれていくんじゃないかなー
あくまでも個人的な意見です、長文で失礼しました!
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