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「述語」とは何かを辞書では次のように記している。

じゅつ‐ご【述語】
①文の成分の一つ。主語に付いてその動作・状態・性質などを叙述する語。「鳥が飛ぶ」「空が青い」「人間は動物だ」の「飛ぶ」「青い」「動物(だ)」のように、動詞・形容詞または名詞(名詞に指定の助動詞の付いたもの)が用いられる。
【広辞苑】

また、

述語(じゅつご、predicate)とは、伝統文法では、ある節の要素のうち、主語でない部分のこと。主語以外の名詞句は述語に含まれる。
現代言語学では、節の中心となる動詞とそれを修飾する部分のこと。名詞句は述語に含まれない。
述語が一つである文のことを単文(たんぶん)といい、述語が二つ以上存在する文を複文(ふくぶん)または重文(じゅうぶん)という。複文においてそれぞれの述語を中心としたまとまりが節である。
【ウィキペディア】

という定義がある。

このように、どちらも主語に対立するものとして述語を定義している。しかし、「主語」とは何かが明確ではなく、結局巡環論法に陥るしかないところに現在の形式主義/機能主義的な文法論の限界がある。そして、文とは主語と動詞からなるという西欧屈折語文法の誤りを受け継いでいるために、「または名詞(名詞に指定の助動詞の付いたもの)を述【語】とする」と言い訳が記されている。さらに、「ウィキペディア」では、「現代言語学では~名詞句は述語に含まれない。」とことわりを入れる結果になっている。

この混乱の元は文とは何か、主述とは何かが明確ではないための混乱、混迷である。

この主語という語を避けて述語を定義した例が、「現代日本語文法概説」なるHPにある。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/00hajimeni.html

ここでは、述語以外は補語という奇妙な定義がなされ定義自体が混乱、混迷している。それを見てみよう。

[述語・補語]
おそらく、世界のどの言語にも、動詞のようなものと、名詞のようなものがあると思われます。そして、その動詞と名詞とを組み合わせて文を作り、外界の事象や自分の意思・感情などを表現していると考えられます。その、文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言い、動詞と一緒になって事がらを表現する名詞を「補語」と言います。
 この「述語」になれる品詞は、言語によって違います。日本語の場合は、形容詞や「名詞+だ/です」も述語になることができますが、英語では名詞や形容詞も「be動詞」という動詞が必要ですから、述語は全部動詞だと言えます。//

まず、「動詞と名詞とを組み合わせて文を作り」というのが誤りである。

これが宝石です。

には、動詞はどこにもない。しかし、これが文ではないと云う人はいないであろう。したがって、「動詞と一緒になって事がらを表現する名詞」である補語は存在しないことになり、また、<文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言>うのであれば述語は存在しないことになるしかない。

このため、早速、

日本語の場合は、形容詞や「名詞+だ/です」も述語になることができますが、英語では名詞や形容詞も「be動詞」という動詞が必要ですから、述語は全部動詞だと言えます。//

という意味不明の言い訳が続く。全く、論理性がない議論を展開している 

There is a pen.

の「is」は存在を表わす動詞であるが、

This a pen.

の「is」は肯定判断の助動詞で、動詞ではない。こうした初歩的な理解の誤り、誤まった西欧屈折語文法の無批判な受売りからくる混迷である。そして、ここに展開されている品詞論は機能を述べたに過ぎない誤りであり、そのため名詞節の奇妙な説明や動詞活用の誤まった説明が展開されている。

これは、機能主語的な欠陥文法辞典である日本語文法学会 (編集)『日本語文法事典』の文法という項目がないのと同じ本質を捉えられない機能主義的な発想の行き着く典型的な事例である。

では、述語とはどのように理解するべきか?

これは、時枝誠記が『国語学原論』で次のように展開している。

国語に於いては、判断されるところの客体は凡て述語格である。例えば、

  走る。  短い。  人だ。

の如き文に於いては、「走る。」「短い。」は共に陳述が零記号であり、「人だ。」に於いては、陳述は「だ」によって示されてる。そしてこれら陳述の客体をなす処の、詞としての「走る」「短い」「人」は凡て述語格である。

注 「走る」「短い」の如き用言の場合のものを述語といい、「人だ」の如き体言に助動詞の結合しているものについては、「人」を賓語とし、「人だ」を全体として述語ということがある。この様に、一般に用いられる述語の概念には、陳述をも含める結果、「人だ」が述語と称せられ、用言はそれ自身陳述を表わすという見地から、これを述語と称するのであるが、格は凡て客体の秩序であるから、格づけられた語のみについてそれが何の格であるかをいわなければならない。従って、「山へ」について格をいうならば、「山」が目的格であると云う風にいわなければならない。「へ」は主体が「山」に付した秩序の表現だからである。//

ということである。この格の誤解は上の概説の格助詞の説明でも展開されている。格助詞「に」が「到着点」を表わすなどと言い張る回答者もいるが、この点が全く理解されていないためである。

こうした、お粗末な述語理解による日本語文法概説や格助詞理解では、先に提示したような混乱を招くしかないのは論理の赴く処という他ない。

諸賢はこの事実をどのように判断されるのであろうか。■

質問者からの補足コメント

  • もう少し、矛盾、文について補足しておきます。

    言語は感性的な形であると同時に超感性的な概念を表わすもので、直接感性的な表現である絵とは異なります。感性的な形も普遍性、つまり特殊なパターンとして規範により定められ、この普遍的な形(式)であると同時に概念の表現でもある調和する矛盾として存在しています。形式と内容は相対的に独立しており、文字は明朝でもゴシックでも規範を逸脱しないかぎり正しく認識されます。ここに書道が成立する根拠があります。音声も又同様で、歌唱が生まれます。

    文は言語規範に媒介された個別の話者の認識の表現で、語とは次元が異なり、規範による媒介の構造を正しく捉えなければなりません。

    プログラムもまた、このような規範を媒介とした表現で、プログラム言語と呼ばれます。このような規範による媒介の構造と記号の相違もまた正しく理解することが必要です。

    その一旦を指摘しているものです。■

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/07 21:06

A 回答 (13件中1~10件)

独善よりはるかに理解できます。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

もう少し、具体的な見解を御伺いできれば幸いです。■

お礼日時:2020/08/06 18:00

>もう少し、具体的な見解を御伺いできれば幸いです


他の質問者への回答を、とらえて念仏呼ばわすする人が言える言葉ではありません。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

念仏にもそれなりの反面教師としての価値ぐらいはあります。

真理は相対的で、相対的誤謬ということになります。■

お礼日時:2020/08/06 21:28

> 諸賢はこの事実をどのように判断されるのであろうか。



この文を、どう分解解説するのか、知りたいものです。

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声、

> こうした、お粗末な述語理解による日本語文法概説や格助詞理解では、先に提示したような混乱を招くしかないのは論理の赴く処という他ない。

この読点(、)は、文章の解釈や文法的理解の助けになるのでしょうか、単なる休符記号ですか。

文を、文字列としてだけみるなら、空間的配置も重要でしょう。 シリアルに並ぶとは限らないです。
「述語とは何か ― 形式主義文法論の混迷」の回答画像3
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>この文を、どう分解解説するのか、知りたいものです。

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声、

これは、文ではなく、句、語を並置しただけの云い差しですね。文とすれば、読点ではなく、句点による各判断文の並びになります。各読点の所に、判断の零記号を見なければなりません。

云い差しの場合は、

交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声などが乱れ並んだ。

のようになります。

句読点は語ではなく記号ですが、語句の切れ目や文の終りを明確にします。古文に句読点はありません。

文は文字列を線状的に並べますが、それを支える実体である話者の認識は立体的、重層的です。

なお、示された自立語、付属語という品詞区分は全く形式的な誤った分類です。

この点は、「補助用言という誤り」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9455 …

他を参照下さい。■

お礼日時:2020/08/06 23:04

☆ 交通標識の各種マークや禁煙の表示、ストライク、アウト、市長挨拶代読の発声、



> これは、文ではなく、句、語を並置しただけの云い差しですね。文とすれば、読点ではなく、句点による各判断文の並びになります。各読点の所に、判断の零記号を見なければなりません。

☆は 「言いさし」ではないです。 例のただの列挙です。 列挙の多くは、例となる同類と例示者が思っている、名詞、名詞句、熟語、助詞、副詞、感嘆詞、記号を、ただただ、並べているだけということが多いのです。 「~~です/~~が例である」などの部分は不要なことが多いです。 「~~など」の副詞を省略した表現と解釈するのは勝手ですが、もともと例示なのですから、「など」は不要です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E4%B8%80 …
このサイトにあるような表も、読表する人にとっては、空間配置/配列で意味することろを読み取れます。 述部が必要とは言えません。 横断歩道の標識や交互に描いた白線でも、「です」のない『市長挨拶代読』の発声や式次第表示でも充分に意が伝わります。 「アウト」「セーフ」の発声を聞いて意味が分からないのならば、状況をみてないからです。 「お母さん」「あなた」のようなのでも、呼びかけなのか、注意喚起なのか、状況で判断できます。 応答の「はい」でも、意味は状況や発声で様々であることは、定型発達した日本人なら分かってます。 言いさしではないです。

> 句読点は語ではなく記号ですが、語句の切れ目や文の終りを明確にします。古文に句読点はありません。

「古文に句読点はありません」で、何を伝えたいのかが分かりません。
私は、「、」を発声上の記号としてではなくて、文の構造の読取りに誤解が起きにくくする記号として使うように心掛けています。「、」や「。」では足りないと思ったときには、「」()=>*☆……などいろいろの記号を使いますし、段落を分けたり、箇条書きにしたり、その他の手法を使ったりもします。
そうしている私は、{次のような表記をされる方が、文の構成や語法を論じる}のが、奇妙に感じてしまいます。

★★= こうした、お粗末な述語理解による日本語文法概説や格助詞理解では、先に提示したような混乱を招くしかないのは論理の赴く処という他ない。 =★★

> 文は文字列を線状的に並べますが、それを支える実体である話者の認識は立体的、重層的です。

そうですね。 ただ、文字列を線状的に並べることは多いですが、古文書などでは、注記が随所に入っていることが多いです。 日本書紀など見ると、原注、補注がたくさんです。 それを読むときには、筆者の意図を空間的、位置や大きさ、文意を考慮しながら、読者は読み取ろうとします。 先の回答に添付図示した品詞分類の説明も、単に、上から下へ、同一行では左から右へと読んだのでは、何を意図しているのか読取りは困難です。 逆に言えば、閲覧者に意が通じると想定して、単語やマークを意図を持って表示していれば、それは文です。 道路の走行レーンに描いた矢印や、停止線も文です。 「風呂」「酒」「飯」「寝る」「え」「それで」「ふーん」のような名詞や動詞、感嘆詞、言いさしもすべて文です。

> なお、示された自立語、付属語という品詞区分は全く形式的な誤った分類です。

品詞区分から始めて文を理解できるのは、そういうことができる文についてのみです。
平面幾何学の数式では、平面ではない幾何をすべて理解し説明することはできません。
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この回答へのお礼

丁寧な応答をありがとうございます。

>>「です」のない『市長挨拶代読』の発声や式次第表示でも充分に意が伝わります。

だから、言い差しでなければ、「各読点の所に、判断の零記号を見なければなりません。」と記した通りです。

>>「古文に句読点はありません」で、何を伝えたいのかが分かりません。

句読点は本来の日本文にはなく、後から導入された記号だということです。

>>段落を分けたり、箇条書きにしたり、その他の手法を使ったりもします。

言語表現は言語表現と非言語表現との矛盾の統一、つまり調和する矛盾として存在しています。この点が理解されていないための混乱です。注を付けようと、段落別けしようと詠む場合には線状、シリアルにしか読めません。平面的な配置、形式は非言語表現に属し、俳句の行別けや詩の段落別けは非言語表現に属します。詳しくは、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)他を参照下さい。

>> 「風呂」「酒」「飯」「寝る」「え」「それで」「ふーん」のような名詞や動詞、感嘆詞、言いさしもすべて文です。

おしゃる通りです。いわゆる一語文で、「風呂■」「酒■」「飯■」「寝る■」のように、零記号が存在することにより文になっています。語と文の質的、段階的相違と関連を正しく理解する必要があります。先に引用の時枝の『国語学原論』を参照下さい。

>>品詞区分から始めて文を理解できるのは、そういうことができる文についてのみです。

上記の通り、一語文から始め、より複雑な構造、構文へと展開、発展します。規範としての語と話者の個別認識の表現としての文の相違と関連を正しく捉えられないと、今回提示したような混乱、混迷した理解に陥ります。

>>平面幾何学の数式では、平面ではない幾何をすべて理解し説明することはできません。

当然、事実に基づき次元を拡張しなければなりません。現在の超弦理論では11次元を想定しています。■

お礼日時:2020/08/07 10:52

>真理は相対的で、相対的誤謬ということになります


人格も、も真理のうちの一つです。
相対的といえば他人を否定しても、事実は変わりません、あなたの意識の中に限定してのみ効果があるだけです。
まず他人を否定して(事実もなくなったと勘違いして)なら自分の主張言いたい放題ですね、きゅく単位言えば画家でも可能です、これが独善です。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

日本語もあやしようで、論理的なご指摘を期待しております。

○○症の懸念があります。■

お礼日時:2020/08/07 10:22

以下では、 ★の印から始まるところが追加です。

 行頭に★のないところは、前の引用です。


>>「古文に句読点はありません」で、何を伝えたいのかが分かりません。

句読点は本来の日本文にはなく、後から導入された記号だということです。

★ 分かりました。カタカナ、アルファベット、算用数字、カッコなども、また、万葉仮名のあるところを考慮すると、文字そのものが、本来の日本文にはなかったのかもしれないですね。 表記方法だけでなく、現在使われている多くの熟語も本来の日本文にはなかったと思います。 たぶん、段落をつけたり、箇条書きにしたり、行頭を下げるなどして、意を通じやすくする工夫も、本来の日本文にはなかったのでしょう。 本来の日本文にあったのか、なかったのかが、さほど重要なことと思いません。

>>段落を分けたり、箇条書きにしたり、その他の手法を使ったりもします。

言語表現は言語表現と非言語表現との矛盾の統一、つまり調和する矛盾として存在しています。この点が理解されていないための混乱です。注を付けようと、段落別けしようと詠む場合には線状、シリアルにしか読めません。平面的な配置、形式は非言語表現に属し、俳句の行別けや詩の段落別けは非言語表現に属します。詳しくは、三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)他を参照下さい。

★ (言語表現と非言語表現との矛盾の統一、つまり調和する矛盾)で何を伝えたいのかが分かりません。 (「あれをそこに移して」と言葉で発し、指さしながら方向を示す)についても、(言語表現と非言語表現との矛盾の統一、つまり調和する矛盾)と言うのでしょうか。 (言語表現と非言語表現と状況の総体で意を支わす)ことが多いと日常感じてますが、「矛盾」という用語を想起したことはないです。

>> 「風呂」「酒」「飯」「寝る」「え」「それで」「ふーん」のような名詞や動詞、感嘆詞、言いさしもすべて文です。

おしゃる通りです。いわゆる一語文で、「風呂■」「酒■」「飯■」「寝る■」のように、零記号が存在することにより文になっています。語と文の質的、段階的相違と関連を正しく理解する必要があります。先に引用の時枝の『国語学原論』を参照下さい。

★ 「零記号が存在する」という無理矢理の理屈を導入する必要はないです。 「345」は、「3百4拾5」の代わりに「零記号」を挿んでいるという理解よりも、並び順、配置そのもので示していると理解した方が自然です。発音するときに、億万千百拾を挿むから、印さないだけで零記号が存在すると解するのは不自然です。 中臣鎌足には「のノ」の零記号が存在する、本領安堵には「を」の零記号が存在する、藍韋肩腰白綾威胴丸には零記号が存在する、「全員集合」には零記号が存在すると無理に解する必要はないです。 英語で、I love You. You love You.は、聞いていれば、何を言っているのか分かるのと同じです。 あえて零記号なんて思わなくても、分かります。 零記号があるとして、それを有記号に置き換えて、「風呂だ/にする/の用意はできてるか」「酒だ/にする/の用意はできてるか」「飯だ/にする/の用意はできてるか」「寝るゾ/んだ」のような理解は、それであたりの場合もありますが、「ウルセイ、構うな」という意思表示・感情表出や、「ただいま」「よ」「や」のような日常習慣の発声そのものかもしれません。 聞いていれば、その発話者やときと場所と声音・トーンなどから、意味や意向は、だいたい理解できるものです。 ことさらに「零記号が存在する」などと解するのは、袋小路に入り込むようなものかもしれません。

>>品詞区分から始めて文を理解できるのは、そういうことができる文についてのみです。

上記の通り、一語文から始め、より複雑な構造、構文へと展開、発展します。規範としての語と話者の個別認識の表現としての文の相違と関連を正しく捉えられないと、今回提示したような混乱、混迷した理解に陥ります。

★ 赤ん坊からの言語使用をみると、(一語文から始め、より複雑な構造、構文へと展開、発展します)には説得力があります。 ただ、大人になって、社会関係、人間関係などの理解に相互共有できるものがあると分かってくると、夫婦や親友、政治家、企業内、あるいは取引関係では、あれこれ言わない、複雑な言語表現をしない、どんどんと一語文になったり、忖度をもとめて、目線や態度で意思を伝えようとします。 病院やスーパー、行政の窓口でも、静かなものです。 目標とする相手の理解が大丈夫だと踏めば、単純な記号や仕草だけで、意思の伝達はします。 情報の伝達の場合などだと、数列や数字記号ばかりになることさえあります。 下手に(いわゆる文章表現の形にして)しまうと、読むのも、聞くのも困難になります。  

>>平面幾何学の数式では、平面ではない幾何をすべて理解し説明することはできません。

当然、事実に基づき次元を拡張しなければなりません。現在の超弦理論では11次元を想定しています。

★ (当然、事実に基づき次元を拡張しなければなりません。現在の超弦理論では11次元を想定しています)では、何を伝えようとされたのかが、私には分かりません。 私は、次元の2次元、三次元などを言っているのではないです。 (ある限定された範囲のことを解するということに執着しても、その方法では他の範囲のことの理解には使えない)と言っているつもりです。 「~~~ 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」 これは一語文ではないですが、通常述部に該当する動詞はないですし、多少は副詞ではないと日本語的には理解してます。そしてこのような表現で、多くの名声と好評価を得ています。 商品名、番組名、地名、国名、アイドル名、書籍や詩歌の題名(?)、章の名称や小見出し、ヘッダー、索引と該当ベージ番号なども、特に修飾部や述部、副詞などつけずに表記され、発声されています。 高校で数学の証明の回答は、述部などない、恒等式を順番に並べるようなやり方でした。 「であるから、よって、となる」などというのは、省略しているという考えもあるでしょうが、基本は恒等式の羅列なのだから、「であるから、よって、となる」という因果や推移を表現する性質のものではないでしょう。 その昔、一時だけですが、マシン語でコンピュータのようなものを自分流に動かしたことがありますが、このような数字の羅列のようなコードでも「文」と私は呼んでいました。https://xtech.nikkei.com/it/members/ITPro/ITBASI … 《何を文とするのか》は、状況次第で変わるのかもしれませんが、《ごく普通の日常生活の意思伝達に使っているものは文である》というように考えたら、(マークや記号、ちょっとした仕草、表情、「で」や「あ」「え」「おい」「あの」のような発声)も、そこに何かの省略がなされていると思うよりも、そのマークや仕草、発声がまるまるで、完全な文と考えた方が、合理的だと、私は思います。  (この末尾の一文は、文法的なかかり関係でみれば、おかしいでしょう。 でも、会話とか、駄文には、この手は多いです。 発話するときの拍で、つい「、」を書き文章にも入れてしまうのと同様だと思ってます。 国語の時間に学習する文法で、日常が構成されているのではないです。 国語の時間に学習する文法は、ある種の書き文に関して、キレイ・理解しやすいなどの視点で、説明しているのでしょうが、現実の文はそのようなものばかりで構成されているのではないです。 学校で習う文法は、教習所や交通法令の交通ルールのようなもので、実際に行われているルールではないです)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>「矛盾」という用語を想起したことはないです。

言語表現の本質を理解するには、唯物弁証法に基づく調和する矛盾の論理が不可欠です。
この点は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)が論じていますので是非一読ください。この論理の理解がないため、以下に記述された内容は誤解に満ちています。

言語は感性的な形と概念の統一という調和する矛盾として存在しています。この矛盾の論理の理解なしに言語、文法を論じることはできません。

>>「零記号が存在する」という無理矢理の理屈を導入する必要はないです。

それなしに、述語、格付けが理解できないことは最初に提示した通りです。
  走る。  短い。  人だ。

の如き文に於いては、「走る。」「短い。」は共に陳述が【零記号】であり、「人だ。」に於いては、陳述は「だ」によって示されてる。そしてこれら陳述の客体をなす処の、詞としての「走る」「短い」「人」は凡て述語格である。//

理解できますか?
この辺がきちんと理解できるようにしましょう。■

お礼日時:2020/08/07 16:56

真理を倫理的にまず説明してほしいですね、真理に対する相対的なものがなければ説明不能のはずです。


それぞれ、何を基準にするつもり?。
真理、真実・・・・そんなもの現実に対応するものありませんよ、それこそ相対的ですよ。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

やはり、●○の懸念があります。

真理を倫理的→論理的

>>何を基準にするつもり?

事実に基づかねばなりません。

>>それこそ相対的ですよ。

だから真理は相対的だと言っていますが。相対的真理、と相対的誤謬が存在し、絶対的真理や絶対的誤謬は限られた範囲でしか成立しないということです。
(『人間の頭脳活動の本質―他一篇 』(岩波文庫) – 1952/11/5;ディーツゲン (著), 小松 摂郎 (翻訳))■

お礼日時:2020/08/07 16:44

> 言語表現の本質を理解するには、唯物弁証法に基づく調和する矛盾の論理が不可欠です。


> この点は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)が論じていますので是非一読ください。この論理の理解がないため、以下に記述された内容は誤解に満ちています。
> 言語は感性的な形と概念の統一という調和する矛盾として存在しています。この矛盾の論理の理解なしに言語、文法を論じることはできません。

>>「零記号が存在する」という無理矢理の理屈を導入する必要はないです。
> それなしに、述語、格付けが理解できないことは最初に提示した通りです。
>  走る。  短い。  人だ。 の如き文に於いては、「走る。」「短い。」は共に陳述が【零記号】であり、「人だ。」に於いては、陳述は「だ」によって示されてる。そしてこれら陳述の客体をなす処の、詞としての「走る」「短い」「人」は凡て述語格である。//
> 理解できますか?  この辺がきちんと理解できるようにしましょう。

ほとんどコミュニケーションができません。 あきれて、やめるしかないです。
その状態で、実社会でやっているのが、私には不思議です。
run walk start 着席 終了 生産 清算 精査 報告 相談 分裂 分解 細分 集合 変化 変化 共鳴 共感 発声 沈黙 目視 厳重注意 緊急避難 沈思黙考 敵陣突入 救援派遣 多くの語は、名詞にも動詞にも使えます。 (す/する)をことさらに付加しなくても、そのままで動詞として使えます。 それが実際です。 名詞と動詞は異なるもので、同じ語でどちらにも使えることはないという原則を思い浮かべるのは、浅慮です。対格、主格、述語格は、使い方や配置によるのであって、語そのものに固有固定の義があるのではないですよ。 もちろん 屈折語に近い語を使う民族もいるでしょうが、孤立語的な要素を全く使わない民族なんて少ないでしょう。 {(どんどんと外来語、新語、新概念を表す語を使う民族)は、(名詞と述語とが切り分かれていて別物だという発想)は理解しかねる}と、私は思います。
どのみち、アスナロウとは、ほとんどコミュニケーションができません。 あきれて、やめるしかないです。 ごきげんよう。 さようなら
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この回答へのお礼

>>(す/する)をことさらに付加しなくても、そのままで動詞として使えます。

漢語には<動詞>的な内容をもつものがいろいろありますが、活用を欠いているため直接に<接尾語>や<助動詞>をむすびつけることができません。それで<抽象動詞>「する」を使って抽象的に捉え直し、この活用を利用します。そのままで動詞として使用する例があれば示して下さい。多分、品詞というものが理解できていないと思います。

この程度の事実認識もできずに実社会でやっているのが、私には不思議です。

あきれて、眺める他ありません。

まずは、しっかり事実を理解できるようにしましょう。まあ、いずれは事実に反逆されるしかないと思いますが。

疑問が生じたら、また質問して下さい。

それまで、さようなら。■

お礼日時:2020/08/08 10:06

「現代日本語文法概説」を書いた saburoo です。


内容的にはあえて反論する必要もないものかと思いますが、一個所だけ、疑問点を。

次のところ、

    There is a pen.
   の「is」は存在を表わす動詞であるが、
     This a pen.
   の「is」は肯定判断の助動詞で、動詞ではない。こうした初歩的な理解の誤り、

「初歩的な誤り」があると思うのですが、訂正はしなくていいのですか?

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

This a pen.
これはペン【です】。

の「is」は肯定判断辞、つまり助動詞の「be」ですが、何か疑問など?

これが存在を表わしていすますか■

お礼日時:2020/08/11 22:12

えーと、どうもわからないのですが。



No.9の「お礼」の欄、

    This a pen.
    これはペン【です】。
  の「is」は肯定判断辞、つまり助動詞の「be」ですが、何か疑問など?

例の中の「is」が助動詞の「be」、つまり一つの語であるならば、その前にスペースがいるのでは?
つまり、

    Th is a pen. (見やすいようにスペースを大きくとりました。)

となるのでは?
その場合、この「Th」というのは、英語の単語ですか? どういう意味の?

という話です。

どうも、話が通じていないようで。

saburoo
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この回答へのお礼

失礼致しました。

暑さの精で、弘法も筆の誤りです。

ご容赦のほど。

This a pen. ⇒ This is a pen.

謹んで、訂正させていただきます。

こういう点はさすが老獪ですね。

で、内容についてはご納得いただけたということで宜しいでしょうか。■

お礼日時:2020/08/11 23:33

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