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幕末のころ、各藩の勤皇の志士たちが、京都の祇園や宿場で会合を繰り広げても、お互い面と向かって話し言葉で分かり合えるのは、ほんの少し(大筋)だけで、真意とか背景とかの詳細は、書き言葉の手紙に託したそうですね。
司馬遼太郎が講演で次のことを語っています。
「大正時代から刊行された木戸孝允や坂本竜馬の関係文書は、ほとんどが手紙のやりとりであり、そのおかげで私は小説家になれたようなものです。>

質問は、幕末のころ、全国的な共通の話し言葉が弱く、書き言葉に頼っていたのでしょうか?

A 回答 (3件)

京都に集まったような「木戸孝允(桂小五郎)」「坂本龍馬」のように他藩の人と曲がりなりにも意思が通じ合えたのはいいのですが、もっと前の時代には、江戸に各藩の江戸屋敷があったような頃は、別の藩の武士と意思を通じる為には、あまりにも方言が違うので、当時の武士の共通した趣味であった「謡曲」の言葉で話したという事実もあり、「さん候(さんぞうろう=そのとおり)で通じた事もあったと言います。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<「謡曲」の言葉で>を使用した場合があるのですね。
少し違うかもしれませんが、浄瑠璃も趣味ばかりでなく共通語として利用していたようですね。

お礼日時:2021/10/14 16:55

参勤交代で、武士の多くが江戸に長期滞在してますから、当然、標準語の江戸弁、理解してたはずです。


けっこう皆さん、直接会って話すために、旅をしていますよ。
龍馬は、脱藩したため、実家のお仁王さまあてに、いろいろ書いたのが残ってます。
また、桂小五郎は、逃亡期間がながいため、連絡は手紙だったでしょう。
他の時代と比べ、手紙の資料が多いというだけです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
各地の藩主・家来たちは、江戸城の詰め所や街中で、江戸弁でしょうか、共通語を使う・使わざるを得なかったでしょうね。

お礼日時:2021/10/13 19:19

全国共通の話し言葉、という概念は音声メディアが発達することで初めて成り立つ概念ではないでしょうか。



西ローマ帝国はラテン語という共通の書き言葉を有していましたが話し言葉はイタリア語とスペイン語にあっさりと別れてしまっています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
話し言葉は<あっさりと別れ>ることもあるのですね。
中国では、漢字は共通なれど、話し言葉は南北で違いが著しい、と聞いております。

お礼日時:2021/10/13 19:19

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