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自分と一緒にいる同じクラスの人、
同じ職場の人
という形で
一定期間、一緒に居た人がいたと考えてください。

学校だといじめがあれば、先生は指導するという事で注意をするでしょう。
でも退学・停学・落第とかきちんとしてそれなりの立場を与えずに
ただの注意だけで、まったくいじめを辞めずに卒業まで行った場合、
やられた相手はまったく恨みを返すことができず、心に怨み・憎しみ・心の傷だけが残るでしょう。
会社でも、そういうこと起こるかもね。

中には生き地獄とか言って遁れたくて自殺までする人もいますね。
自分を傷つけリストカットなどと危ない傷を作る人もいますね。
丑三つ時参り(詣で)とかいって呪う人もいるかな。

ところが、時を経て、そのいじめっ子が、自分とは全く別の形で別の理由で
死んでしまった。もういない。これを呪殺の実りというか。
自分で手を下すと犯罪になる。追われる立場となり、つまらない。
自分が犯罪者になり、いじめっ子と同じレベルに落ちる。
ならば、敢えて放っておく。そして時の流れで、自分より先に逝った。


それを天罰・仏罰・神罰と思うことは正しいですか。

一体、この3つの用語の本当の意味は何だと思いますか。

それこそ、江戸の仇を長崎で討った、

もう彼らに逆らわれることもない、道を阻まれることもない。
障害物なし。
これからは安心して、わが道を歩ける。

訃報が来ても葬式など行かない。お香典などもったいない。
払う必要なし。そういう時間を割かない。




ご意見をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    >「時の流れで、自分より幸運に恵まれる・周囲から賞賛される・財産を得る」
    となったときに
    「天恵・仏恵・神恵」
    と思うのでしょうか。

    思わないです。私は裏を考えたいです。もしかしたらほかの力が働いたのではないかという事で
    それは次のコーナーで、別に意見を戴き、今後の考えを決めることになるでしょう。

    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12754062.html
    (人は何のために働くか)

    もお時間のございます方は合わせてご覧ください。

    なお、皆さま、予想外の沢山のお言葉感謝します。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/13 22:33

A 回答 (10件)

それはきっとそのひとの運命ということでしょう。


ですが、だからといって、その死を喜ぶことはするべきではありません。
その人によって教えられたこともありますよね。
ときには、罪を許し、その人の幸せをいのることは大切ですよ~
お葬式には行き、きちんと感謝と別れのことばをいうことをお勧めします。
憎しみからは何も生まれませんぞ!
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この回答へのお礼

どう思う?

いや、感謝よりも怨み・憎しみ・心の傷の
ほうが比重は重いでしょうね。

だから、こんなコーナを作ってみた。

お礼日時:2022/01/13 11:46

私の勝手な意見です。


参考程度にしてください
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「天罰・仏罰・神罰」がある、と信じるなら、そう思うことは正しいです。



というより、「天罰・仏罰・神罰」と思える方が、自分の負の意識を浄化できます。
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不快にさせてしまったのならすみません。


感謝よりも怨み・憎しみ・心の傷のほうが比重は重いのもおっしゃる通りです
どうしても、乗り越えなられないものが人生ではありますよね。
しかし、本当にこころは晴れていますか。
私がそのようなときは許すことによっていい面に気づくことができます。
いじめられたからこそ今こうやって相談に乗れたりしています。
許すことも考えてみてください
一つのことにとらわれず、一つの意見として心に残れば幸いです。
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あなたの気持ちはよく解ります。


自分が一生許せない人、というのは殆どの人が持っているそうです。

直接手を下すことは犯罪だし、そんなことをする価値もないほどの人達。
その人に凶事があれば、スッキリするのは当然です。

でもそれはあなたの祈りのせいでは、決してないと思うのです。

積善の家に余慶あり
積悪の家に余殃あり

という言葉が私はよく理解出来ます。

善行を積み重ねている家には、子孫にわたるまで必ず思いがけない慶事があるものであり、
悪行を積み重ねている家には、子孫にわたるまで思いがけない不幸に見舞われるものだ。

という意味ですが、これを見ると善行を重ねている家は当代だけではなく、子孫代々まで、と言うところがミソで、すぐに返ってくるとは言ってないです。

必ず自分に返らなくても、子孫代々に引き継がれて返るのなら、少しでも善いことをして生きていきたいと思います。

悪いことをした人達も自分に返るだけでなく、子孫代々にずっと思いがけない凶事として返ると思ったら、少しは自重しないのでしょうか。

それともその人達が既に、先祖の悪行の結果であったかも知れないです。
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この回答へのお礼

助かりました

悪行を積み重ねている家には、子孫にわたるまで思いがけない不幸に見舞われるものだ。

後継が続行している場合もあるので
やがて対峙の時が来る気がしている。

自分が持つかはわからぬが、やがて闘う相手になりそうな気はしている。

お礼日時:2022/01/13 17:41

天罰・仏罰・神罰



どれも人間が考え出した自分への戒めです。
それを他人に当てはめて捉えることは、あまり良いこととは思えません。

ただ、それを商売にしている人もいます。
生臭坊主とかインチキ神主とか。
そういう人はいつか自身の身を持って天罰・仏罰・神罰を味わいます。
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この回答へのお礼

助かりました

生臭坊主とかインチキ神主とか。
そういう人はいつか自身の身を持って天罰・仏罰・神罰を味わいます。


味わってほしい。

お礼日時:2022/01/13 17:37

それを天罰・仏罰・神罰と思うことは正しいですか。


 ↑
正しくないですが、それで気が済むなら
良いのではないですか。
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この回答へのお礼

ありがとう

是非とも思いたいです。

お礼日時:2022/01/13 17:36

> 感謝よりも怨み・憎しみ・心の傷のほうが比重は重いでしょうね。


> だから、こんなコーナを作ってみた。

どちらが比重・重量?があるかは、人次第・状況次第で、さらに時間的にも変化するので、一律には言えないでしょう。 傷でも、恨みでも、愛でも、憎しみでも、怒りでも、安らぎ、喜び、哀しみ、憤り、解放感でも、安堵でも、その後に変化をするのが常です。呪い続け、恨み続けること、感謝や愛情を持ち続けることも、"まあない"ものです。 確かに、一見するとしつこく10年、20年も似た想いを抱き続けているように見えてしまうこともある人がいるのは間違いないですが、その人の数分間毎の精神・心理状態を覚醒時に限って3日間でもチェックすれば、最初とか、一番強く想っていた3日間でも、5分ごとのカウントで、半分は別のことを想っているでしょう。
恨んで復讐などが、事件報道されることは結構あります。しかし、その復讐行動は、そのしばらく前に実行する気になってしまったというだけのことであって、延々と恨みのことばかりを想っていたなどということは、あり得ません。 比重でも、重量でも、強度でも、エネルギーでも、いつも状況を同様に保っているのではなく、常時変化し、たまに吹き出るような状況に"なることがある"だけです。 吹き出るときのことだけをイメージして評価するのは適当ではないです。

> 時の流れで、自分より先に逝った
> 「天罰・仏罰・神罰」と思える方が、自分の負の意識を減らせる
> それを天罰・仏罰・神罰と思うことは正しいですか。
> 正しくないですが、それで気が済むなら 良いのではないですか。

バカげた発想でしょう。 「時の流れで、自分より先に逝く」かどうかは結果です。 何かの結果を知って「天罰・仏罰・神罰」と思うのであれば、「時の流れで、自分より幸運に恵まれる・周囲から賞賛される・財産を得る」となったときに「天恵・仏恵・神恵」と思うのでしょうか。 たまたま、半年・数年後に自分よりも先に逝くような事態になればともかく、数十年後で自分も後期高齢者の75歳になった頃に、「時の流れで、自分より先に逝った」となって、「天罰・仏罰・神罰」と思うような人はあまりいそうもないです。 そのように思うのであれば、よほどの頭脳の持ち主です。もしかすると、脳に何らかの問題を抱えているのかもしれないです。
「気がすむのなら、なんだってイイじゃない」という現実的発想は妥当なものの一つでしょう。 でも、「"あれは、天罰・仏罰・神罰だ"と思って気を済ませる方法」は、《天罰・仏罰・神罰と思えるようなことが起きるのを期待している》状況をもつことです。 イイことではないです。
   ~~~~   ~~~~   ~~~~   ~~~~

> 既に、先祖の悪行の結果であったかも知れないです。

因果応報とか、天罰・仏罰・神罰とかを考え出すと、いじめられる・排除される、被害を受けることは、《自分に加えられた天罰・仏罰・神罰、因果応報》とも考えるのと似ていると思えませんか。 いじめっ子は、天罰・仏罰・神罰を因果の応報として受けているのかもしれません。 

イジメでも、DVでも、受けるのは嫌なものです。 それをああだこうだと考えたり、加害者に恨みを抱いたりしても、状況がよくなるわけは、ほとんどないです。 加害者に罰が下るのを期待しても、期待通りにはならないことが多いはずです。 
鬱憤晴らしを想うよりは、勉強、音楽、仕事、遊び、スポーツ、料理、ファッション、ダンス、、、、 やっていかなければならないこと、成功すれば気分がよくなること、興味があること、楽しいこと、難しいからチャレンジしがいのあることを、もっとたくさんの時間を使ってやる方がイイです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

助かりました

大変参考になります。読み応えのある回答に感謝申し上げます。

お礼日時:2022/01/13 22:06

「因果応報」は「一念三千」とセットである。



自分が何かを思う。
その思いは「諸法無我」の法則に従って、現在の千の世界と過去の千の世界、未来の千の世界に影響を及ぼす。
合わせて「一念三千」である。

悪いことを思えばそれなりの影響が三千世界に及ぶ。
そしてまわりまわって自分にも返って来る。
善いことを思えばやはりいずれ自分にも返って来る。
これが「因果応報」である。

自分が仏罰と思えば仏罰だし、そう思わなければ仏罰ではない。
そしてどちらに受け取ろうと、その心は三千世界に影響を及ぼし、巡り巡って自分にまた返って来る。

天罰と神罰については知らない。
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社会生活を豊かに送るには、縁や人脈が重要だと思っております。


友人/仲間/結婚相手をも誤ると不幸になりますよね・・・
つまり、
過去に悪さした事は、何らかのかたちで周知されるので、信用を失ったり、縁や人脈が離れていく・・・
気づかずに、損をしていると思いますよ。

まあ、早死とか関係ないでしょう。
人生の夢や目的を全て達成して幸せになれたら、死んでも良いと思っていますけどねw

ちなみに、私が20代の頃、脳内の「殺したい奴リスト」に、5名ぐらい記入しておりましたが、
30代には、そんなリストの事なんてすっかり忘れて消えていました。名前すら思い出しません(笑)
そんな彼らよりも、自分が幸福になれば良いだけです。
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この回答へのお礼

助かりました

確かに虐められたままで卒業後、何年かは恨みが続くが、
連絡を絶ち、住所も変えてしまえば、向こうもアクセス不能で
来ること亡くなりましたね。こちらも、そのあとの生活邁進で
忘却ですね。名前は同姓異名の人来ると、比較することはありましたが。
まあそれでも、その人の使い道で利害の使い分けになりましたな。
社会に出れば、お金も絡み、逆らう人も資金枯渇で去っていたように思います。
そのあとの先方の栄枯盛衰を見て、やはり自分の道が正しいと悟りましたね。

お礼日時:2022/01/14 09:07

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