§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。
考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。
X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。
もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。
だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて:
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は 絶対性 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。
《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り・喩えとしての強調でないかぎり―― マチガヒである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を:
《空(欠如) 》 X-Za と言おうが
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが
自由であろうし:
《神》X-Zc とも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも
言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。
X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( Σ Y-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。
もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( Σ Y-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (また = non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
他人あるいは先祖のひとり( Zm )の人生( Σ X-Y-Zm )について 自己( Zn )が とやかく言えたものではない。言うこと自体は自由だが その人生のあり方を自分の考えの中に閉じ込めたり その存在(たましい)を自己のチカラによってどうにかしたりすることが出来るわけがない。相手の――あるいは自己の――意志や心を踏みにじることは 無効である。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》または神観ないし言わば《 神( X )史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 探究し議論しなおせばよい。
以上の定義だけの理論は 次が その心である。
吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。
☆ さらにご教授ください。
A 回答 (144件中101~110件)
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No.46
- 回答日時:
ごちゃごちゃ独自記号を持ち出してるだけで話がまったく進んでいない印象です。
結論を明確に書くべきでしょう。哲学的には既に結論が出ているのを、何の追加検討もなく、無為にほじくり返しているだけという印象です。
神がいようといまいが人間には認識できないのだから、結論が出るはずがない。認識できないんだから「正しく信じる」のが何かなんて哲学の問題にはなりません。それぞれの宗教が自分らの考える正しい神を主張してはいますが、哲学ではありません。
ご回答をありがとうございます。
★ ごちゃごちゃ独自記号を持ち出してるだけで話がまったく進んでいない印象です。結論を明確に書くべきでしょう。
☆ そうですね。
① 試行錯誤の過程です。(でした)。
② 話をすすめるというよりは あくまで定義の次元と段階にとどまっています。
③ 記号は最小限必要なだけに限っていると思いますよ。
④ ただ話(推論)は だらだらしている感じがたしかにします。そして そういったところを――いま読み直してみて――むしろそのままにとどめようとしています。その点 あしからず。
★ 哲学的には既に結論が出ているのを、何の追加検討もなく、無為にほじくり返しているだけという印象です。
☆ でしたら その結論を示していただくのが 一番の回答かと思います。そのために質問として掲げています。
★ 神がいようといまいが人間には認識できないのだから、結論が出るはずがない。
☆ いえ。微妙にちがうと思います。
神は 《認識できない》と規定することは 哲学として精確ではない。
《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ――これを〈非知〉と言う――》なのだと思いますよ。
★ 認識できないんだから「正しく信じる」のが何かなんて哲学の問題にはなりません。
☆ 非知ゆえに 感じるや考えるではなく 別の概念として信じるという言葉を用いるのです。
★ それぞれの宗教が自分らの考える正しい神を主張してはいますが、哲学ではありません。
☆ その《ただしい神》について すでにここに述べた趣旨によって判定することができると思いますよ。
しかも あなたの場合ここで:
★ 哲学ではありません。
☆ という判断について 根拠をしめしておられない。のです。
★ 認識できない
☆ だけでは 定義になりません。《知り得ないと証明できた未知》については たしかに《不可知》と規定し得ます。
証明できていないし 知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ( incomprehensible incomprhensibility )つまり非知の場合は 受け容れるか《受け容れない(信じない)として受け留める》か いづれか一つになるはずです。
言いかえると 普遍神は 《〈有る神〉と〈無い神〉との重ね合わせ状態にある》と考えられ ひとは自由にいづれかをえらんで 互いに同等に信じる。
No.45
- 回答日時:
先程はとてもご丁寧な返信をいただきありがとうございました。
(^^)もう一つ、これはとても長いのですが、(長いのには少しでも自殺から気を逸らしてほしいと言う気持ちも)こちらでたまに自殺願望者などを見付けると、載せたりしているものです。
コピーなので、先ほどの回答と所々重複していますが、もしよかったら、暇な時にでもお読みくださると嬉しいです。
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【変な婆さんのおとぎ話です。】
ひたすら長いので、無理に読まなくて構いませんからね。
最初にお断りしておきますが私は宗教団体に属する事は大嫌いなので、無宗教者です。
ただ、私は神様(八百万の神様含む)の存在や、この世の不思議、引き寄せの法則、スピリチュアル、シンクロニシティ等には興味津々で、生まれ変わり説(輪廻転生)も信じてはいます。
ここからは、様々な分野でご活躍の(過去形も)著名人のお話や、聖書や仏教などの教え、精神論など、ザッと私が乱読してきた中で、それ等を基に私が空想してみた世界観のお話です。
私は、この世とは汚れ切った真っ黒な魂を磨きに来るための、教習所のような場所だと思うようになりました。
なんだかんだ文句や言い訳を言いながらも、本来人間は、自分が成長したり勉強したり悔い改めたりすることが本能的に大好きな生き物のような気がします。
空の国には100通くらいの(もっとかも)ピンからキリまでの人生シナリオ(筋書き)のサンプルがあり、人々は自由にその中から一つのサンプルを選んでは、地上に降り立ち、誰かのお腹の中に宿ります。
今の人生が苦痛の多い、苦労だらけな人生か、全てに恵まれた幸せだけの人生かは、この世に降り立つ前にちゃんと自分自身で選んで来るのですが、私達は、『誕生の神様』の魔法により、全ての記憶を消されてから、誰かのお腹に宿るので、どんな人生になるのかを本人は全く覚えていません。
実は親や兄弟や、人生で巡り会う重要人物たちも、自分にとってありがたくて良い人も、災いをもたらす嫌な人や悪い人も、全てちゃんと役割が決まって出演してくれています。
その学習内容に見合う人達と出会うようになっています。
激しい戦火の中に産まれるひと。
生まれて間もなくひどい病気になったり、親に虐待死させられたり、誘拐されたりしてしまうひと。
身体は健康だけれど、極度な貧困や苦しみが多く苦労する〜などなど……最も残酷に見えるような不幸な人生にはじまり、男女を問わず美しく生まれ、才能にも恵まれ、親や周囲の人々に愛され、大切にされ、何不自由なく育てられ、やがて自分自身も何かで成功し、楽しく幸せなまま人生を閉じるような、順風満帆だけの人生で終わる〜に至るまで、様々な人生モデルがあり、自分自身で自由に選択します。
ただし、どうしても変えられぬルールが一つだけあります。
それは一度選んだサンプルは二度と選べないシステムになっているのです。
なので誰もが一回ずつ、一通りの人生モデルを全部体験しなければなりません。
人生シナリオを一つ終えるごとに、いったん空の国にもどり、神様に教習終了のハンコを貰い、しばらく自由に休憩したり反省会をしたりしながら楽しく空の国で過ごし、再び次の人生モデルを選んでは、又、地上に降り立ちます。
こうして一通りの教習を全て終えたら、一番偉い神様の大ボスから卒業検定のような試験があり、合格すればその人は人間としての教習が全て終わります。晴れて人間卒業です。
その頃には魂は何の曇りもなく、ほとんどの人が透明ピカピカになっています。(^^)
そして卒業後は、人間としてではなく、今度は神様の一員として、教習に来た人間たちのお手伝い役に回ります。
それが八百万(やおよろず)の神様達のことだと思うのです。
重い障害を持って生まれたり、今の人生に辛いことばかりが多いなら、もうその人は、人間としての教習も終わりに差し掛かっているのではないでしょうかね。
なぜならば、やはり教習体験の浅い人間ほど、楽で楽しい、なるべく不幸のない人生から先に選んでいくと思うので、徐々に苦痛の多い人生モデルばかりが残ってしまいます。
でも、あまりに順風満帆じゃなにも学べず、つまらないんだと思いますよ。
艱難辛苦(かんなんしんく)をたくさん経験、体験してこそ、人の痛みが理解でき、真の優しさや思いやりや洞察力がそなわり、人間としての魅力や深みも増し、魂磨きになるのだと思います。(^^)
人生は長い長いリアルなRPGだと思います。
ゲームもスポーツも、敵もいなければ、邪魔もなく、なんのミッションやクエストも起きず、ただただスイスイ進めちゃうほどつまらないものはないですものね。
人生も同じだと思います。( ◠‿◠ )
難しくて苦労すればするほど、後にその意味や、その有り難み、やり甲斐が身にしみて分かるのだと思いますし、そのような多くの苦難を乗り越えた人こそ、見かけ倒しではない、真の成功者や偉人として崇められるにふさわしい人になれるのだと思います。
ちなみに、あまりに辛い人生モデルが残されると、途中でリタイア(自殺)したくなってしまう人がいますが、自殺をしてしまったりすると、大きなカルマ(ペナルティのようなもの)を背負うことになります。
そうすると次の人生は更に上乗せされた辛い人生となり、又それを一から生き直さなきゃなりません。
そこで又苦しいので自殺をしたくなります。
それでも死なずにちゃんと生き抜くかどうか神様が試すのです。
でも死んでしまうと延々エンドレスの再生地獄が……。
なのでどんなに辛かろうが酷かろうが、ちゃんと最期まで生き切り、一回ごとの人生は全クリして、そのカルマを早く消さないとなりません。
こう考えると、何か、不公平であまりにも格差が多い人間社会の仕組みや、人間の質や出来不出来のからくり等が、フムフムと納得できるような気が私はするのですよ。
幼い子供や小学生でも、神童と呼ばれるような才能がある子や、幼くても他者に優しく、素直で礼儀正しく、心の温かい素晴らしい子供も居るじゃないですかね。
かと思えば、いい大人でも、お年寄りでも、他者に冷たく、おおへいで、トゲトゲしく、偉ぶったり、人を貶したり、中にはとんでもない悪意に満ちた極悪非道な殺人者なども居るじゃないですかね。
それは、人間年齢は大人でも、まだ教習生に成り立てな人なのだと思います。
できた人は、例え幼い子供だとしても、もう何度も何度もこの世に教習に来ていて、そんな大人たちよりもその子たちの方が、大先輩にあたるのかもしれませんね。
なので私は素晴らしい子供を見たりすると、ああ、この子は私よりずっと大先輩なんだなぁ…と感心したりします。
大変長くなりましたが、最後まで読んでくれたとしたなら、とても嬉しいです。
あくまでもコレは様々な人々から聴いたお話や書物などの良い処取りをし、私なりにアレンジしてまとめた私の空想話です。
✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼
おなお、礼は、読みましたと言う簡単なもので構いませんので(^^)
★ この世とは汚れ切った真っ黒な魂を磨きに来るための、教習所のような場所だ
☆ ただわたしは 教習所を出たあと やはりこの《この世》で生きるためにこそ生まれて来ているとは思っています。
★ 私達は、『誕生の神様』の魔法により、全ての記憶を消されてから、誰かのお腹に宿るので、どんな人生になるのかを本人は全く覚えていません。
☆ これは プラトンですね。
★ ただし、どうしても変えられぬルールが一つだけあります。
それは一度選んだサンプルは二度と選べないシステムになっているのです。
☆ 人生は ふつう一般にそのつど《一回きり〔の選択〕》といったルールですね。
★ こうして一通りの教習を全て終えたら、一番偉い神様の大ボスから卒業検定のような試験があり、合格すればその人は人間としての教習が全て終わります。晴れて人間卒業です。
☆ そうですね。わづかにわたしとの違いは あくまでこの世での人生が 主役を演じる舞台なのだと思っているところですかね。
★ 重い障害を持って生まれたり、今の人生に辛いことばかりが多いなら、もうその人は、人間としての教習も終わりに差し掛かっているのではないでしょうかね。
☆ 私見を差し挟みます。
【Q:因果応報説――または 摂理観――によれば 世の不幸は 人類の自業自得である】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12909929.html
★ なぜならば、やはり教習体験の浅い人間ほど、楽で楽しい、なるべく不幸のない人生から先に選んでいくと思うので、徐々に苦痛の多い人生モデルばかりが残ってしまいます。
☆ 私見では 重篤な場合というのは 《アース役》となってミラーニューロン現象よろしく 篤い患者さんのヤマヒを受け留めあたかも引き受けたからだという見方です。
社会の中には ガミガミ役がいます。そのガミガミ電波をみづから進んでにしろ・いやいやながらにしろアース役となって 引き受け言わばゴミ処理工場となる人びとがいる。
つづく
No.44
- 回答日時:
私は目を病み、極端な視力の低下により、あまりにも長い質問文は読めませんので表題だけに対する私なりの思いを。
私は無宗教者ですが、精神論者やスピリチュアルに携わってる人々などの著書などを読み、私がこんななんだろうなあ。と納得したものを基にした私の空想や感想です。
難しい事や言葉はわからないので稚拙な表現をお許しください。
先ずは、私はですが、神様は必ずいると確信しています。
神様の大ボスがいて、八百万の神神たちがいて、私たち人間は、長い修行のもと、その神様たちの仲間入りをするために作られたのだと思います。
先ずは神様の大ボスが、この宇宙や地球をお造りになり、そのボス神様は、無償で地球に空気、大地、海、山、川、湖、鉱物、あらゆる自然や生物たちの作り手であり、わたしたち人間がそれらを上手に使い、活用しながら、神の精神を受けつぐべく、魂の透き通ったピュアな仲間を増やすため、人間を作ったのだとおもいます……。
もしかしたら、神様は一人ぽっちで寂しがり屋で、退屈していたのかもしれません。(^^;;
だから、退屈凌ぎに上記のものをお造りになり、ご自分の理想に叶った人々を神として仲間にしたく、人間を造ったのだと。
それが八百万の神々なのかもです。
私たち人間は何度も何度もこの地球に生まれ変わりに降りて来ながら、様々な人生体験を繰り返し、喜怒哀楽や艱難辛苦や、感動や、愛を学びながら、薄汚れた魂をピカピカに磨く修行をし、やがては神々の仲間入りをする。
そんな感じがします。
ご回答をありがとうございます。
★ 私は目を病み、極端な視力の低下により、あまりにも長い質問文は読めませんので表題だけに対する私なりの思いを。
☆ それは おつらいでしょうね。お気の毒に思います。
むろん 回答は自由に寄せてもらっていいです。
★ 私は無宗教者ですが、精神論者やスピリチュアルに携わってる人々などの著書などを読み、・・・。
☆ なるほど。はい。交流があるわけですね。
★ 難しい事や言葉はわからないので稚拙な表現をお許しください。
☆ いいえ。わたしとて わかりづらい・もっと短く表現せよと言われます。
★ 先ずは、私はですが、神様は必ずいると確信しています。
☆ ふむ。なるほど。ということは 《無宗教》と《無神論》とは別といったことですかね。
★ 神様の大ボスがいて、八百万の神神たちがいて、私たち人間は、長い修行のもと、その神様たちの仲間入りをするために作られたのだと思います。
☆ ええ。だいたいそういった共通の理解がありますよね。
★ 先ずは神様の大ボスが、
☆ わたしの場合 《神さまの大ボス》のことを 普遍神と言っています。
★ この宇宙や地球をお造りになり、・・・神の精神を受けつぐべく、魂の透き通ったピュアな仲間を増やすため、人間を作ったのだとおもいます……。
☆ おそらくさらに その《魂のピュアな人びと》は――みづからも一度は汚れた精神の持ち主になった経験があるはずで―― けっきょく人びとみんなの共生を問い求めて生きる・・・のだとは思います。
★ もしかしたら、神様は一人ぽっちで寂しがり屋で、退屈していたのかもしれません。(^^;;
☆ そうですね。神は 好かれようが嫌われ罵られようが ひとり満ち足りている存在だとは思っていますが その人それぞれに言ってみれば好きなようにあつかわれてもよいと言うような存在かも知れません。
★ だから、退屈凌ぎに上記のものをお造りになり、ご自分の理想に叶った人々を神として仲間にしたく、・・・
・・・
☆ はい。
★ ~~~
私たち人間は何度も何度もこの地球に生まれ変わりに降りて来ながら、様々な人生体験を繰り返し、・・・やがては神々の仲間入りをする。
そんな感じがします。
~~~
☆ といった共生の基礎を共有し おのおの生活現実を生きて行きたい・・・ものですね。
No.43
- 回答日時:
>>No.42
むつかしくて分かりましたとは言えないけれど そのような感じのことがあったと承知しました。
-----
三十年もコンピュータを勉強していた割には不出来かもしれませんけれど。コンピュータを本格的に勉強するのであれば、幾ら、お金があっても足りませんし。
繰り返すようですが。
アーキテクチャそのものがノイマン型から量子に変貌するなら、
知的財産が踏襲出来るとはとても思えませんけれどね。
人間にとって、他者というものはとても信用できないし、信頼が置けない。
だから、絶対的な信頼が置けるのはお金だとの強い叫びを感じますけれど。
物悲しい限りですね。
No.42
- 回答日時:
>>No.41
特許権などは 膨大な資料があるみたいですね。
------
私は小松製作所に93年に本社採用される訳ですが、配属命令が降ったのが、小山工場でした。8月末まで試用期間で9月1日から正式採用に至る訳ですけれど。職場の事故で心身が故障状態に陥り、僅か、三か月足らずで、小山工場を去ることになり、その心身の不調は2022年現在迄続く訳ですけれど。ところで、私は小山工場を去った後、本社人事部から、知的財産部の直属企業で、小松製作所の子会社である、コマツテクノブレーン株式会社に出向した訳ですが、益々、心身の体調は悪化するばかりでした。そこで、ちょくちょく、特許庁に特許出願・実用新案を持って、出掛けたりしていたのですけれど。自宅から水天宮まで通勤していましたが。オウム真理教事件の地下鉄サリン事件に巻き込まれそうになった経緯が私にはありましたけれどね。よく、出向先の子会社を出て、近隣に秋葉原駅があるものですから、UNIX専門店であった、「LASER5」、「ぷらっとホーム」に足繫く通いました。これらの店舗では店頭で、「FreeBSD」のCD-ROM版を梱包状態で売買していたのですね。昔はFreeBSD2.2.1からFreeBSD 5.2.1 までパッケージ化された、CD-ROM群を所有していましたが、ヤフオク!で売却してしまったと思われます。現在では、FreeBSDアーカイブで、i386 系なら、FreeBSD 2.1 からダウンロード版であれば、入手出来ますし、自分でCD-Rに焼き付けるのであれば、別段、製品版を購入せずとも、(元々、FreeBSDは寄付金で成立している、オペレーションシステムです)入手可能です。PC98版であれば、5.x以降しか、FreeBSDの本家サイトにはありませんけれど。昔、月刊アスキーが付録のCD-ROMとしていた、FreeBSD(98)もありますし、毎日コミュニケーションズが発刊していた、FreeBSDの付録にも、FreeBSD(98)はあります。今でこそ、消滅してしまった、Unix系のコマンド群もあって、mkisofs,cdrecord,dvdrecord とかコマンド群が昔(20年前) にはあったのですがね。今は、CD-burn,DVD-Burn とかCUI(キャラクター・ユーザー・インターフェイス)から、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)にツール類も変貌を遂げてしまったようですけれど。私がUnixを始めた時は、GUI化がUnix系列のOSは進んでいなく、CUIが主体でした。まぁ、マイクロソフト社のOSに例えるのであれば、MS-DOSはCUIでシングルタスクです。Unix系列のOSであれば、CUI,GUIもマルチタスクですけれど。
まぁ、FreeBSD(98)に絞るならば、FreeBSD(98)2.2.8からFreeBSD(98)8.4までがPC-98x1マシン対応のOSでしたけれど。
そうですね。
【PC9801/PC9821/国民機】用であれば、18禁ゲームとして一世風靡した、ゲームと言えば、エルフのドラゴンナイトシリーズと、同じく、エルフの同級生シリーズと下級生でしょうね。それと、アリスソフト社のアリスの館シリーズも大ヒットしましたし、ランスシリーズもヒットしたと思われます。昔は家電量販店に行くと、【タケル】という自動販売機があって、【PC9801/PC9821/国民機】対応のゲームソフトをフロッピーディスクに焼き付けて自動販売する大型機械(ジュースの自動販売機みたいな販売機)が小田急線向ヶ丘遊園地駅前から徒歩30分にあるダイクマ(現:ヤマダ電機)に置いてありましたし、ラオックスコンピュータ館調布店にも同じく【タケル】はありました。日本のコンピュータのハードウェアのシェア率が8割近くあった、日本電気社とセイコー・エプソン社の現実だったのが、90年代までの話でしたので。アリスソフト社の製品群は、音源対応がマルチ対応で、FM音源⇒MIDI音源に対応するよう改造プログラムを書く有志がいましたけれど。エルフ社に関しては、FM音源対応のみでプログラムの改造と言えば、エッチ画像を視れるよう、フラグの立ち上げをゲーム進行状況と無関係にしたのが、俗に言う、【Wizard】とそのファイラー(フロッピーディスク)でしたね。これらのソフトウェア開発と販売をしていた企業が「WESTSIDE社」でしたが、現在は倒産吸収合併された企業さんのようです。本社は大阪府にあったような記憶があります。ファイラー(フロッピーディスク)は当時の秋葉原価格で2000円で、エロゲ屋さんの片隅で販売していたのだと思われます。
なにせ、90年代初頭辺りだと、二倍速のSCSI接続対応のCD-ROMドライブが数万円は硬い時代背景ですからね。それに対応するがように、コンピュータゲームソフトウェアもCD-ROM版のゲームソフトウェアなんて先ず、見受けられることはなかったのですが。私が最初に購入した、【EPSON】PC-486 GR-Super でさえ、CPUの処理速度がi386DX で 3.5inchドライブx2,5.25inchドライブx1 の時代背景で、内臓CD-ROMドライブなんて先ず、見受けられない時代背景でしたので。
超エッチゲームソフトウェアと言えば、【LIBIDO社】が開発・販売していた、LIBIDO7 Impact (PC9801/PC9821/国民機) でしょうね。女子高生同士のレズビアン物語をゲーム化したのだと思いますけれどね。
そうですね。後は、【PC9801/PC9821/国民機】対応では、無音版でもあった、Wizardry Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ (サーテック社)(現:倒産)も大流行しましたね。この時代背景だとオートマッピング形式なるアイコンが付属したゲームソフト類でもありませんでしたし、レベルが上がって、ステータスダウンに至るかもしれない、3DRPGでしたけれど。又、ボーナスポイントはランダムに振り分けられる訳ですけれど。忍者なんてどうやっても転職不可能だと思われる程、難易度が際立っていたゲームでもありましたし。大体、コマンドをキーで書く形式で、コマンド(魔法群)が選択可能なゲーム作りでもなかった時代背景が90年代までのWizardryシリーズの現状でしたね。
ファイナルファンタジーシリーズはスクウエア社製でしたが、PC版のFFシリーズは一つも無かったんじゃなかったですかね。一方でドラゴンクエストシリーズで有名な企業である、エニックス社はドラゴンクエスト・ファーストのみは、MS-DOS(NEC)対応ゲームソフトで、しかしながら、マウスパッドには非対応であったことから、テンキーで操作するには難があり過ぎましたし、とても、プレイに耐えうるかと言えば、今でこそ、マウスパッド対応は至極当然ですけれど、当時(80年代~90年代)では、マウスパッド自体の需要も供給もあまりなかった時代ではなかったでしょうか。
後、【PC9801/PC9821/国民機】対応ゲームで度肝を抜いたゲームとしては、TGL社が販売していた、「ダンジョンマスター」シリーズでしょうね。恐らく、【PC9801/PC9821/国民機】対応では、「ダンジョンマスター」、「ダンジョンマスター・カオスの逆襲」、「ダンジョンマスター・スカルキープ」の三本立てでしょうね。
【PC9801/PC9821/国民機】用のアダルトゲームでお笑いとエロティシズムをドッキングさせた企業さんが「天津堂」さんでしょうね。「やんやん シリーズ」は笑えましたけれどね。
後、エロゲのバカボンとしては、「PIL社」が開発・販売したゲームソフトウェア類でしょうね。※ このゲームのプレイ動画をアップロードすると、YouTube運営側に違反通告を受けることになりますけれどね。
まぁ、【PC9801/PC9821/国民機】のハードウェアで周辺機器でユーザ泣かせなのが、MOドライブでしょうね。一台数万円は降らない上にハードウェアの寿命が短いのです。これは泣かされます。
後、昨日(2022/10/23 (日)), USB接続外付けハードディスク(Windows 11 対応) に格納されているゲームソフトウェアで【PC9801/PC9821/国民機】対応のゲームソフトウェアで仰天したのが、「上九一色村物語(ARM SOFT)」でしたね。後、私は知らなかったのですが、【PC9801/PC9821/国民機】対応で「赤ずきんチャチャ」のパロディ版があるみたいので、プレイ実況中継を動画として、アップロードしたいと思います。
以上
No.41
- 回答日時:
>> No.39
著作権は なるべく短い期間のほうがよいように思います。単純に。
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商標権・・・・・商標権とは、商品又はサービスについて使用する商標に対して与えられる独占排他権で、その効力は同一の商標・指定商品等だけでなく、類似する範囲にも及びます。 商標として保護されるのは、文字、図形、記号の他、立体的形状や音等も含まれます。 権利の存続期間は10年ですが、存続期間は申請により更新することができます。
肖像権・・・・・他人から無断で写真を撮られたり、撮られた写真が無断で公表されたり利用されたりすることがないように主張できる権利です。 肖像権には、人格権の一部としての肖像権と、財産権としての肖像権があります。 人格権の一部としての肖像権は、アーティストやタレントに限らず誰にでも認められる権利です。
https://www.jpo.go.jp/system/patent/gaiyo/seidog …
No.40
- 回答日時:
>>No.38
馬賊だとか軍閥といった事例もあったような。
----
秦の始皇帝の死因は病死ですけれど。傍を始皇帝の最期まで離れなかったのが、宦官である、趙高ですけれど。
項羽は楚の出身者で、出自は良く、若い頃には、武芸にも学問にも秀でることなく、だが、成人して、項羽は偉丈夫であったらしい。身長は今に直して、2mはあったとされています。
項羽と劉邦との戦いのことを楚漢戦争といい、劉邦は高祖劉邦となり、漢帝国四百年の建国の父でも劉邦はある訳です。
三国志は ダイジェストを読んだ記憶があります。たしかにおもしろかった。
その当時 たしかに義兄弟といった事態に心を躍らせていた。
No.39
- 回答日時:
>>No.37
そういえば かつて 五十年を七十年に延ばせとかいった話が出ていたような。
------
国内で著作権法が改正されたとは、うる覚えではありますが。どのように著作権法が改正されたのかは、私は存じ上げていませんけれど。
▲ (ヰキぺ:著作権法) ~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C …
§ TPP整備法による改正
TPP協定締結に関連する著作権法改正については、文化審議会は著作権法による音楽・書籍等の保護期間を70年へと延長する改正する方針を決定。
・・・2016年11月10日に衆議院、同年12月9日に参議院を通過し、同年12月16日に法律第108号として公布された
~~~
☆ すでに決まったんですね。
TPP 協議のとき アメリカから たぶんディズニーがこの著作権法でさらに儲けようとして 二十年の延長案が出されたといった噂を聞いたという覚えがありました。
アメリカ抜きの TPP ですでに その延長案は 決定となったのですね。知らなかった。
著作権は なるべく短い期間のほうがよいように思います。単純に。
No.38
- 回答日時:
>>No.36
龍というのは 象徴としてですかね。
----
故・司馬遼太郎(司馬遷に遥かに及ばないとの理由からのペンネーム)氏が「項羽と劉邦」という書籍をお書きに成れたのですけれど。項羽と劉邦の登場劇とは、秦王国の崩壊から始まる、戦国乱世の時代背景ですけれど。秦を立国したのは、始皇帝(幼名:政)であり、NHKで深夜アニメーションとして放映している「キングダム」のモデルとなった、春秋戦国時代を歴史的背景としている訳ですけれど、キングダムはフィクションを混ぜています。
ところで項羽は劉邦に、垓下の戦いまで全戦全勝でしたが、この垓下の戦いで項羽は劉邦に敗れ、自分の首を自分の剣で刎ねたと伝説的人物が項羽ですけれど。項羽は戦国武将でしたが、詩文にも長けていました。例えば、曹操の三男である、曹植を彷彿させるものが項羽にはあり、曹植自身が詩文に長け、後世に曹植は詩文を遺していますから。
俗にいう、劉邦とは遊び人で、任侠者で今でいうヤクザです。ヤクザが天下を手中に治めた訳ですがね。
どうも、龍のモデルになったのは、劉邦の面構えらしく、劉邦の顔貌は異形だったらしいですね。
古代中国には、異形は持て囃されるという、文化が当時の中華にはあったらしいのですね。
項劉記 PC-98 (1993)
No.37
- 回答日時:
>>No.33
アニメの使用料が要るのですね。
物語になっていますね。
----
例えば、芥川龍之介の作品が「青空文庫」
https://www.aozora.gr.jp/
に至っているのは、
龍之介の商標権も著作権も死後から数十年以上経過していることから、日本の著作権法だと、無料に至るのですね。(国家毎に著作権法は異なります)
ベートーベンも日本の著作権法だと、ベートーベンの商標権も著作権もないので、無料で「田園」「運命」「英雄」を例えば、YouTubeで視聴出来るのですが。(合法行為なので)
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A №2の1:
ご回答ありがとう。
▲ Es ist bekannt
神の唯一性を強調するとき、多神教的で普遍的な性質に一神教と多元主義を強調すると、汎神論が生じることが知られています。
☆ そうですね。《人知を超えたところ:非経験の場ないしチカラ:絶対性:または非知なるナゾの何ものか》として普遍神を立てるなら おのづと 多神教や汎神論の神々は 普遍神の分身だと規定されて来ます。
▲ Der Pantheismus ist
しかし、汎神論はしばしば一神教と多神教の両面に暗示され、古代から現代に至る神話の世界観においても、神は超越的で人間的であると認識されてきました。
☆ 超越的(=非経験の場・絶対性)と人間的(=経験事象・相対性)との共存は 普遍神について人間がそのように忖度するものです。
絶対性から相対世界へのハタラキカケがあるというのぞみです。
つづく
A №2の2
▲ Es gibt auch die Meinung・・・
近代科学の発展と無神論者からの批判の後に、この神の理解は修正されるべきであるという意見もあります。
☆ たいしたことではありません。
▲ Es gibt viele Menschen,・・・
人間や他の生き物のように、社会や自然の中で存在として認識できないものは何も観察できないという意味で、神の存在に疑問を呈する人はたくさんいます。
☆ 認識論として:
・経験事象:
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと証明された未知)
・非経験の場
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
incomprehensible incomprehensibility )
(認識としては 《有る神と無い神との重ね合わせ》)
つづく
A №2の3
▲ In der modernen Wissenschaft
現代科学では、それは想像上の概念を超えるものではなく、その物理的存在にとって有益ではありません.
☆ まちがいでしょう。絶対性の想定(アブダクション)に立つからには。
▲ Wer an die Abwesenheit Gottes
神の不在を信じる人は誰でも無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論者の立場に立っています。
☆ 非知よりみちびかれる。有神論と互いに同等。
▲ Auch ein Teil
一部の実存主義者も無神論を提唱しています。
▲ Und wer denkt
そして、神の存在が未知のもの( etwas Unbekanntes )であると考える人は不可知論者( Agnostiker )と呼ばれます。
☆ 《未知》は 経験事象であり 《不可知》も同じく。神は 《非知》。 用語が不確か。
№45お礼欄つづき
★ あまりに辛い人生モデルが残されると、途中でリタイア(自殺)したくなってしまう人がいますが、自殺をしてしまったりすると、大きなカルマ(ペナルティのようなもの)を背負うことになります。
☆ そうですね。わたしとしては 自殺の問題は 特に議論はないですね。やっちゃったなら もうどうこう言うこともなくなる・・・といった感じです。
★ なのでどんなに辛かろうが酷かろうが、ちゃんと最期まで生き切り、一回ごとの人生は全クリして、そのカルマを早く消さないとなりません。
☆ といった正当なと言えるコメントも わたしには ないですね。分からないと言いますか。
★ こう考えると、何か、不公平であまりにも格差が多い人間社会の仕組みや、人間の質や出来不出来のからくり等が、フムフムと納得できるような気が私はするのですよ。
☆ ご見解 承りました。
《人知を超えたところ》を 《人知では知り得ないところ》と規定したわけではないのです。また それを証明したわけでもない。
《人知を超えたところ》とは 《超えている》からには その場は(つまり神は) 言わば人知とその世界を覆い包んでいるとでも表現することができる。また それが 〔相対世界に対する〕絶対性です。
この絶対性なる神は ミケランジェロのアダムの創造の絵のごとく 指と指とが触れなんとしているかも知れない。
あるいは ニュートリノもごとく 神性=霊性=生命性の波がわれわれにやって来て 突き抜けているかも知れない。
さらにあるいは いつも神は われわれ一人ひとりに 言わばメールを送ってくれているかも知れない。
考えられるあらゆることが 可能だと想定し得るのです。また そんな雲をつかむような話は 御免こうむると突っぱねることも 可能です。
これが 神です。
№56
あたらしく このわたしが 《神についての・想定(アブダクション)による認識方法》を発表した。すなわち 世界で初めてのことだ・・・というので おどろいているということは 察することが出来ます。
落ち着いて 検証してみてください。
次が 理論化したものです。
【Q:神論です:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12020271.html