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日本史の山川の教科書に「第2次長州征討の時に薩摩藩は開国進取に転じていて長州藩を支持した」とあることに質問です。全然流れが分からなくて…①既に開国しているのになぜ開国進取?②薩摩藩は公武合体派からどういう流れで長州藩を支持したくなって倒幕派にまでなった?

質問者からの補足コメント

  • ペリーが来て開国したと思っていたのですが、開国してないのですか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/02 21:50

A 回答 (5件)

①既に開国しているのになぜ開国進取?


  ↑
攘夷運動が盛んでしたから
それに抗する意味がありました。



②薩摩藩は公武合体派からどういう流れで
長州藩を支持したくなって倒幕派にまでなった?
 ↑
薩英戦争で、列強の強さを認識し
攘夷が無理と解ったからです。

英国も薩摩の強さを認識し
以降、薩摩を援助するようになります。

尚、薩英戦争ですが被害人数は英国の
方が多かったです。
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>ペリーが来て開国したと思っていたのですが、開国してないのですか?


幕府が朝廷の認可受けずに勝手に条約を結んで、函館、横浜、長崎の港
を開港しただけです。
孝明天皇が尊王攘夷を唱えていたので、日本の多くの藩は水戸藩の
尊王攘夷を指示してました。
特に水戸藩と薩摩藩は緊密な関係でした、桜田門外の変に薩摩藩士が
参加していたのも、その流れからです。

生麦事件後に英国艦隊に錦江湾の砲台は壊されて、20万両の損害賠償
を払ってから、方針が変わったのです。
孝明天皇が崩御したのも大きな要因です。
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第二次幕長戦争が始まる直前、龍馬のあっせんで薩長同盟が設立。

当然、こっそりと長州の支援ですね。同時期、幕府の一橋慶喜は、長州を潰したら、次は薩摩だ。ってポロッと漏らしたという伝説もあります。これで幕府にすり寄ったりしたら、馬鹿でしょう。
生麦事件→薩英戦争後に、薩摩は急速に外国との貿易、関係を強めてます。外国製の武器、軍艦の価値が判ったゆえの行動です。
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薩英戦争で完膚なきまで徹底的に叩かれて、攘夷なんて絵空事の妄想だと気がついたのです。


四侯会議というのがあって、一橋慶喜、松平春嶽、島津久光、山内容堂の4人で幕政を牛耳ることになったのですが、一橋慶喜が大名ですらない島津久光を小馬鹿にしたことで島津久光が激怒して、公武合体の佐幕派から討幕派に宗旨替えしたのです。
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既に開国していたんじゃなくて、開国を主張していただけです。


実際の開国は九州の一藩が決められることではありません。

薩摩は今の武力じゃ外国に勝てないことが分かって
だったら長州と一緒に外国に助けてもらって幕府を倒そう…
つまり寝返り。「寄らば大樹の陰」そのままです。
この回答への補足あり
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