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名字とは私的に名乗るもので、姓は一族のルーツを示す公式な名前だそうですが、例えば徳川家康なら、名字は徳川で、姓は源(源氏の出ということになっているので)ですね。豊臣秀吉は名字は羽柴で、天下人になったとき、関白になるために近衛前久の養子にはいり、藤原姓になり、後に天皇から豊臣の姓をもらって豊臣秀吉を名乗るようになる。しかし、短い期間ですが、藤原姓のときもあったはずですが、そのときは藤原秀吉と名乗っていたのでしょうか?また、徳川家康は将軍になった後も源家康とは名乗っていないですよね(公式の文書では源家康と署名しているかもしれませんが)。なぜ、秀吉だけ、羽柴秀吉ではなく、豊臣秀吉と名乗っているんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 皆さんの回答を読ませていただいて、かえってますますわからなくなりました(笑)
    以下はネットからの引用です。

    ・例えば、足利尊氏の正式な名前は「足利又太郎源尊氏」と言って、足利が苗字、源が姓です。そして公式の場では「源尊氏」を使い、プライベートでは「足利又太郎」を使っていました。同様に織田信長の正式な名前は「織田上総介平信長」、西郷隆盛は「西郷吉之介藤原隆盛」と言います。

    これに即して言うと、豊臣秀吉の「正式名」は何となるのでしょう。徳川家康は?

      補足日時:2023/12/14 13:22

A 回答 (7件)

>源が姓です。



源は「氏うじ」であって「姓かばね」ではありません。
「八色の姓」も知らない人が、現代の「姓せい」とごっちゃに説明するから、おかしくなるのです。
「姓かばね」は、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8種類だけです。

氏(うじ)と姓(かばね)がセット「源朝臣」「平朝臣」「藤原朝臣」になっていない説明は、知ったかぶりの間違い説明です。

>豊臣秀吉の「正式名」は何となるのでしょう。徳川家康は?
「豊臣朝臣秀吉」これに羽柴藤吉郎などを付けるのはオマケにすぎない。
「源朝臣家康」これに徳川次郎三郎などを付けるのはオマケにすぎない。
朝廷文書で必要なのは、氏(うじ)と姓(かばね)。

皇學館大学教授 新田均
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/da …
織田信長は「織田 上総之介 平朝臣 信長」
徳川家康は「徳川 次郎三郎 源朝臣 家康」
西郷隆盛は「西郷 吉之助 藤原朝臣 隆盛」

改姓における豊臣氏と羽柴姓への誤解
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3 …
しばしば誤解されるが、秀吉は「羽柴」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することからくる錯誤である。
当時は氏と苗字を併用する習慣があり、そのなかで豊臣氏と羽柴姓は並行して存在、使用された。そもそも「羽柴」は単なる私的な名乗りである名字(苗字)に過ぎないが、「豊臣」は天皇が創始し朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。
氏と苗字は厳密に異なる存在であり互換不能であり、交換できない。秀吉が「豊臣」に改めたのはあくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は羽柴のままであったと考えられる。
しかしながらこの錯誤は一般に広く浸透しており、たとえば国民的歴史作家とされる司馬遼太郎も著書『豊臣家の人々』のなかで「羽柴の姓を豊臣に改め」などと記述している。
作家たちが間違いを広めたのです!!

秀吉が死去すると徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年(1603年)には家康が「新田」・「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として征夷大将軍となった。
池田輝政は右近衛権少将に「豊臣朝臣輝政」としての任官。
山内一豊は従四位下、土佐守に「豊臣朝臣一豊」としての叙任。
加藤清正は関ヶ原の戦いの恩賞として肥後一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。
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訂正


×豊臣姓 〇豊臣氏
×藤原姓 〇藤原氏
豊臣は、氏(うじ)で、姓ではありません。
現代の姓(せい)と朝廷の姓(かばね)は全く違います。

姓(かばね)は「八色の姓」という制度上、本来八種類ありましたが、
藤原氏が朝廷の役職を独占したとき、朝臣(あそん)を使い、みんなが藤原朝臣となり他の姓(かばね)は絶滅してしまいました。
これ以降、姓(かばね)は朝臣の一択。

氏(うじ)も100を超える種類がありましたが、源・平・藤・橘の4種類が最大勢力となり、他はほとんど消滅してしまいました。

皆が藤原朝臣を名乗ると、誰が誰だかわからない、区別をつけるために名字・苗字が生まれました。
しかし、名字・苗字は分家が名乗るべきもので、本家は名乗る必要が無いため、源頼朝や平清盛、そして豊臣秀頼は名字・苗字が無いのです。

そして、正しくは豊臣の秀吉で、後世の読者が「の」を読まずに広めてしまったのが現状です。
「とよとみひでよし」と読むのは「みなもとよりとも」「たいらきよもり」と読んでるのと一緒です。
でも「とよとみのあそんひでよし」「朝臣」を端折っている時点でどーでもよいのでしょう。
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とても良い質問ですが、誰も質問に答えていませんねw



>しかし、短い期間ですが、藤原姓のときもあったはずですが、そのときは藤原秀吉と名乗っていたのでしょうか?

豊臣をもらう前は、朝廷での書類上は藤原朝臣秀吉ですね。何かしらの「氏うじ」か「姓かばね」がないと朝廷の官位がもらえない。

>なぜ、秀吉だけ、羽柴秀吉ではなく、豊臣秀吉と名乗っているんでしょうか?

秀吉は当時、太閤殿下などと呼ばれていて、豊臣とは呼ばれていません。
あくまで朝廷での公文書に、豊臣朝臣秀吉などと記載されただけです。
秀吉は羽柴と豊臣を諸大名にバラまいていて、家康も豊臣朝臣家康だったり羽柴家康だったりしています。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/dd43ad2 …

豊臣秀吉という呼び名は、後世の創作話の上で作られた呼び名です。
源頼朝も当時は鎌倉殿などと呼ばれ、朝廷では源朝臣頼朝で、源頼朝と呼んだのは後世の作家です。
後世の作家たちが何故、羽柴秀吉を豊臣秀吉としたかは、秀頼の存在が大きいかと思います。秀頼は生まれながらの貴族で豊臣姓の宗家です。彼は平清盛や藤原道長などのように、名字・苗字を必要としません。
そうすると、豊臣姓の初代秀吉も、豊臣秀吉で良いとなります。
中臣鎌足が、藤原姓をもらってから、藤原鎌足と後世で呼よばれるようになった例と同じです。
でも豊臣の秀吉、豊臣の秀頼、「の」を付けないのはおかしい。
結局、作家が書いた文章を後世の人たちが勝手に「の」を付けずに読んでしまったのでしょう。

氏(うじ)姓(かばね)は、貴族の属性を表すもので、名字・苗字ではない。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13617379.html
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羽柴は丹羽勝秀と柴田勝家の羽と柴を繋げた姓。


あやかるためのモノ。その前は木下。寧々の婿ではなく、宇多源氏の木下家に行って得たという。その前は浅井の地で浅井姓。その前が藤原という。
豊臣は皇室に結んで尊さを表現。この人は公卿補任では平姓でした。
平秀吉。

浅井ということは茶茶の遠い親戚ですね。
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Wikipedia の「豊臣秀吉」の項によれば, 関白宣下においては「藤原」の姓で表されている. 自らがそう名乗ったかどうかはわからんけど.



なおちょっと調べると, 家康については「藤原系徳川氏」として「藤原家康」を自称していた時代もあったらしい. それ以前に「源元康」を名乗っていた資料もあるし, その後「源家康」の朱印もあるみたい.
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昔に名字がなかった奴隷階級の人々が、明治時代に名字を名乗ることを許された時に、自分達を使ってくれていた地主の名字を使う許可を得たから大量の名家風賤民が繁殖したと聞きました


藤原姓はなぜか明治時代から復活してその前は途絶えた名字だったと教師から聞いたことあります
真実かどうかはしりませんが
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姓は、古代王朝の氏族に関係(一族のルーツ)


苗字は、血族や血統に由来する家の名前(家系)
名字は、地域や所有地に由来する家の名前(土地を表す)

羽柴秀吉
羽柴の由来は、織田信長の家臣木下藤吉郎秀吉が戦功を上げて織田家で有力力家臣となった後、羽柴姓に改めた。織田家の重臣である丹羽長秀の「羽」・柴田勝家の「柴」の二つにあやかる。
豊臣の由来は、羽柴秀吉が朝廷に上奏し賜った姓。
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