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大谷君の出身から偶然調べてみましたが
源義経って頼朝と異母とかいてありましたが、だから感情無く追い立てる事ができたんですかね?

A 回答 (2件)

異母兄弟だから感情なく追い立てることができたというより、頼朝が弟たちに対して何ら特別な感情を抱いていなかったゆえではないかと。



頼朝の父・義朝はこの時代にはありがちなことですが多くの女性との間に子をなしていました。そして、息子たちは各々母方の実家で育ち、京近辺のみならず東海道筋に散らばって育っていたため、悪源太義平から九郎判官義経に至るまで一つ屋根の下で育った兄弟というわけではなく、他人も同然の育ち方をしていました。
故に、頼朝は特に他の兄弟と幼少期に共通の体験をしていたというわけではなく、兄の悪源太義平・松田冠者朝長と仲が良かったというわけでもありません。ましてまだ乳児であった義経については何の感慨もなかったでしょう。
辛うじて、平治の乱で父に従い従軍した義平・朝長、同母弟の義門・希義とはある程度の交流があったと思われますが、彼らは保元の乱の直後に希義以外処刑されており、希義は頼朝挙兵の報が京に伝わると直ちに配流先の土佐で平氏によって討たれました。六男にあたる蒲冠者範頼、七男以下にあたる常盤御前の息子たち(阿野全成、義円法師、九郎判官義経)とは面識すらなかったと考えられます。

また、同母兄弟でも殺し合いな例は古今東西枚挙に暇ありません。それどころか頼朝・義経兄弟の父・義朝は保元の乱の後、実の父・為義まで弟たちと共に処刑させています(平氏及び兄の手から生き延びた数少ない弟が志田三郎先生義広、新宮十郎行家)。

同母兄弟殺し合いの例で言えば、時代は異なりますが足利尊氏・直義、織田信長・信勝(信行とも)、伊達政宗・小次郎などが有名です。一般庶民でもありそうな相続などを巡る感情的な対立の他、一族の跡目争いを巡る家臣たちを巻き込んだ争いになることもあり、往々にして血を見る争いになります。同母兄弟が仲良く、という例もないことはないのですが、基本的に武家の兄弟の成人後は冷ややかな関係が多いように見受けられます。

視点を変えますと、挙兵後の頼朝は武家の棟梁・鎌倉殿として坂東の御家人に号令する立場であり、実の弟である蒲冠者範頼や阿野全成・九郎判官義経に対しても何ら特別視することなく他氏の御家人と同様に扱う意図がありました。範頼は富士の巻狩りにおいて頼朝の消息が一時不明になった際、後世から見れば何気ない言動を咎められた程度で追放・暗殺されています(生存説もあり)。
生育環境からくる異母兄弟への縁の薄さに加え、こうした頼朝の方針もかなり兄弟たちへの扱いに影響したものと考えられます。
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理由の一つではあったかも知れませんけど、実の兄弟でも殺伐とした関係だった例なんて歴史上には山ほどありますので、そこはあんまり重要なファクターではなさそうに思います。

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