プロが教えるわが家の防犯対策術!

尊王攘夷派が勝ったのに、なぜ異国は入って来たの?

A 回答 (16件中1~10件)

彼らは尊皇を続けましたが、攘夷は捨てました。


なぜなら軍事力で圧倒的な違いを見せつけられたのです。

薩英戦争では辛くも薩摩藩は大敗を喫さなかったものの、イギリスの軍事力の前に、これ以上戦っても勝てないと悟り、イギリスと和解の道に進みました。

一方で長州藩は下関戦争による米英仏蘭の連合軍に大敗を喫し、加えて攘夷を辞めた薩摩と朝廷にはしごを外される形となり、強硬な攘夷派は排除される結果になりました。

攘夷派の一方で伊藤博文や井上馨と言った融和派が下関戦争後の後始末を請け負ったことで、彼らは明治政府になって大きな力を得ることになりました。

薩摩にしろ長州にしろ、倒幕の動きに入ったときには攘夷を捨てていました。
    • good
    • 0

討幕派の者どもからすると、自分達の主人である殿様が幕府の家臣だったわけで、それなのにその幕府を倒すというのだから、普通に考えたら反逆者だ。


俺たちは幕府を倒す反逆者になるので、みんな手を貸してくれと言って、よしわかったと言うだろうか。
そこで天皇をと思ったのだが、幕末期の天皇は幕府に従うという考えの持ち主だった。そこで邪魔な天皇を暗殺して、子供に天皇の座を継がせた上で何もわからない子供の天皇を担いで倒幕を計ったのだ。
当時、孝明天皇はまだ35歳で、病気も何もなく健康そのものだったのに、ある日突然死んだのだが、勿論病気で亡くなったと言うことになっている。しかし、明治になって情勢が落ち着いたので、孝明天皇の死因を調べようとする人たちが現れたのだが、明治政府は孝明天皇の死因を調べることを禁止にしたことからも暗殺であることは間違いないことだし、明治政府が死因を調査することを禁止したと言うことは、明治政府の重鎮たちが暗殺に関わったと言っているのと同じだ。
それではいったい誰が天皇を殺したのかと言うことになるのだが、天皇を殺せるような人物は極めて限られている。公家の中に謀略が得意だった人物がいるが、この岩倉具視が殺したというか、彼以外には考えられない。
殺された天皇は迷惑も良いところだが、逆に言うと天皇というのはその程度の存在でしかなかったのだ。
明治政府の主立った人間は、皆武士と言っても最下層の田舎侍ばかりなので、これがかつては顔を見ることも出来なかったお殿様や家老などの重臣を相手に政をやろうとするのだが、そんなことができるはずもない。
身分制度の下で生まれ育った者にとっては、殿様は絶対的な主君であり権威の象徴でもあったわけで、そのさらに上にいた将軍に刃向かうのだ。
そこで天皇にものすごい権威付けをさせた上で、天皇の要請によって、という名目で、好き勝手なことをやり始めたのだ。
尊皇攘夷なんて、目的を遂げるための方便以外の何ものでも無い。
    • good
    • 1

攘夷は、建前。


攘夷を指示した天皇が死んで新天皇に交代した時点で、リセット。
旧幕府が外国と交わした条約は、そのまま引き継ぐしかなかった。
長州は、馬関戦争、薩摩は、薩英戦争で、外国の国力を知りました。まぁ、少年漫画によくあるも大きな喧嘩した相手が親友になるというパターン(笑)
    • good
    • 1

人手不足だったんじゃないですか。

    • good
    • 0




NO1の回答『異国の助力』 詳細指摘箇所

https://youtu.be/ESCuuymqd0o?si=dDONsPLWmcvuBJuq …
    • good
    • 0

日本人は原理原則が無いのです。



悪く言えば節操がない。

良く言えば融通無碍。

大東亜戦争の時は、鬼畜米英
でしたが、
終戦になったら、手のひらを返しました。

原理原則が無い。

こういう国は、ナンバーワンになるのは
難しいです。

その代り、環境適合性に優れている
ので何時までも生き残ります。



尊王攘夷派が勝ったのに、なぜ異国は入って来たの?
 ↑
尊皇攘夷をやっている間に
列強の実力を知って
方向転換をしたのです。

簡単に方向転換出来たところが
いかにも日本的です。
    • good
    • 1

流れw



尊王攘夷ってのが外国強すぎで無理ってなって、振り上げたこぶしが討幕に変わって、幕府が国内で争ってる場合じゃないって大政奉還のウルトラCをやって、全員で開国すっぺってのが明治維新w
    • good
    • 1

ただ討幕のための口実です。

    • good
    • 4

もともと尊王攘夷じゃなかったから。

ただの討幕、要はクーデターの看板です。確かに最初は攘夷を真面目に考えていた藩もあったんだけれど、実際にやってみた(薩摩とか長州)ら手も足も出ずコテンパン。で、攘夷を望んでいた天皇もそれを見て無理筋を悟って攘夷の意欲は失せました。だから途中からはなんちゃって尊王と討幕になったんですよ。
 これは蛇足ですが、考えてみりゃあ徳川幕府ははなっから尊王で、開国を目指すという点では改革派だったわけですから、攘夷を掲げた討幕派は守旧派だったということになります。今じゃ「維新」って改革派的な言葉で使われますけれどとんでもない話です。当時は「ご一新」といってたのを、明治政府が自分たちの正当性、改革性をアピールするために作ったのが「維新」という言葉といわれています。
    • good
    • 2

尊王と攘夷は別の事柄です。


尊王は水戸学の教え・考えで天皇を大切にした行政をするです。
攘夷は歴代の中国王朝の考えで、夷狄を打ち払う事です。
孔明天皇が攘夷論者だったので各雄藩は軍備増強をしましたが、
薩摩と長州は英国海軍に完敗しました、青銅製の大砲では、太刀打ち
出来なかったのです、それで欧州の文化を取り入れるべく開国に、
政策を転換したのです。
軍事力強化の為に欧州列強から軍事顧問と技術者を破格の高級で
向かい入れました。

日本がギリギリ危うい処で、欧州列強の植民地に成らなかったのは、
水戸学で育った徳川慶喜が大政奉還の英断をした事に有りと、
個人的に勝手に推察してます。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A