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体育教師からこんなことを言われました。体育は、人との関わりがしんどいため、見学が多いです。

英語、数学などの授業には出席できるのに、なんで体育の授業には参加できないの!?体育教師の私に対して、失礼じゃない!?

その体育教師は、私の担任であったこともあり、私が対人関係が苦手なのを知っています。

この教師が上記のように言った意図、思いが分かりません。ご回答よろしくお願い致します。

A 回答 (1件)

恐らく、「対人関係が苦手」と、体育における「人との関わりがしんどい」が、その先生の中で全く結びついていない・結びつけることすら考えられないレベルでありえない事態なのではないかと。



今日日、英数や地歴公民、理科でもグループワークは相応に行われている(と思いますが)ので、他教科では人と関われるのになぜ体育ではダメなの?と、そこのところが全くもって理解不能なのでしょう。

かく答えている私も、文面だけからではどのように「体育での、人との関わり」にしんどさを感じているのかが分かりかねているため、外している可能性もあるのですが、推測から。

一般に、教員はその教科が好きな人が選ぶ職業で、担当教科が中学・高校で得意な人がなることが多い職業です。とはいえ、国社数理英あたりは「小学校では苦手だったが中学で好きになった」「小中では苦手だったが高校で克服した」なんてこともそこそこある教科ですから、「できない」子の気持ちも少しだけ理解できる人が存在します。「好き」と「得意」には、少しだけズレがあるかもしれません。

体育と音楽の教員の場合、幼少時から(下手をすると小学校以前から)普通にクラスメイトより段違いに上手で、先生から褒められクラスメイトからは賞賛されるからみっちりと練習をしていて、高校卒業までずっと体育(または音楽)が得意科目であり続けた人たちばかりです。彼らは「試合で負けた」とか、「できない技ができるようになった」とか、「自分より上手なプレイヤーがいた」といった挫折経験はありますが、根本的に「身体が意思通り動かない」ことに対する想像力を養う機会なしに教員になっています。

最近X(旧twitter)でも、「体育を恨んでいる人がこんなにいるなんて想像もしていなかった」という趣旨の書き込みが話題になりましたが、彼らは試合に負けた子に寄り添うことはできます(どれほど優秀な選手でも、練習試合も含めて生涯無敗ということはありえない世界ですし)。しかし、そもそも体が意図通り動かない子に対する配慮はほぼほぼ不可能です。彼ら体育の教員にとって、身体というものは一見で明々白々な身体障害や老化以外の理由で意図通り動かないということは「ありえない」のです。

体育の授業における「人とのかかわり」は、(1)球技における味方チームとの連携や相手チームとの攻防、個人戦での対戦相手との駆け引き(2)適当にペア組んでー、などという形で準備運動でも他者を能動的に意識することを求められる、(3)他教科(特に講義形式授業の時)ならば他の生徒の視線をほぼ意識しなくとも良いが、体育では(音楽でも)自分の一挙一動を全ての生徒に見られている感覚、の3つに分けられるかと思います。
(1)が苦手な生徒は、例えば体操競技出身者にも見られるため体育教員の想像の範疇なのですが、(2)(3)について体感的に理解できる体育教員はほぼいないでしょう。なぜなら、特に(3)で下手な・「変な」動きの子供に対するいじめの多発する小中学生年代を、体育教員は体育の先生に褒められながら過ごしているので、全く別世界の話(年代によっては、むしろ先頭に立っていじめに走っていた輩すらいるかもしれない)として過ごしているからです。

※いや、俺・私も**が練習でできなくて恥ずかしい思いをしたぞ、という体育教員の方もいるのでしょうが、それは恐らく部活やリトル・シニア・ユースといった選ばれし集団の中での話であって、通常の体育の授業で晒し者のレギュラーメンバーを体験した人は「絶対に」体育教員にはなりません(断言)もしいたとすれば貴重な人材ですので、どうか「俺にもできたことだからお前にもできる」と体育嫌い&苦手な子を引き摺り回すことなく寄り添ってあげてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうます。運動だけ出来てもダメですね。人の気持ちの分かる先生が増えることを祈ります。

お礼日時:2024/12/30 22:07

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