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1131年生まれで、清盛の異母弟。母は藤原宗兼の娘の宗子(池禅尼)。

先週の大河で重衡に南都行きをすすめていましたが、
この頼盛の一族はその後どうなったんですか?
栄えたんでしょうか。

A 回答 (3件)

ここ


http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105. …
によれば、それなりに分家などは存続していったみたいですね。まあ栄えたとまでは言えないでしょうが。
なお、頼盛は鹿ケ谷事件への関与も取りざたされていたり、助命嘆願の件など、かなり平氏一族でありながらむしろ「反・清盛」の活動をしていた形跡があり、またくだんの光盛の妻は、のちの鎌倉幕府創業の功臣のひとり大江広元の一族であったりします。
つまるところ源平合戦とかいいますが、実際は平氏のうちの清盛の一族と、関東・奥州などの反主流(というか主流になれずに地方で実力を持った一族。北条氏のように実は平氏(といっても清盛とは遠すぎて親戚とはいいがたい)もいましたし)の争いであったわけで、頼盛は清盛の異母弟ですが、子孫ではないのでまあ主流からはずれていたのでしょうか、この反・清盛の党派に内通していたようですね。
なお#2さんの仰る久我家は村上源氏で、いわゆる公家源氏の本流ですが(女優の久我美子さんはそこのお姫さまです)北条氏や平氏ともいろいろと縁を結んでおり、この「受け継いだ所領」とともに源氏長者になったと考えられています。
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平頼盛はその所領を安堵されて、頼盛自身は明確には御家人という行動はとってはいませんが、その所領を相続した子孫は幕府の御家人となって、鎌倉幕府の滅亡まで奉公を続けています。


ただ、頼盛の子のうちその所領の大半を相続した光盛は源実朝の暗殺現場に居合わせ、ほうほうのていで京都に逃げ帰ってしまい、その子供たちも出家するなどして鎌倉へ伺候することがなかったために、光盛家は史実上断絶して、その所領は頼盛の孫娘の婿となった公家の久我家にうけつがれました。
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母親の池禅尼が頼朝の命を助けた事で、平家滅亡後も一族は所領を安堵されていたはずです。


歴史上は名前が出てこないので、それなりだったのでは。
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